序章: 鍛冶場の少年
国王夫妻の崩御から1年。
鍛冶師見習いの少年カイトの前に、行方不明の王女イレーネが現れる。
彼女はカイトに告げた――わたくしは命を狙われている、と。
序章になります。お手に取っていただければ幸いです。
後書きに用語解説あります。
※pixivにて同名で同時投稿しています。
※2025/11/03 軽微な修正を行いました。
漆黒の旗が、風に翻っている。
その揺らめきはどこか重く、夕暮れの街にひときわ濃い影を落としていた。茜色の空に鐘の音が響く。五度目の鐘が鳴り終わるのを聞きながら、カイトは石畳の道を息を切らせて駆けていた。
――早く帰らなければ。
息が白く散り、靴音が夕闇の街路を裂く。通りを行く人影はまばらで、その誰もが家路を急いでいた。暗い沈黙が、街全体を包んでいた。
国王夫妻の崩御から、まもなく1年が過ぎようとしていた。この国では、尊き者の死に際して弔旗を掲げ、外出を慎み、喪に服すというしきたりがある。本来は騎士以上の身分にのみ課されていた謹慎令だったが、やがて平民の間にも広まり、令が廃された今もなお、慣習として根強く残っていた。
「……母さん、怒ってるだろうな」
いつもは溌溂としたそのまなざしも、今は不安に揺れている。
カイトの母は、伝統としきたりを何より重んじる人だった。規律からの逸脱を決して許さず、たとえ幼い子供であっても容赦がない。カイトがまだ幼いころ、一度だけ、祭日の礼拝を怠けて遊びに出かけたことがあった。その日は尻が腫れ上がるまで枝鞭で打たれた。以来、カイトが礼拝を欠かしたことは一度もない。そんな母が、息子の遅い帰宅を黙って見逃すとは、到底思えなかった。
大通りを外れ、工房の立ち並ぶ路地に入る。日中は喧騒と熱気に包まれているその場所も、今は金属と灰の匂いだけを漂わせていた。無人の工房を横目に、カイトは薄暗い小路を進む。通りの角を3度曲がった先に、彼の家はあった。
周囲とさして変わらない質素な造り。その戸口には黒い旗が掲げられ、扉には白い花輪が飾られている。これも、この国における喪中のしきたりの一つだった。
均整の取れた家並みの中で、カイトの家だけが、わずかに空気を違えていた。扉に掛けられた花輪は他の家とは異なり、どこか柔らかく、静かな印象を残している。――リーリエと、たしか、ネルケだったかな。
花の種類まで厳しく定められているわけではない。だが、貴人、中でも王族への弔意を示す際には、たいてい国花である薄雪草が選ばれる。にもかかわらず、カイトの母はそのニつの花の組み合わせにこだわっていた。
深く息を吸いこみ、重い戸に手をかけた。家の中は思いのほか暗く、ひどく静かだ。出かけたんだろうか。こんな時間に――まさか、母さんに限って。
そんな考えが胸をよぎって、カイトは視線を巡らせた。壁に掛けられているはずの母のショールが見当たらない。しかし、外出用の靴はそのままになっている。それを確かめて、カイトは肩の力を抜いた。
勘違いか――そう胸を撫で下ろしかけたとき、暗がりの向こうから軋むような音が響いた。
「母さん……?」
確かめるように呟く。息を潜めたような間の後、階段の奥から、微かな衣擦れの音が降りてきた。一歩ずつ、影がゆっくりと形を取って現れる。
「……随分、遠くまで行っていたのね」
階段を降りてきた母が、静かな声でそう告げた。唐檜の幹を思わせる毅然とした立ち姿が、薄闇に浮かび上がる。
「お、遅くなってごめんなさい。今、戻りました」
カイトは慌てて頭を下げた。しかし、母はすぐには答えなかった。一瞬、彼の肩越しに視線を逸らし、背後を探るように目を細める。その仕草が、なぜかいつもより慎重で、張りつめたものに見えた。
「夕餉の支度はできているわ。荷物を置いたら、居間へいらっしゃい」
