2―3 記憶
夜になると、ロビーは人気が無くなる。三毛は乗客が一人去り、二人去って行くのをつまらなそうに見つめた。相変わらず夜は明るい。明り取りの灯りもはっきりしている。
夜が深まる。深夜のロビーは三毛の独壇場だ。駆け回り、時には一階の客室の廊下を走り回ったりする。廊下の冒険から帰ってきた時のことだ。ロビーには人がいた。絹子と繭子だ。二人とも長襦袢姿で向かい合って椅子に座っていて、繭子は髪を解いたまま、絹子は昨日のように三つ編みにしていた。
二人をこうやって見ると、実に対照的だ。大柄な繭子、小柄な絹子。人形のように無機質な繭子、生々しいまでに色香のある絹子。二人は一つの瓶に入った砂糖まみれの花びらを、交互に手を出して食べていた。二人は優のことを話していた。一方は楽しそうに、もう一方は不満げに。かみ合わない会話は長く続いた。次第に繭子の顔は紅潮してくる。絹子は苛立ってくる。その会話を止めれば良いのに。三毛がそう思っても二人の言葉のやり取りは速くなっていくばかりだ。
繭子が突然テーブルを叩く。
「ねえ、どうしてこんなにあの子にこだわるの? 私苛々してくるわ。あなたは私のお姉様でしょう。私の絹子さんでしょう。私以外の人は一緒にお花を食べたりはしなくてよ。だから私はあなたに必要な人間なのよ。その私をこんなに苛々させないで。私はあなたのために生きているのよ。だからあなたも私のために生きるべきなのよ」
絹子が冷然と笑う。
「そうだわ。だけど……」
「だけど何? 私はあなたのことしか見てない。あなたの言うとおりにしかしない。あなたにはむかう人を、私は嫌うわ。あなたが好きだから。誰よりも好きだから」
繭子が絹子の手を掴んだ。絹子が顔を逸らそうとする。その顔を繭子が捕まえた。二人は中腰になって、絹子の唇は繭子によって無理やりに塞がれた。絹子は抵抗して繭子の胸を押す。繭子の手と絹子の手が絡み合い、揉み合いになる。
やがて、ドスン、と音がして、繭子は椅子に倒れこんでいた。絹子は立っている。不気味なまでに目を冷たく光らせて。繭子はそれを見ると、顔をゆがめて泣いた。絹子は低い声で呟く。
「あなたのことは好きよ。普通の姉妹以上に愛していると思うわ。だけどあなたは私の邪魔をしたのよ。その普通じゃない愛情で、私の邪魔をしたの。いい? 忘れてしまったようだけれど、言うわ」
「何よ」
繭子の涙声が震えていた。絹子は大事そうに下腹部を撫でた。
「私の赤ちゃんは永遠に育たないわ。あなたのために犠牲にしたのよ」
二人の激しい吐息ばかりが聞こえてくる。数秒後、ようやく繭子は言葉を発した。
「赤ちゃん? どうして赤ちゃんが」
「あなたは本当に思い出さないわね。今私が言ったことも、明日には忘れるのだわ。今まで何回も言ってきたけど、そうだったもの」
絹子は唇を噛んだ。繭子はぼんやりとそれを見ている。
「分からない話をしても仕様が無いわね。もう話さないわ」
「ねえ、誰の子なの」
放心したように尋ねる繭子を、絹子は半ば無視した。
「わざと思い出さない人に教えることではないわ」
「わざとじゃ……」
「早く寝たらどう? その方が良いわ」
絹子の言葉に、繭子は静かにうなずき、とぼとぼと廊下に向かった。その時、三毛と繭子は目が合った。しかし繭子はいつものような関心を示さず、通り過ぎて行った。これから部屋で大いに泣くのだろう。たった一つ、「絹子に冷たくされた」という理由だけで。
絹子はしばらくテーブルに頬杖をついて考え事をしているようだった。目に涙が浮かんでいる。悲しんでいるのだろうか。育つことの無い赤ん坊のために。
「また見ていたのですね」
独り言のように絹子は言った。三毛はぎくりと絹子を見たが、彼女が見ているものは、もっと上のほうにあった。
「いつもその小鳥と一緒なのですね。私とお話しませんか。ここで」
二階の回廊にいる水島は、顔を赤らめて首を振った。肩に乗った文鳥は、それに合わせてゆらゆら揺れる。
「まあ、照れ屋なのね。私がはしたない格好をしているからかしら」
「帰ります。すみません」
「ずうっと前から私を見ていますわよね。何十年になるかしら」
「見ていません。私はたまに夜の散歩をするだけで」
絹子はにっと笑った。水島はたじろいで後じさった。
「帰らないで頂戴。ねえ、あの子とはどういうご関係?」
「優君か。彼とは全く関係ありませんよ。ちょっと話をしただけです」
