3-7 繭子3
顔を紅潮させた絹子が、平凡な顔立ちをした夫に伴われて、玄関口に立っていた。髪を結った繭子が大きな音を立てて廊下を駆けてくる。
「絹子さん」
「繭子さん、久しぶりね」
絹子が柔らかく微笑む。
「どうしたの? 急に来て。それに遅いわよ。もっと頻繁に来て頂戴よ。近いのに」
「駄々っ子みたいね、繭子さん」
絹子が笑う。繭子がむっとする。
「お父様を呼んできて。お話があるのよ」
繭子はそれを聞いて、ぶっきらぼうに頷き、書斎の父を呼びに行った。
広い居間で、絹子たち夫婦と父親が談笑している。そこに女中を引き連れて、繭子が湯気の立ったお茶を持ってきた。父が振り向く。笑っている。
「繭子。絹子は身ごもったそうだ」
ふと、立ち止まる。そしてまた動き出す。
「そうなの。絹子さん、おめでとう」
「ありがとう」
絹子が心底嬉しそうに頭を下げる。繭子も笑っているが、その目は輝きを失っている。
「嬉しそうね」
「そりゃあそうよ。子供が出来て嬉しくない女性がいて?」
絹子が腹部を撫でる。
「そこは胃じゃないか?」
絹子の夫が口を開く。
「あら、そうですね。まだ慣れていないから気付きませんでしたわ」
繭子以外の全員がどっと笑い始める。繭子は無言でお茶を各人の前に置きながら、ガラス玉のような目で絹子を見つめていた。
「大丈夫だろうか?」
老人が三毛を撫でながら呟いた。繭子がぼんやりと消えた幻影の跡を見つめ、絹子が唇を噛んでいる。
「大丈夫なわけが無いな、三毛。繭子はこの通りの人間なんだから」
老人が繭子をじっと見詰めている。
*
繭子が小さな壜を持って、居間に向かう。そこには食事が用意してある。膳の一つを見つめて、繭子は立ち止まった。そっと、座る。大きな椀に飯が盛られ、ワカメの味噌汁にカレイの煮付け。漬物が少し、置いてある。その中の味噌汁に目をつけた。壜の蓋を開き、スプーンで中身を掬い、味噌汁に入れ、くるくると混ぜた。もう一度、混ぜた。三回ほど混ぜると、繭子は緊張した面持ちで壜を戻しに行った。
女中に呼ばれ、繭子が行くと、居間には父が待っていた。父は飯を少しずつ食べていた。繭子が自分の膳の前に座って味噌汁をすする。父はそれをちらりと見ると、口を開いた。
「何だ、繭子」
「何でも無いわ」
父はため息を吐き、呟いた。
「次はお前の番だな」
「何のこと?」
「結婚だよ」
「そう」
「お前の事だからな。嫁いでもすぐに出戻って来る気がするよ。なんせわがままだからな」
父が笑う。
「そう」
「そうならないように山下のような良い奴を探さんとな」
「お父様。お食事中は黙っているのが作法でしょ」
「すまんすまん。絹子のことが嬉しくてな。十月十日が過ぎれば私も孫を持てるということだ」
味噌汁椀を持ち上げる。繭子の箸の動きが止まる。少しすすって、止める。
「何だか変わった味だな」
そのまま、ごくごくと飲み、ワカメまでも全て食べた。
「考えておくよ。私の研究室の中から探そう」
にっこり笑った父は、少しずつ顔色を変えていった。
「ん?」
「どうしたの? お父様」
繭子の声が少し弾んでいる。
「何だか気分が悪い。部屋に戻って、いや、ここに寝ていいか、繭子」
「いいわよ。大丈夫?」
「大丈夫だ。どうしたんだろうな」
父親は膳の前の畳に寝転がった。そのまま目を見開いて、ふうふうと息をする。
「あっ」
「どうしたの?」
繭子が近寄る。父は繭子の腕を掴む。
「医者を、医者を」
「必要ないわ、お父様」
繭子がその手を振り解く。父の手が空を掴む。
「お父様はもうすぐ亡くなるのよ」
泡を吹き始めた。苦しそうに、もがく。
「繭子、繭子、繭」
「お父様が悪いのよ。絹子さんを嫁がせたりするから。お陰であんなに冴えない男の子供を身ごもってしまったのよ。殺されたって仕様が無いわ」
繭子が口をつぐんだまま、嬉しそうに微笑んだ。父親は、それを見て、つつ、と涙を流して、完全に事切れた。
繭子はくすくす笑っていた。笑って、笑って、笑って、やっと真顔になった。
「そうだわ。絹子さんに知らせなきゃ」
女中を呼ぶと、死体を見て騒ぐのを面倒臭そうにあしらって、
「お父様が突然亡くなったの。電報を打って頂戴」
と言いつけた。
「お医者さまは」
「もう亡くなっているんだから必要ないわ。とにかく電報を」
「はい」
女中は震える声で返事をし、外に出て行った。
繭子は満足げに父の遺体を見下ろし、笑った。そして、急に泣き出した。
「お父様のせいなのよ。お父様が私の絹子さんを嫁がせたりするから、私、人殺しになってしまったわ。お父様の馬鹿」
目を見開いた父親の、頬を叩く。
「絹子さんに嫌われるわ。どうしてくれるの」
「死んでしまったね」
幻影が消えた。老人が憂鬱そうな顔で繭子を見た。繭子は老人を見ていた。そして少し笑った。
「私、人殺しだったのね」
「そうだよ、繭子。父親殺しだ」
「どうして忘れていたのかしら?」
「君は自分を人殺しだと思いたくなかったからじゃないか? 君はいつも無邪気だものね。無邪気でいようとしているんじゃないか?」
「私は無邪気よ」
「邪気の塊だよ」
絹子が嗚咽を上げて泣いていた。松子が肩に触れると、それを振り払った。