その声は穏やかでありながら、かすかに震えていた。言葉を終えると、母は踵を返した。階段を上っていく背中が、わずかに揺れて見えた。足音が一段ごとに遠ざかるにつれ、家の静けさが、またゆっくりと戻ってくる。
一体、どうしたというのだろう。胸の奥に湧き上がる不安を宥めるように、カイトは外套を脱ぎ、壁に掛けた。いつもなら、帰りが遅れたことを開口一番に叱りつけられ、どれほど謝っても、夕餉にはありつけなかったはずだ。けれど先ほどの母は、どこかが違っていた。その眼差し一つで嘘を見抜くような、冷たい鋼のような雰囲気はそのままだ。けれど、その口調も、振る舞いも、カイトが知る母とは異なっているように思えた。
カイトは壁にかけた外套を見やりながら、胸の奥のざらつきを抑えきれずにいた。母の声は穏やかだったのに、その穏やかさの奥に、何かを隠すような硬さが潜んでいた気がする。叱られずに済んだというのに、違和感が薄い霧のように胸の中に広がって、カイトを落ち着かなくさせた。
階段を上る足音は、すでに止んでいる。家の中は小さく息を潜めたように静まり返っていた。耳を澄ますと、二階のどこかで衣擦れのような音がした。ほんのわずか、何かが動いた気配。カイトは違和感を振り払うように首を振り、慎重に階段を上って行った。床板が小さく軋むたび、音がやけに響く。
扉の前に立つと、暖炉の光が隙間から洩れていた。見慣れたはずの光景なのに、なぜか今日は、その光が遠く感じられた。この奥に、何かが待っている。直感がそう告げていた。
カイトは深く息を吸い込み、静かに扉に手をかけた。
――戸を開けた瞬間、焔の明かりが彼の頬を照らした。その光の中に、母と、見知らぬ二つの影があった。
一人は、ショールを目深く被った少女だった。顔はほとんど見えないが、わずかに覗く輪郭は整っていて、気品を感じさせる。姿勢は真っ直ぐで、動かぬままカイトを見つめていた。よく見れば、彼女の顔を隠しているショールは母のものだ。焔が揺れるたび、彼女の頬をかすかに照らす。その肌は雪のように白かった。
もう一人は、背の高い青年だった。鋭い目が、カイトをまっすぐに射抜く。少女を守るように控えるその立ち姿には、緊張を隠しきれない、張り詰めた気配があった。
母が、ゆっくりと顔を上げる。
「……カイト。話さなければならないことがあるの」
その声は、薪のはぜる音に紛れるほど静かだった。
焔の明かりが揺れ、壁に影を落とす。カイトが一歩踏み入れると、三つの視線が一斉に彼をとらえた。母は炉のそばに立ち、指先で椅子の背をそっと掴んでいる。少女は膝の上で手を組み、沈黙のまま彼を見つめていた。細い指が、硬く握られている。
母の唇がためらいに揺れるのを見て、カイトは息を呑んだ。
「驚かないで……この方は、イレーネ殿下よ」
声が落ちた瞬間、空気が張り詰めた。
カイトの心臓が、どくん、と音を立てた。
「イレーネ殿下、って……あの……?」
声が掠れる。母はカイトを見つめるだけだった。その沈黙が答えとなり、現実がゆっくりと形を成していく。困惑したまま、カイトは少女に視線を向けた。
少女――イレーネが、ゆっくりと顔を上げる。
焔が白皙の頬を照らし、長い睫毛が影を落とした。豊かな髪が、呼吸に合わせて微かに揺れる。月のような冷たい美貌――それでも、瞳の奥には静かな炎が宿っていた。
近づけばその中に飲み込まれてしまうような気がして、カイトは知らず知らず後退していた。それを認めて、王女が口を開く。
「すまない……怖がらせるつもりはなかった」
低く穏やかな声だった。ひとつひとつを確かめるように発される言葉が美しく響く。
――高貴な人の話し方だ。そう思った瞬間、母の言葉が現実の重みをもってカイトに迫ってきた。
「陛下が崩御してから、この一年――殿下はずっと追われているのよ」