「あなたって誰とも話さない人だと思っていましたわ」
「気が向いたら話しますよ」
「嘘ばっかり。何かあるのでしょう」
「そういうあなたは、お腹の赤ん坊とあの子を重ねているのでしょう」
絹子が急に黙った。しかし笑顔は消えない。
「盗み聞きをとやかく言うのは止めましょう。あなた、どうしてそういう発想にたどり着いたのかしら。もしかして、あなたも……」
絹子がくすくす笑うと、水島がさっと青ざめた。
「そうよね。そうじゃなきゃ思いつかないわよね」
絹子がゆっくりと言った。それが終わると同時にしぶきのような砂糖のかけらが落ちて来る。
「黙れ! 僕のことをあなたに話す必要などない!」
手すりを殴って崩した水島の顔は真っ青になっていた。しかし、絹子は怯えることすらしない。ただ微笑むだけだ。砂糖の手すりは二人のいさかいをよそに、生き物のように元に戻っていく。
「ならこれ以上言うのは止めておきましょう」
「そうしてくれ」
水島はそう言ったきり、帰ろうとした。
「ねえ、私と寝たい?」
絹子の言葉は唐突だった。水島は答えずに、後ろ向きに立ち止まったまま黙っていた。
「寝たいのでしょう。私を誰かに重ねて、寝たいのでしょう? いいのよ。もう私の夫は死んでしまっているに違いないし、あなたのお相手もそうに違いないのだわ」
絹子は艶のある声で、浮かされたようにそう言った。白かった顔が赤らんでいる。
「私を抱いて頂戴。お願いよ」
絹子の声と同時に水島が勢いよく階段を降りてきた。そして椅子に座っている絹子の手を掴むと、同じ速さで階段を上っていく。文鳥が羽ばたく。絹子は笑っていた。狂気のように笑っていた。水島は唇をきつく結んでいた。二人は、二階の廊下の中に消えていった。
三毛は、呆然としてその光景を見つめていた。
*
一週間経った。真昼の太陽の下、三毛は手足を伸ばして寝転んでいた。暑くてたまらない。砂糖が焼ける匂いもずいぶん濃い。船はより暑い場所に向かっているに違いない。
デッキに出てきた船の住人は、小さな三毛の姿を見ると必ずと言って良いほどいたずらをした。ひげを指で弾いたり、尻尾を使って三毛の体を撫でたりするのだ。三毛はそれが邪魔で、ゆっくり寝ていられなかった。
この一週間、変わったことは一つも起こらなかった。三毛はその間、松子の部屋に行って松子のとりとめの無い話を聞いてやったり、姉妹の部屋を訪れて、うるさいくらいに咲き誇る花の香りを嗅いだりした。乗客に出会って撫でさすられたり、抱き上げられたり、おいしいものを与えられたりするのも同じだった。
姉妹は一つも変わったところを見せなかった。優に会いたがり、実際に何度も部屋をおとなっては無視されている絹子に、相変わらず繭子は呆れたり怒ったりしているが、あの時聞いた話を本当にすっかり忘れているらしい繭子は、驚くほどいつも通りだった。それに繭子は重大なことに全く気づいていない。絹子は毎夜水島の下へ通っているというのに。
水島と絹子の逢瀬は、あっさりしていた。深夜、三毛がロビーの隅にいるときに、ひたひたと足音が聞こえてきて、長襦袢姿ではなく、きちんと装いを凝らした絹子が現れる。嬉しそうだとか浮かれているだとか、そんな気配は全く無く、二階の回廊で小鳥を連れずに待っている水島の元に向かう。水島自身も、いつも怒ったような顔をしていて、絹子に対する愛情だとか恋慕だとか、恋愛にありがちなもろもろの感情を一切持っていないように見える。水島と並んだ絹子は、彼に顔を見せない。少しうつむきがちにして、歩き出した水島の後についていく。この二人がやっていることは何なのだろう。何のために行われているのだろう。三毛には分からない。
一度、三毛は絹子に見つかったことがある。その時絹子はちょっと笑って三毛を抱き上げ、水島のところに連れて行こうとした。水島は、近づいてきた絹子の腕の中のものに気づくと、
「連れてこないでくれ」
と言った。絹子がうつむいて、
「何故?」
と、問う。水島は、
「千代がいるから」
と早口で答えた。
「千代は見て良いけど三毛は見ては駄目なのね」
「そういう言い方をするな」
絹子も水島も無表情だ。まるで敵同士の会話だ。絹子の手で床に降ろされた三毛は、水島の部屋に向かう二人をこっそりと追った。ドアを開いた水島は真っ先に中に入り、続いて絹子も閉じるドアと共に体を部屋に押し込めた。しばらくすると、ああ、という絹子のこもった声を聞いた。