1―4 島
姉妹の苛立った会話から抜け出した三毛は、デッキで松子と一緒にビスケットをかじっていた。ほんのり甘くてねっとりしたビスケットが、口の中で溶けていく。外でものを食べると、どうしてこうも食欲が昂進するのだろう。潮風のせいか、海の音のせいか。波の揺れ打つ音が、船の遥か下のほうから聞こえる。
この砂糖細工の船は至って単純な外観だ。無地の船体、船の後部にいびつに張り付いている砂糖菓子ホテル。前方に伸びる、テーブルセットの他には何も無いデッキ。デッキにいる人々は何をするでもなく、伏し目がちになってうろうろしている。皆やけに青白い。
「楽しみだわね、三毛」
風を受ける松子の白いスカートの動きに、三毛は見とれていた。
「もうすぐ陸につくわね」
三毛は空と海の間を眺めた。まだ何も見えない。島影の一つも。
松子がしゃがんで三毛の首をくすぐった。三毛は途端に真面目な顔を崩して、その手にじゃれ付く。松子がくすくす笑う。
「あ」
二人を遠巻きに見ていた男が小さく声を上げた。三毛も松子も顔を上げて男の見るほうを見た。いくつもの島影、その奥に見える薄っぺらな大きな島。黒い影のようで、はっきりとは見えなかったのだけれど。
「着いたみたい。行きましょうか、三毛」
松子が三毛を抱いた。途端に、三毛の耳にいびつな音がした。嫌な感じがして、松子の手から抜け出そうとした。すると松子はそれを抑え、手すりをすり抜けて、空を歩き出した。三毛は目を白黒させている。落ち着いて周りを見ると、沢山の人々が空を闊歩している。海の上を、悠々自適に。三毛は初めて海の中を近くで覗いた。近くで見る海は、より透明で青かった。生き物は見当たらず、どうやら水深はずいぶんある。三毛はどうして船はもっと浅いところに行かなかったのかと首を傾げた。
その一瞬の後、松子と三毛は浜辺を歩いていた。静かに寄せては返す波と、砂の中に見え隠れする桜色の貝殻が目を楽しませた。ここはどこだろう。三毛は自分を抱きしめている松子を見上げた。松子はにっこりと笑ってまた歩き出した。一歩が巨人の歩幅のようで、どんどん景色が変わる。針葉樹の森を過ぎ、山を登った。
「いい気持ち」
松子は心底楽しそうに言った。三毛は景色の次々変わるジェットコースターに乗っているような感覚になり、幾分目を回していた。山を降りる。風景が突然変わる。
高く聳え立つビルディングにアスファルトの地面。整頓された街、様々な格好をした人々の群れ。三毛の耳に聞こえるのは、けたたましいくらいの足音、聞き覚えのある言葉たち。三毛は予感がして、松子を見上げた。
松子は青ざめていた。三毛がじっとその口元に注目していると、唇はかすかに動いた。
「日本だわ」
その声は震えていた。そして急に松子は頭を抱えて滅茶苦茶に歩き出した。松子と三毛は幽霊のように人の体を通り過ぎていく。人の波はどんなに進んでも永遠のように続いている。やっと抜けて、山を歩き、川の中を歩き、松子はひたすら走った。戻ろうとしているようだった。しかし行き方が分からないらしい。
船はどこだ。三毛も松子のために辺りを見回した。街は広く、たとえ通り過ぎてもすぐに新しい街が見つかった。三毛は混乱した。ここはどこだ。分かっている。自分も以前ここにいた。あの時、自分は船に拾われたのだ。
同じ所で松子も拾われたのだろう。それならばこれほどに苦しんでいても仕方が無い。自分も苦しかったから。
けれど、松子は陸に戻りたいのではなかったのか?
そのときだった。急に背中を引っ張られた、と三毛は感じた。松子が勢いよく空へ引き戻されていく。街の風景が、山が、海が、細長く見える。松子は安らいだ顔をしている。いいのだろうか、と三毛は思った。松子はそれでいいのだろうか。
次の瞬間、二人は白い砂糖細工の船の上にいた。へたへたと座り込んだ松子は、酷く青ざめていた。
「無理をして歩きすぎたみたいだわ。怖かった」
震える手で、煙草をくわえる。三毛が周りを見ると、同じようにしゃがみこんでいる人々が大勢いた。船が陸に着くときの楽しみというものは、新しい乗客だけではないのだ、と三毛は納得した。しかし、今回の旅は三毛にとっても松子にとっても心地良いものではなかった。
そこに、静かなどよめきが聞こえてきた。三毛と松子はデッキの先端を見た。へたり込んでいた人々はよろよろと立ち上がり、感動して小さな声を上げた。松子夫人もそうだった。
子供だわ、と絹子が囁き繭子が頷いた。先ほどの争いは収まったらしかった。
小柄な少年が、舳先の手すりに背中を預けて、ぜいぜいと息をしていた。呆然と周りの人々を見渡し、砂糖菓子ホテルを見ている。手には銀色に光る三〇三四号室の鍵を握り締めて。