わずかに震える声で、母は静かに告げた。その言葉に反応するように、壁際にいた青年が、わずかに身を乗り出す。焔がその横顔を照らした。彼の瞳には、警戒と焦燥が入り混じっている。
「……本当に、彼を信じていいのですか」
低く押し殺した声が室内に響く。焔の明かりが、青年の影を壁に長く引き延ばした。
刺すような視線を受けて、カイトは息を詰まらせた。母が、すぐに一歩踏み出して間に入る。
「この子は、私の息子です。誰よりも信頼できます」
その声には、鋼のような力強さがあった。
「……ヴィル、わたくしは夫人を信頼している。それはお前も同じはずだ」
母の言葉に続けるように、イレーネが青年を諫めた。彼はしばし沈黙し、それから静かに目を伏せる。そのわずかな動きに、内側で揺れる思いがにじんでいた。
「礼を失した発言でした。非礼をお詫びいたします……君も、すまなかった」
彼はそう言って母とカイトに頭を下げた。表情こそ硬いが、その声には誠実さが滲んでいた。
青年が顔を上げるのと同時、暖炉の火が揺らめき、四人の影が壁に重なった。その一瞬、イレーネの瞳がふとカイトをとらえる。その光は、手を伸ばせば触れられるほど近くにありながら、どこまでも遠い。
――夜明けの星みたいだ。
炎に煌めくその瞳を、カイトはしばし見つめていた。
◆
その日の夕餉は、いつもより少しだけ豪華だった。
普段は薄い麦粥と硬いパンだけの簡素な食卓に、今日は木皿に切りそろえられたチーズと干し肉が添えられていた。麦粥には刻んだ玉ねぎやパセリが普段より多めに入れられ、さらに香草と葉物が加えられていた。立ち上る湯気が淡く香りを漂わせる。杯に注がれた葡萄酒もまた、めったにない贅沢だった。
食卓についたときには緊張で身を固くしていたカイトも、目の前の料理に自然と目を輝かせた。貴人をもてなすには質素だが、彼にとっては十分なご馳走だった。
カイトは皿を見下ろしながら、先ほどの母とイレーネのやり取りを思い出していた。母は当初、王女と卓を囲むわけにはいかないと固辞していた。それにイレーネが「構わないから」と告げたのだ。
温かな料理と柔らかな灯りに包まれて、張りつめていた空気が少しずつ和らいでいく。
食前の祈りが終わると、それぞれが皿へ手を伸ばす。ヴィルだけはまだ手を付けず、目を閉じて小さく祈りを続けていた。
カイトは粥を食べながら、ちらとイレーネの方を見た。
彼女は、銀の匙に小さく千切ったパンをのせ、それを葡萄酒に浸してゆっくりと口元へ運んでいる。カイトは思わず目を瞬いた。その匙は母が嫁入りの折に持参したもので、彼の記憶する限り、その匙が使われたことは一度もない。丁寧に磨かれた銀が、他の器とは異なる静かな光を放つ。イレーネの手元で動くたび、周囲の空気まで清らかに感じられた。
――なんて優雅な食べ方だろう。
カイトがその所作に見惚れていると、それを見咎めた母が静かに彼を諫めた。
「カイト、貴婦人の食事をそのように見るものじゃありません。不躾ですよ」
「ご、ごめんなさい……」
身をすくめるカイトに、イレーネは微笑みながら言葉を添えた。
「行儀が悪かったかしら。黒いパンは、まだ食べなれていなくて。こうして柔らかくしないと、咀嚼が難しいの」
その控えめな笑みと穏やかな声に、カイトは顔を赤らめ、思わず言葉を返した。
「そ、そんなことは!とても上品に召し上がっているから、つい見惚れちゃって……!」
ごめんなさい、と頭を下げるカイトに、一瞬目を丸くしたイレーネは、次いで、気まずげに眉尻を下げているカイトの母を見て、にこりと笑った。
「ブロートバウム夫人は、良い子息を育てられましたね」
母はその言葉にわずかに目を伏せ、静かに呼吸を整えた。つと顔を上げたときには、もうその表情に揺らぎはなかった。
「身に余るお言葉、恐縮にございます」
