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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第二章 香辛料入りの少年
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2―4 逢瀬

 松子は相変わらず彫刻をしたり、本を読んだりして暮らしている。近頃はアメリカ文学を好んで読んでいて、砂糖菓子ホテルの四階にある図書室で熱心に翻訳書を探している。

 三毛は松子について行って何度か図書館に入った。四階の廊下の全てから入ることの出来る図書館は、とても広い。背の高い本棚が整然と並び、分厚い本が言語別に整頓されて置かれている。カビの匂いがしない。漂っているのは新しい紙と、インクの匂いだけだ。本は何度読まれても新しいままで、変化することは無い。

 松子は隅にある長椅子に座って、『宗教裁判』を読みふけっていた。三毛はその横で毛繕いをして、眠る準備を始めていた。

「ねえ」

 誰かの声がして、三毛は目を覚ました。松子を見ると、彼女はぼんやりと誰かを見上げていた。優だ。松子は慌てて笑顔を作る。

「あら、こんにちは」

「ゲーム、無かったんですけど」

「え?」

「テレビゲーム。ロッカーを開けたら、何も無かったんです」

「まあ」

「嘘ついたの?」

 優の顔が険悪になる。松子は困ったように髪を撫でた。

「嘘じゃないわ。必要なものは何でも出てくるのよ。その、ゲーム。あなた、必要じゃなかったんじゃない?」

「必要だよ。ここって何も無いじゃん。ゲームでもなきゃやってらんないんですけど」

 松子の眉がピクリと上がる。

「本でも読めば良いじゃない」

「一回りしたけど、外国語の本しかないよ。漫画ないの?」

「漫画は無いわねえ。日本語の本は探せばあるわよ」

「マジで何も無いんだ。つまんねえの。寝る」

「あなた、いつも寝ているの?」

「寝て悪いんですか」

「悪くはないけど」

 最後まで聞かずに、優はそのまま踵を返して図書館を出て行った。松子は少し腹立たしげにそれを見送っていた。彼の姿が消えると、ため息をつき、『宗教裁判』へと戻っていった。一体彼はどうして松子ばかりに話しかけるのだろう。

「おばさんだからね」

 松子はつぶやいた。

「お母さんかおばさんにしか話しかけられないのよ。内気な子」

 三毛は瞬きをする。そういうことなのだろうか。

 松子が本を読み終わって出て行こうとすると、うとうとしていた三毛はそれに反応して起き上がった。松子の歩調に合わせて急ぎ足で歩いてドアから出ると、紙とインクの匂いは消えた。静かな細い廊下に出た二人は、そこを道なりに歩いていく。階段に差し掛かると、珍しいものを見つけた。絹子と繭子、それに優とが話をしているのだった。優はうつむき加減で顔をほてらせ、小首を傾げて微笑む絹子の質問に答えていた。その後ろで大きなリボンで長い髪を結った繭子がいて、仏頂面を隠そうともしない。

「十四歳なの」

「はい」

「十四歳って男の子が大きくなり始める頃だわ。あなた、まだ声変わりしてないのね」

「はい」

「その方が可愛いわ。男の方ってどうしてあんなにごつごつとした声になるのでしょうね。嫌いではないけれど」

「そうですか」

 優は落ちつかなげに腕をさすり、ちらちらと姉妹の姿を見ていた。

「あなた、さっきからそわそわしているのね」

 絹子の後ろで、繭子が少し厚みのある唇を柔らかく動かして声を上げた。

「みっともなくってよ」

 にやりとした繭子を、絹子がにらみつける。優は下を向いて顔を真っ赤にさせていた。

「じゃ、僕、部屋に戻ります。さよなら」

「部屋に戻って何をするの。一人でつまらないでしょう?」

 絹子が引き止めようとする。

「することがあるんで」

「することって何?」

「言うほどのものでもないです」

「私たちのお部屋でお話しない?」

 優はごくりと唾を飲んだ。繭子は不快そうな顔をしている。

「いいんですか」

「いいわよ。何でもいいからお話しましょう」

 絹子は優の手を優しく取り、階段の下のほうへと導いていった。優はどぎまぎしながら降りていく。その後ろをのろのろと繭子がついて行く。面白そうなことが起こったな、と三毛は思ったが、松子を置いて追いかけることもしなかった。松子はいつの間にか煙草を吸っていた。あごを上げて細く吐き出した煙は、もやもやと広がり、やがて空気に溶け込んでいった。

