4-3 笑顔
もうすぐ個展が始まるので、松子は相変わらずビスクドールの着色や衣装作りの為に家に引きこもっていた。絹子はまだ帰らない。
入り口のドアが開く音がした。
「あの」
振り返る。松子は目を丸くした。
「あなた」
「こんにちは、おばさん」
優だった。紺のブレザーを着て、控えめな笑顔を浮かべている。
松子は駆け寄り、優に近づいた。優は今まで見たことの無いような落ち着いた雰囲気になっていた。
「どうやってここに来たの?」
「おばさん、個展やるんでしょ。行きつけの本屋にポスターが貼ってあったよ。本屋のおじさんに聞いて、ここまで来たんだ」
「そう」
「俺、失踪してたことになってたよ。帰ったらすごい騒ぎだった」
「そうでしょうね。あなたの場合は」
「お母さん、泣いてたよ」
松子は黙った。優は笑っていた。
「お母さんが本当に泣いて、俺のこと、『あんた』じゃなくて『優』って言って駆け寄ってきた時は、俺も泣きそうになった」
「そう」
「お母さんも辛かったんだよな。俺を育てなきゃいけないし、働かなきゃいけないしで。大変だったんだよな。だから俺、お母さんを許すことにした。俺、お母さんを守る事にしたよ」
「そうなの」
松子は微笑んでいた。
「学校の連中は、静かになった。よく分からないけど、そんな感じ。先生は落ち込んでた。『大人』に怒られたみたい」
優はけらけら笑った。
「おかしいよな。大人の上にも大人がいるんだ。悪いことしたら、大人も怒られるんだ。あ、おばさん」
「何?」
「俺、もう船には行かない。いい加減、逃げるのはよそうって決めたんだ」
「そう」
松子はにっこり笑った。
「勉強しようって思うんだ。漫画もゲームも相変わらず好きだけど、本を読んで、学校の勉強もちゃんとして、何か夢を持とうと思うんだ。友達もまだいないしさ、俺これから成長して、何かになりたい。社会っていうパズル状のもののピースの一つになりたい」
優はそう言って、笑った。
優は、一ヵ月後の松子の個展に来る約束をして、帰っていった。松子は本当に幸せそうに柔らかな表情で人形を作っていた。
「ただいま」
振り向くと、絹子がいた。松子は目を丸くした。隣には、根元の黒い金髪の少女がいたからだ。派手な化粧をしていて、本当の顔がよく分からない。松子は黙って彼女を見ていた。
「繭子だよ、松子さん」
「お久しぶりね。松子さん」
絹子が静かに紹介すると、繭子は、変わらない上品な口調でそう言った。
*
「家出してきたの」
繭子は、黒々とした睫毛を瞬かせて、微笑んだ。
「家出?」
松子は呆けたような声で答えた。
「新しいお父さんとそりが合わないんだって。私の部屋に泊めてもいい?」
絹子が少しぶっきらぼうに尋ねる。
「それは構わないけど」
「ありがと、松子さん」
「ありがとうございます」
繭子は深々と頭を下げた。松子はそれをじっと見て、呆然としていた。
夕食の時間になって、松子が二階に上がると、繭子はぼんやりと絹子が料理する手つきを見つめていた。
「繭子さん」
「はい、松子さん」
繭子はにっこりと笑った。
「どうしてこんなことに?」
「目覚めたら男友達の家にいて。そこから必死で逃げてきたの。訳が分からなくて。どうして私がこんなことをしているのか、分からなくて」
「繭子。答えなくたっていいんだよ。黙って」
絹子が後ろ向きのまま止める。それでも繭子の口は止まらない。
「きっと私が人殺しだから、こんな人生を与えたんだと、この間気づいたところ。あのおじいさんも、なかなかシビアだよね」
繭子の目からは涙がこぼれ出し、マスカラが溶けて黒い筋を作った。松子は痛々しそうにそれを見つめる。
「こんな繭子さんを見せ付けられる私の人生もなかなかシビアなんだよ、繭子」
絹子が振り返る。涙ぐんでいる。
「松子さんが泊めてくれるから、ここにいなよ。私、今だって繭子のいない人生は考えられないんだから」
繭子はそれを聞いて、嗚咽を漏らして泣いた。