美しい所作で礼を返した母の瞳の奥に、どこか遠い日の影がわずかに揺れているのをカイトは見逃さなかった。
イレーネは一つ頷き、皆に食事を再開するよう合図した。穏やかな沈黙が食卓に戻る。
カイトは、パンを葡萄酒に浸して食べてみた。爽やかな香りが口いっぱいに広がる。――なんて贅沢な味だろう。急いで食べてしまわないよう、カイトは慎重に、パンを浸しては口へ運んだ。
暖炉の火が揺れ、薪の爆ぜる音が穏やかに響く。食卓全体が静かな温もりに包まれていた。母もヴィルも肩の力を抜き、イレーネも落ち着いた所作で食事を続けている。張りつめていた空気がようやくほどけ、穏やかな時間が流れていた。
その姿を見ながら、カイトの胸中でずっと抑えていた疑問が少しずつ形を取りはじめていた。
――どうして、殿下がアイゼンタールに?王都で、いったい何があったんだろう……。
聞きたいことは山ほどあった。けれど、軽々しく口にしてよい話ではないことも分かっていた。だが今なら――この静けさの中なら、もしかしたら聞けるかもしれない。
カイトは木杯を両手で包み、葡萄酒をひと口含んだ。やわらかな酸味が喉を通り過ぎていく。胸の鼓動が、静かな部屋の中でやけに大きく響いて感じられた。
4人の杯が乾いたころ、カイトは覚悟を決め、意を決してイレーネに尋ねた。
「あの、イレーネ殿下。殿下は、誰に追われているのですか。どうして、このような場所にいらしたのですか。……一年前、王都で一体何があったのです」
カイトは、言葉を発するうちに胸の奥が締めつけられるのを感じた。口に出した瞬間、胸のどこかに沈んでいた緊張が、再び息を吹き返したのだ。声は上ずり、最後の言葉はかすれて消えそうになった。
問いかけに、誰もすぐには答えなかった。4人の間を、沈黙だけが静かに満たしていく。イレーネもヴィルも、そしてカイトの母も、それぞれ目を伏せ、言葉を探すように動きを止めていた。
やがて、コトンと乾いた音が響く。カイトが視線を向けると、ヴィルが杯を握りしめたまま、悲痛な面持ちで俯いていた。
「殿下をここへお連れしたのは、俺の判断でした。……ある方が、アイゼンタールのブロートバウム夫人を頼るようにと仰せになった。その言葉だけを頼りに、ここまで来たのです」
ヴィルは言葉を飲み込み、沈黙に戻った。長い旅路の記憶が、その背に影のように沈んでいる。
母が静かに口を開いた。
「私がここに嫁ぐ前、王都にいたことは話したことがあったけれど、王都で何をしていたか、あなたに話したことはなかったわね」
そうだった、とカイトは思った。母は北部の出身で、父と結婚するまでは王都で暮らしていたと聞いている。けれど、どんな生活を送り、何をしていたのか、尋ねてもはぐらかされてきた。思えば、母の過去をカイトはほとんど知らない。
母はイレーネを一瞥し、それからゆっくりとカイトに向き直った。
「私はね、結婚するまで、〈クロンブルクの心臓〉で働いていたのよ」
――クロンブルクの心臓。それは王国の中枢、白亜の壁に囲まれた高貴な者たちの城の名だった。
「でも、母さんは自由民じゃないか」
「ええ。けれど、私の父――あなたの祖父が、上級騎士だったの」
初めて明かされる母の素性に、カイトは息を呑んだ。
卓上の灯がわずかに揺らぐ。その光が、母の瞳の奥に遠い日の影を映したように見えた。
イレーネがそっと口を開いた。
「ブロートバウム夫人は、母の侍女頭だった。そして、無二の友でもあった。……学術院の生徒だった頃から、親しくしていたと聞いています」
その言葉に、カイトは母の方を見た。母は静かに頷く。
「王妃様と私が友人だったことを知る者は、そう多くありません。殿下に私の名を伝えた方は、王妃様ととても近しい間柄の方だったのでしょうね」
母の言葉に、イレーネがわずかに目を伏せて頷いた。
