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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第一章 平穏で甘ったるい船の暮らし
3/30

1―3 白文鳥

 夜になった。三毛は松子の部屋から出て、回廊まで歩き、階段を降りようとした。その時、下のほうの段にもう一つの影を見つけた。昼間の男だった。幅の広い肩に、何かが止まっていた。小鳥だった。白い体と桃色の嘴をした美しい小鳥は、ぴくりとも動くことが無かった。三毛は男に気づかれないようそっと階段を降りて行った。ひたひたと、床を柔らかく踏んで。

 ロビーに着くと、そこはとても素晴らしかった。明り取りからは、月の光がロビーの床に零れ落ちていた。光の水玉模様で飾られたロビーは灰色で、見通しも良かった。明るい夜だ。そして、明日は満月だ。

 三毛はデッキに向けて歩いていく男を追った。体が軽いので、絨毯の敷かれた床の上では足音は立たなかった。男の革靴ばかりがこつこつと鳴る。

 玄関口に立った彼は、思い切りドアを開いた。強い潮風が入ってくる。三毛は彼が通った後のドアが閉まる前に、すばやくすり抜けた。そして深く感動する。目に見えるのは遥かに広がる波立つ水面、レース模様のような雲がかかった明るい空。海の匂いがする。月は、思いがけず小さかった。男も感嘆したように水平線を眺めている。

「綺麗だなあ」

 小さな声でそう言っているのを三毛は聞いた。すると、次の瞬間、文鳥がとんとんと彼の首筋近くに移動した。男の耳をつついている。彼はくすぐったそうに文鳥を見て、

「千代も思うだろう。綺麗だなあ」

 と言った。文鳥は彼の首に寄り添った。飛ばないのは夜だからだろう。この明るさでも、暗闇では目の見えない鳥が空を飛ぶのは難しい。

 三毛は彼らをじっと見つめていた。男と文鳥の仲のよさに、三毛は驚いていた。

「綺麗だけれど、僕は何だか好きじゃない。早くここから出たいと思わないか、千代」

 文鳥は、ただ無言で彼の耳をつついているばかりだった。

     * 

 太陽が顔を出すと、空は蜜柑色とすみれ色の混合のような色合いになった。三毛は住居部分の入り口近くの玄関脇でじっとそれを見ていた。朝日が出るとつまらなくなる。だけど太陽は綺麗だ。まるで神々しいものであるかのように感じる。日が昇るほどに、空と海は素晴らしい青へと変わるのだ。昨日より新しい日が始まった。

 三毛は誰かがドアを開けてくれるのを待っていた。夜じゅう駆け回っていた三毛は、すっかり眠気に襲われて、今にも頭が床に落ちそうになっていた。瞼も重い。しかし、しばらくすると目はぱっちりと開いた。

 砂糖菓子ホテルの玄関ドアの向こうには、ロビーがある。そこに、人がどんどん集まって来ているのだ。普段は静かな、限られた者しか座らないロビーの椅子は、満員になりかけていた。座れないものは立っていた。降りることも出来ない上の階の者は、回廊に集まって手すりに寄りかかっていた。大層な迫力だった。

 何事だろう。三毛は思った。いつもは静かに自室にこもっている彼らは、一体何を目的に集まってきたのだろう。そう考えて、三毛は思い出した。自分がここにやって来た時、周りには大勢の人がいて、物珍しそうにじろじろ見ていたことを。彼らは新しい乗客を待っているのだ。

 しかし、それは彼らが期待するほど面白いことなのだろうか。空と海は相変わらず青い。昨日と一つも変わりばえのしない日だ。それなのに彼らは新しい客に何かを期待している。新しい乗客が、彼らの不幸を取り除いてくれるのではないかとでも思っているかのように。

「おはよう、三毛」

 ドアが開いて、真ん丸い顔が覗いた。三毛を可愛がっている男の一人だ。三毛はドアの内側にすり抜け、男の足に擦り寄った。男は嬉しそうに三毛の頭を撫でた。

「今日はどんな人が来るんだろうね。船はでたらめに進んでいくからさっぱり分からないよ」

 そう囁いて、男は外に出て行った。三毛はそれを追わずに、きょろきょろと辺りを見回した。

「三毛」

 人ごみの中からか細い声が聞こえる。見ると、椅子に座っている、長く透けるような金髪の女が三毛を手招きしている。三毛はすぐに駆けていった。

「朝ご飯はまだでしょう?」

 女は水色の目を細めて、三毛に皿を差し出した。茹でた鶏肉だ。三毛は二、三切れかじると、それだけで満腹になった。大勢の三毛の知り合いたちが三毛を見て微笑んだ。それを眺めながら、三毛はしばらく女の膝でうとうとした。

「酷い混みようね」

「本当、どこから湧いて出たのかしら」

「戻りましょうか、絹子さん」

「そうね」

 夢うつつに聞こえた声にハッとした。繭子と絹子だ。三毛は椅子から二人の姿を探す。二人は昨日とは反対に、絹子が麻の大きな柄の着物を着て、繭子が赤い襦袢が透けて見える紗の着物を着ていた。

「三毛だわ」

 目ざとく、繭子が三毛を見つけた。奥のテーブルについている。昨日言ったことは全く忘れてしまったかのように、嬉しそうな顔をしている。手招きされた。三毛は仕方なく、女の膝から降りた。

「三毛!」

 女は驚いたように名前を呼んだ。三毛はとたんに戻ろうかどうか迷ったが、繭子の強い視線にかなわず、女を背にして繭子の許へ行った。後ろからしくしく泣く声が聞こえる。彼女はとても弱いのだ。三毛は後味の悪い思いをしながら、笑みを浮かべた繭子に抱き上げられた。

「あの人、何を泣いているのかしら。馬鹿みたいだわ」

「そうね」

 絹子は人ごみに疲れたのか、苛立っているようだった。声がそっけない。

「どんな人が来るのかしら。少し楽しみだわ。ねえ、三毛」

 繭子が三毛に擦り寄る。それを見ながら、絹子は苛々と頬杖をついた。絹子にしては行儀が悪い。

「あんまり三毛を構うのを止めたほうがいいわ」

 絹子が言った。繭子はきょとんとする。

「どうして?」

「猫の毛が付くからよ」

「あら、私はいつも三毛を抱いていてよ」

「そういえば、そうね」

「ねえ、どうしてそんなに苛立っているの」

 繭子が聞く。途端に頬杖をしていた手でテーブルを叩く。音は鈍いが、元々静かな周辺の人々を、更に静かにするには十分足る。三毛は平気な顔をして絹子を見ていられる繭子に感嘆する。

「夢を見たのよ」

「夢?」

「昔の夢」

「ここに来る前の?」

「ええ」

「思い出せないわ」

「そうよね、あなたはどんどん昔のことを忘れて行くのよね。見ていて怖いくらいだわ。どうして忘れるのかしら。あなた、自分の親の顔も忘れてしまったのでしょう?」

 絹子が横を向いて、唇から息を漏らす。繭子はその横顔をじっと見つめている。

「忘れたに決まっているわよね」

「だって八十年経ったのよ。思い出せるはず無いわよ」

「あなたっていつもそうね。年月が経ったからって、忘れないものはあるのよ。第一、ここは時が止まっているのよ。頭だって衰えるはずが無いのよ。それなのに」

「八十年前、何かあったかしら」

「何か、ですって?」

「教えて」

「教えられないわ」

「どうして?」

「あなた、次の瞬間には忘れてしまうのですもの」

 そう言う絹子の表情は、どこか悲しげだった。首を傾げて考え込む繭子の手元から三毛が滑り落ちたのはその時だった。

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