     *

 夜がこれほど暑いのはどうしたわけだろう。遊ぶにしても、熱気がまとわりついてきて鬱陶しい。船はどの辺りを漂っているのだろう。三毛は絨毯の敷かれていない砂糖の階段の上に体を横たえていた。思ったほど冷たくないが、これで我慢するしかない。

 絹子がやってきた。今日もひっそりと、落ち着いた様子で歩いてくる。二階の手すりにはやはり水島がいて、銀色の眼鏡の縁を光らせている。あの文鳥はどうしたのだろう。最近は全く見かけない。

 絹子が静かに階段を上っていく。水島がちらりと横目で彼女を見る。絹子は階段の途中に転がる三毛を見つけて、微笑んで抱き上げる。それを見た水島が嫌な顔をする。

「猫を連れてくるなと言っただろう」

 声はひそやかだ。

「良いじゃない。千代は高いところにいるのだし」

「そういう問題じゃない。僕は猫が嫌いなんだよ」

 絹子がふん、と鼻を鳴らして三毛を床に置いた。水島は忌々しそうに三毛を見下ろす。

「今日はあの子とたくさんお話ししたのよ。お部屋にご招待して。内気な子ね。でも可愛いわ」

「そうか」

「そうか、じゃ無いわ。あなた、あの子が可愛くないの。一番初めに話しかけたでしょう」

「僕は君みたいにあの子を自分の子と重ねたりしない」

「そう。あなたやっぱり子供がいたのね」

「そうじゃない。例え話だ。君は自分のお腹の子に罪の意識を持ちすぎているよ」

「罪の意識、ですって?」

「罪悪感があるから他人の子供を自分の子だと思い込みたがるんだ。君、あの子は君の子じゃないよ。君の子は君のお腹の中にいるんだ」

「分かっていてよ」

「分かっているのなら、あの子に夢中になるのを止めたらどうだ」

「私の勝手よ。第一、あなただって私に誰かを重ねているじゃない」

 水島が険しい顔をする。絹子は着物をさらさらと鳴らしながら腕を組んだ。笑っている。

「可愛い可愛い千代子さん……、あっ」

 三毛が転がり落ちる。響いたのは鈍い音だった。絹子は左の頬を押さえてしゃがみこんだ。左目から涙がぽろぽろとこぼれる。目を見開き、四角い顔を真っ赤にして怒っている水島は、座っている絹子の手をいきなり引っ張った。絹子はいやいやをする。

「こんな時に、嫌だわ。変なことを言ってごめんなさい。後生だから止めて頂戴」

 水島は無言で彼女を立ち上がらせた。三毛は不安になってにゃあにゃあ鳴いた。水島は彼女を無理やり自分の部屋に引き込もうとする。

「後生だから、今夜は、お願い」

 水島の部屋の前で、絹子はしゃがみこむ。水島はもう一度絹子の頬を叩こうとした。その時だった。誰かが水島の背後に立った。

「水島さん」

 水島の肩に手が触れた。水島ははじけるように振り向いた。そこにいたのは松子だった。途方に暮れた顔で彼を見ている。彼は顔を真っ赤にした。松子の手を振り払い、一人で部屋に入ると、勢いよくドアを閉じた。辺りはまた、静寂に戻る。松子と絹子も、無言だ。

「私の部屋に来ますか?」

 松子がやっと声を発した。絹子は居心地悪そうに黙っている。

「顔を冷やしたら良いわ。どうせすぐ治るだろうけれど、妹さんに不審に思われないように」

 絹子は長い間黙っていた。そして突然立ち上がり、松子の横を通り抜けていった。回廊にたどり着くと、吸い込まれるように一階に下りていく。松子は悲しいような、切ないような、小さな絶望の表情を浮かべていた。

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