「……ええ。母が最も信頼していた方です」
その声は微かに震えていた。焔の明かりが、イレーネの頬をやさしく照らす。整った横顔に、失われたものを思うような静かな陰が落ちている。カイトはその表情を見て、言葉を失った。
沈黙の中、暖炉の火がぱちりと音を立てる。
「……今朝、アイゼンシュタットまで行ってきたんです」
その一言に、全員が一斉にカイトを見た。
灯のゆらめきが頬を照らす。息を呑む気配の中で、カイトは喉の奥に残る緊張を押し込み、言葉をつづけた。
「王都から来た商人たちが言ってました。……一年前のあの日、両陛下を手にかけた逆賊たちの処刑が決まったって」
体の震えを押さえながら、カイトはさらに言葉を紡ぐ。
「白陽卿が、首謀者だったと聞きました。本当に……本当に卿が、そんな恐ろしいことを?」
「――あの方は、そんな人ではない!」
ガタンと音を立ててヴィルが立ち上がる。声は、ほとんど悲鳴に近かった。それは否定ではなく、祈りにも似た叫びだった。
誰もすぐには言葉を返せず、火のはぜる音だけが沈黙の中に響く。ヴィルは拳を握りしめたまま、しばらく俯いていた。呼吸が荒く、肩がわずかに震えている。
やがて、イレーネがそっと彼の袖を取った。
「もういい、ヴィル。……わたくしが話そう」
その声はかすかに掠れていたが、不思議な静けさを帯びていた。彼女に促され、ヴィルは項垂れながらも席に着く。
イレーネが顔を上げると、卓上の灯がその瞳に映り込み、淡く揺れた。
「――あの日、王都で何が起きたのかを」
◆
――悲鳴と炎。飛び散った血の色を、イレーネは今も覚えている。
「わたくしも、すべてを知っているわけではない」
そう言って、イレーネは語り始めた。
「……あの日、トヴァスヘルツの南宮で待機しているはずの従士団の一隊が、なぜか西宮へ移動してきた。だが、西宮では武器の携行は禁じられている。侍従長がそれを伝えると、彼らは強行した。『白陽卿のご指示だ』と言って」
イレーネはヴィルを一瞥する。その目は静かだが、どこか気遣いの色があった。
「西宮では三卿会議が開かれていた。わたくしは伝令から従士団の動向を聞き、急ぎ西宮へ向かった。だが、到着した時にはすでに遅かった。――そこは、戦場と化していた」
騎士の怒号、侍女たちの悲鳴、金属がぶつかる音。平穏な日々の終焉は、あまりに突然だった。
「何も分からぬまま、わたくしは己の身を守ることで精一杯だった……そのとき、ヴィルが現れたのだ」
イレーネの瞳がわずかに揺れ、記憶の痛みを映す。白刃を受けた青年の背中が、目の前に甦る。
――西宮は悲鳴と怒号で満ちていた。供に来た従者の姿は、もうどこにもない。飛び散った血の赤と、頬の青白さが脳裏に焼きついている。イレーネは込み上げるものを必死に呑み込んだ。
「――止まれ!」
青年の声が、混乱の中で鋭く響いた。イレーネは咄嗟に身をかわすが、刃が耳元をかすめ、背筋に冷たい感触が走る。
一瞬の静寂の後、再び金属がぶつかる音。眼前で赤い外套が翻った。――上級騎士だ。
イレーネは、己の手が震えていることに気が付いた。胸の奥で怒りと恐怖が入り混じり、冷静な判断を曇らせる。
「お前は、尉官騎士だろう!これはどういうことだ。なぜ、従士団がこのような……!」
「申し訳ございません。自分も、何が起きているのか分からないのです」
青年の目は油断なく周囲を警戒している。その答えに業を煮やしたイレーネが言葉を荒げた。
「白陽卿の命で従士団が西宮へ突入したと聞いた。陛下はご無事なのか?母上は……!」
「――っ、殿下!」
振りかざされた白刃を、青年は身を乗り出して受け止めた。弾き返された刃が赤く閃く。衝撃でイレーネの背は壁に打ち付けられた。
「ご無事ですか、殿下!」
