2―2 姉妹
次の日の夕暮れ時に、ロビーをさまよって乗客たちから食べ物を貰ってうろついていると、三毛は絹子にさらわれた。仏頂面の繭子も一緒だ。
「どうしてなの。あの子の部屋に遊びに行くなんて。三毛まで連れて」
「三毛はお土産なのよ。子供は動物が好きでしょう」
「もうそんな歳には見えないけれど」
「お花も持ってきたわ」
まだ種も見えない小ぶりの向日葵の花束が、絹子の腕の中で揺れていた。
「お花なんて、喜ばないわ」
不満げな繭子と不安定な会話を交わしながら、絹子は迷路のような三階の廊下を歩き回った。部屋はなかなか見つからなかった。繭子はすっかりうんざりして、帯止めのトンボ玉をくるくると回しながら歩いていた。今日の繭子の髪は絹子の手で、大きなリボンで結わえたポニーテイルにされていた。そうすると、三毛の目にも彼女は「上品なお嬢さん」に見えるのだった。
「あら、あれじゃなくって?」
絹子が弾んだ声で言った。指を指す先には壁のふくらみに張り付いた黒いドアがあった。銀色のプレートには三〇三四と彫られている。
「何だか寂しいドアね。地味というか」
繭子が言うと、絹子は微笑んで答えた。
「あなたの大好きな時代の流れというものよ。今、船の外ではこういったものが流行っているのだわ」
「寂しい時代ね」
「ノックするわ」
コンコン、とやけに頭に響く音がした。金属のドアだ。絹子の頬は赤らんでいる。しかし、返答は無い。
変だと思ったらしく、不安げな顔をした絹子はまたドアを叩いた。しばらく待つ。それでも返事は無かった。この船特有の、耳に染み入るような静寂があるばかりだ。
「出かけているのかしら」
「かもしれないわ」
「待つ?」
「帰りましょう」
繭子はトンボ玉を回しながら答えた。絹子は寂しげに、そうね、と言った。向日葵を揺らしながら、絹子は最後尾を歩いていった。とぼとぼと、いつもの澄ましたような冷静さはどこかに行ってしまったかのようだ。
*
ロビーで「放流」された三毛は、椅子でくつろぐ人々に混じって夕暮れの海を眺めていた。感動を掻き立てる深いオレンジ色の空が暗い夜に押しつぶされそうになっている。太陽は海に溶けていこうとしている。夜の力にはかなわないとでもいうかのように。
「日本の夕焼けね。今まで、道理で懐かしいと感じていたわけだわ」
煙の匂いがして、振り返ると、松子がいた。久しぶりに見るような気がする。昨日からずっと部屋にこもっていたのだろうか。体から新しい木の匂いがする。また何かの像を削り出していたに違いない。髪は波打って、微笑んでいる顔を半分隠していた。
「もし船から降りるなら、フランスがいい。パリの街で、彫刻をして暮らしたいわ」
夢のようなことを言う、と三毛は思った。だから彼女は船から降りられない。
「おじいさんは、それは素晴らしい考えだけれど、船から降りるのは賛成しない、外の世界は私には厳しすぎる、って言うのよ。子供じゃあるまいし、私だって自活できるわ。この船から出て、色鮮やかな外国の町並みを見て過ごせたら、どんなに心が休まるだろうと思うのよ。ここはつまらないわ。安全だけど、精神的には本当に危険だと思うの。この何事も無い生活、永遠ともいえる時間。いつか気が狂ってしまうわ。いえ、普通だったら狂っているわ。でもここでは時間が止まっていて、決まった感情のまま、変わらないの。つまり、悲しいって感情。どんなことが船で起こっても、驚いたり喜んだりした表面の底には悲しみが横たわっているの。これって狂うより辛いじゃないの」
松子の話す前で、三毛は前足を舐めていた。松子は三毛の柔らかな体をそうっと撫でた。三毛は心地よくなって目を細めた。喉が自然に鳴る。
「じめじめした女。あんなところで愚痴を言うかしら。日本語が分かる人間は少なからずいるでしょうに」
声が飛んできた。見ると絹子と繭子が廊下の前に立っていた。絹子は冷たく笑い、繭子は絹子の袂を握って彼女をたしなめようとしていた。松子は顔色をさっと変えて、彼女たちを睨んだ。すると絹子は相変わらずニヤニヤしているのに、繭子のほうが憤慨したように大きな目を三角にした。
「早く行きましょう。無音室へ」
絹子が面白そうに笑って繭子の手を引いた。繭子は松子を相変わらず見つめながらそれに従い、廊下のカーブの向こうに消えた。松子はそれを見たまま無言だった。三毛が足元に体をこすり付けても、じっと動かなかった。絹子はどうして松子を傷つけるのだろう。何の関係もなさそうに見えるのに。
ざわめきが起こったとき、三毛はそれに気がつかなかった。一つには松子が気になっていたためと、もう一つはざわめきがあまりにも静かだったためだ。口の奥で感嘆の声を上げる者、そっと立ち上がる者。遅い夜の始まりに、このちょっとした騒動は起こった。
少年が階段を降りてきたのだ。きょろきょろと警戒気味に辺りを見渡しながら、砂糖の段をスニーカーで踏みしめて、ゆっくりロビーに近づいてくる。服が替わっている。ジーンズに黒いTシャツを合わせていて、こちらに不安を掻き立てる雰囲気は昨日と変わらなかった。
ロビーに足を踏み出した藤井優は、迷わず松子のところに歩いてきた。松子は動揺して、目の前に停止した彼を見つめた。身長はほとんど変わらなかった。
「こんにちは」
優は投げやりな感じのする言い方で、そう言った。松子は笑おうとしていた。でも出来ないようだった。
「日本人ですか」
「ええ」
「なら良かった。あの、お尋ねしたいんですけど」
「何?」
「ここってゲーム無いんですか」
「ゲーム? ゲームって何のゲーム?」
戸惑い気味の松子に、優は面倒くさそうに答えた。
「テレビゲーム」
「知らないわ」
「知らないわけないじゃん」
下を向いてつぶやく優に、松子は困惑よりも恐怖を感じ出したようだった。声が自然と震えてくる。
「知らなくてごめんなさい。ここに来たのは四十年も前のことだから」
「そうですか」
少年は無関心にそう答えて、帰ろうとした。松子が後を追うように声を高く上げる。
「砂糖室のロッカーにならあると思うわ」
「砂糖室?」
「五階にあるわ」
「そうですか。ありがとうございます」
言いながら、優はまた階段を上り始めた。その背中が二度と松子を振り返ることは無かった。松子は深いため息をつきながら、しゃがんで、三毛を撫でた。
「宇宙人みたい」
松子は言った。三毛は少年に対する関心が高まっていた。松子の言うとおり、少年は少し妙だ。平気で人に話しかけるくせに、全く心を開いていない。臆病なのか、度胸があるのかもよく分からない。何を考えているのかさえさっぱり分からない。三毛はもう一度会いたい、と思った。