青年は体を寄せ、彼女を支えながら半身を低くして周囲を警戒した。焦げた匂いが鼻を刺し、煤が二人の頬を黒く汚す。火の粉が舞い、壁に弾けては消えていく。
イレーネは息を詰め、青年の顔を見上げた。刃を制した青年の動作に、わずかに安堵の色がにじむ。しかし、燃え盛る炎の轟音と悲鳴、金属の衝突が、この場が戦場であることを否応なく思い出させた。
炎と煙の中で、二人を包む張りつめた空気が、いっそう鮮明に感じられた。
――その刹那、壁の裂け目から熱風が吹きつけた。
イレーネが身を伏せるより早く、廊下の奥から複数の影が迫ってくる。燃え落ちた梁を踏み越え、剣を構えた男たちが炎を背負って現れた。
「囲まれた……っ!」
青年が低く呟く。背後は崩れた壁、前には敵の列。逃げ道はない。
剣戟の音と怒号が再び響き、火の粉が宙を舞う。青年は剣を構え、イレーネを庇うように半歩前へ出た。
「殿下、下がって!」
その瞬間――眩い閃光が走った。
敵兵の列が一斉にたじろぎ、次いで重々しい金属音が響く。炎の向こうから、白銀の甲冑をまとった一人の騎士が歩み出る。
「……白陽卿!」
イレーネが名を呼ぶより早く、剣が振り抜かれた。その軌跡は炎の中で青白く閃き、敵兵たちは次々と地に伏した。
「イレーネ殿下、ご無事でよかった」
大剣を携えた白銀の騎士がイレーネに跪く。甲冑に遮られて表情は伺えない。
「……卿、陛下は――!父上と母上は……!」
叫ぶように尋ねたイレーネに、卿は何も答えなかった。その目が悲しげに細められる。その沈黙が、すべてを物語っていた。
「そんな……」
血の気を失ったイレーネを青年が支える。遠くから重い足音が近づいてくる。
「ヴィルヘルム、殿下をお守りしろ。ここは私が引き受ける。北の通用門へ向かえ」
「しかし、先生――!」
「命令だ。ブロートバウム夫人を探せ。西のヴォータウゼン卿が力になるだろう」
卿は振り返らずに言った。鎧が炎を映して鈍く光る。その背は、ただ前だけを見据えていた。
イレーネは息を呑み、何かを言いかけたが、言葉は喉の奥で途切れた。
「行け!」
短い叫びと同時に、再び火花が散る。
青年はイレーネの手を取った。熱と煙が渦を巻く中、二人は崩れた廊下を駆け抜ける。背後で、剣が炎を裂く音だけが、いつまでも耳に残った。
◆
――イレーネはそこで深く息をついた。静かな室内で、時折薪の爆ぜる音が聞こえる。
「わたくしたちは、白陽卿の命に従い、まず西のヴォータウゼン卿を訪ねた。……だが、卿には会えなかった」
イレーネは視線を床に落としたまま語る。ヴィルがわずかに身を起こした。何も言わず、イレーネを見つめるその瞳が、炎を映して揺れ、やがてそっと閉ざされた。
カイトは口を開きかけ、しかし何も言わずに頷いた。二人が命からがら逃げ延びたことだけは、痛いほど理解できた。
「卿の奥方がわたくしたちを迎えてくださった。あの方の助言で、わたくしたちはアイゼンタールへ向かうことになったのだ」
イレーネの声は静かで、どこか遠くを見ているようだった。道中にどれほどの苦難があり、何が彼女たちを苛んだのか――それは語られない。だが、その言葉の端々に、険しい旅路を経た者の覚悟と疲労がにじんでいた。
「長い旅だった……ここまで来るのに、1年もかかってしまった」
イレーネはそう言って、暖炉の火を見つめた。炎が静かに揺らぎ、壁に柔らかな影を落とす。カイトは黙って聞いていた。母の名が出ることを、どこかで予感していたのかもしれない。
「3日前、アイゼンハインにブロートバウムという名の一族があると聞き、わたくしたちはこの地を目指した。当てのない旅路の果てに、ようやく辿り着くことができたのだ」
「……だけど、どうしてこの家だと?」
カイトの問いに、イレーネは小さく微笑んだ。
「この家だけだった。何の確証もなかったけれど、確かに、ここだと……花輪が、わたくしたちをここへ導いてくれた」
「花輪って、あの、リーリエとネルケの……?」
「リーリエは、母の生家の紋章。ネルケは、母が一等好んでいた花だった」
――リーリエとネルケ。母がこだわっていた二つの花。
まさかそれが、イレーネたちを助けることになるとは思わず、カイトは目を丸くした。
「あの花は……自分を慰めるために選んだものでした。クニグンデ=アストライエを偲んで……それが殿下をお救いすることになるとは……」
母の声は震えていた。イレーネを見つめる瞳には、悲哀と安堵が交錯していた。
「ああ、殿下。よくぞご無事で……」
そう言って跪いた母の肩に、イレーネは優しく触れる。
「夫人、どうか顔を上げてほしい。あなたのお陰で、わたくしたちはここへたどり着くことができたのだから」
誰もが、胸の奥で何かがほどけていくのを感じていた。長い旅路の果てに、ようやく安息が形を持ちはじめていた。
母がそっと立ち上がる。薄明かりの中、その動作は祈りのように静かで、慎ましかった。
「――殿下。どうか、この家をお頼りくださいませ。私たちにできることなど限られておりますが……今夜くらいは、何もお考えにならず、お休みくださいませ」
イレーネはその言葉に、深く頭を垂れた。
「身に余るお言葉です。……けれど、それでも、わたくしたちはあなた方を煩わせてしまう」
「煩いなどではございません。クニグンデ様のご縁を思えば、むしろ――このときのために、すべてが導かれていたのだとさえ思えます」
母の声は震えていたが、その眼差しは真っ直ぐだった。その横で、カイトは呆然と母とイレーネのやり取りを見ていた。
――この家が、母の記憶と繋がっていた。
それを知った瞬間、カイトは胸の奥で何かが動き出すのを感じた。まるで、長い年月の果てに閉ざされていた扉が、ひとりでに開くように。
「カイト」
母が名を呼ぶ。
「客間を整えてきます。あなたは、殿下のお傍に」
「……はい」
イレーネは二人に礼を述べ、微かに微笑んだ。疲労の色が頬に影を落としていたが、それを察せられぬほど毅然とした佇まいだった。
ヴィルはカイトを一瞥した後、母を追って居間を出ていった。
――ようやく辿り着いた、安息の夜。
その静けさの底に、運命の影が潜んでいることを、まだ誰も知らなかった。
ーーーーーー用語ーーーーーー
・ルーテ:カバの木の枝を束ねた鞭。家庭において、子への躾に用いられる。
・リッター:騎士および騎士階級を指す。王国従士団に所属し、国の治安維持及び軍事行動に従事する。平時は城下や領地で雑務・守備・巡回の任に就く。基本的に一代限りの身分だが、上級騎士に昇進した場合はその子女に身分を継承することができる。ただし、子女が騎士にならない場合は継承することができない。自由民であれば、入隊試験に合格することでリッターの身分を与えられるが、多くは下級騎士として生涯を終える。
・ゾンネン・オルデン:従士団。領主が私的に雇う契士とは制度的に明確に区別される。リッターを統括し、国の治安維持及び軍事行動に従事する。下級騎士と上級騎士で階級が異なる。下級騎士は主に自由民で構成され、戦場では小隊・班単位で上級騎士の指示に従い、守備や警備、補助的戦闘などの実務的任務を担う。一方、上級騎士は貴族が中心で、連隊・師団の統率や従士団内での政治的権限を持つ。昇進は能力・戦功・誠実に基づいて行われ、下級騎士から上級騎士への昇進も可能であるが、自由民は佐官級までしか昇進できず、将官級や元帥への昇進は貴族に限られる。元帥は国王と前任元帥による任命で選ばれ、従士団の頂点として絶対的な権威を有する。
・ゾンネン・グランツ:白陽卿とも呼称される。王国従士団の頂点であり、軍事活動に関して、国王に次ぐ権力を有する。
・三卿会議:いわゆる王会だが、軍・政・学の三組織の長のみ招集される。




