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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第三章 無音室で裁かれる
23/30

3-7 繭子3

 顔を紅潮させた絹子が、平凡な顔立ちをした夫に伴われて、玄関口に立っていた。髪を結った繭子が大きな音を立てて廊下を駆けてくる。

「絹子さん」

「繭子さん、久しぶりね」

 絹子が柔らかく微笑む。

「どうしたの? 急に来て。それに遅いわよ。もっと頻繁に来て頂戴よ。近いのに」

「駄々っ子みたいね、繭子さん」

 絹子が笑う。繭子がむっとする。

「お父様を呼んできて。お話があるのよ」

 繭子はそれを聞いて、ぶっきらぼうに頷き、書斎の父を呼びに行った。

 広い居間で、絹子たち夫婦と父親が談笑している。そこに女中を引き連れて、繭子が湯気の立ったお茶を持ってきた。父が振り向く。笑っている。

「繭子。絹子は身ごもったそうだ」

 ふと、立ち止まる。そしてまた動き出す。

「そうなの。絹子さん、おめでとう」

「ありがとう」

 絹子が心底嬉しそうに頭を下げる。繭子も笑っているが、その目は輝きを失っている。

「嬉しそうね」

「そりゃあそうよ。子供が出来て嬉しくない女性がいて?」

 絹子が腹部を撫でる。

「そこは胃じゃないか?」

 絹子の夫が口を開く。

「あら、そうですね。まだ慣れていないから気付きませんでしたわ」

 繭子以外の全員がどっと笑い始める。繭子は無言でお茶を各人の前に置きながら、ガラス玉のような目で絹子を見つめていた。

「大丈夫だろうか?」

 老人が三毛を撫でながら呟いた。繭子がぼんやりと消えた幻影の跡を見つめ、絹子が唇を噛んでいる。

「大丈夫なわけが無いな、三毛。繭子はこの通りの人間なんだから」

 老人が繭子をじっと見詰めている。

     *

 繭子が小さな壜を持って、居間に向かう。そこには食事が用意してある。膳の一つを見つめて、繭子は立ち止まった。そっと、座る。大きな椀に飯が盛られ、ワカメの味噌汁にカレイの煮付け。漬物が少し、置いてある。その中の味噌汁に目をつけた。壜の蓋を開き、スプーンで中身を掬い、味噌汁に入れ、くるくると混ぜた。もう一度、混ぜた。三回ほど混ぜると、繭子は緊張した面持ちで壜を戻しに行った。

 女中に呼ばれ、繭子が行くと、居間には父が待っていた。父は飯を少しずつ食べていた。繭子が自分の膳の前に座って味噌汁をすする。父はそれをちらりと見ると、口を開いた。

「何だ、繭子」

「何でも無いわ」

 父はため息を吐き、呟いた。

「次はお前の番だな」

「何のこと?」

「結婚だよ」

「そう」

「お前の事だからな。嫁いでもすぐに出戻って来る気がするよ。なんせわがままだからな」

 父が笑う。

「そう」

「そうならないように山下のような良い奴を探さんとな」

「お父様。お食事中は黙っているのが作法でしょ」

「すまんすまん。絹子のことが嬉しくてな。十月十日が過ぎれば私も孫を持てるということだ」

 味噌汁椀を持ち上げる。繭子の箸の動きが止まる。少しすすって、止める。

「何だか変わった味だな」

 そのまま、ごくごくと飲み、ワカメまでも全て食べた。

「考えておくよ。私の研究室の中から探そう」

 にっこり笑った父は、少しずつ顔色を変えていった。

「ん?」

「どうしたの? お父様」

 繭子の声が少し弾んでいる。

「何だか気分が悪い。部屋に戻って、いや、ここに寝ていいか、繭子」

「いいわよ。大丈夫?」

「大丈夫だ。どうしたんだろうな」

 父親は膳の前の畳に寝転がった。そのまま目を見開いて、ふうふうと息をする。

「あっ」

「どうしたの?」

 繭子が近寄る。父は繭子の腕を掴む。

「医者を、医者を」

「必要ないわ、お父様」

 繭子がその手を振り解く。父の手が空を掴む。

「お父様はもうすぐ亡くなるのよ」

 泡を吹き始めた。苦しそうに、もがく。

「繭子、繭子、繭」

「お父様が悪いのよ。絹子さんを嫁がせたりするから。お陰であんなに冴えない男の子供を身ごもってしまったのよ。殺されたって仕様が無いわ」

 繭子が口をつぐんだまま、嬉しそうに微笑んだ。父親は、それを見て、つつ、と涙を流して、完全に事切れた。

 繭子はくすくす笑っていた。笑って、笑って、笑って、やっと真顔になった。

「そうだわ。絹子さんに知らせなきゃ」

 女中を呼ぶと、死体を見て騒ぐのを面倒臭そうにあしらって、

「お父様が突然亡くなったの。電報を打って頂戴」

 と言いつけた。

「お医者さまは」

「もう亡くなっているんだから必要ないわ。とにかく電報を」

「はい」

 女中は震える声で返事をし、外に出て行った。

 繭子は満足げに父の遺体を見下ろし、笑った。そして、急に泣き出した。

「お父様のせいなのよ。お父様が私の絹子さんを嫁がせたりするから、私、人殺しになってしまったわ。お父様の馬鹿」

 目を見開いた父親の、頬を叩く。

「絹子さんに嫌われるわ。どうしてくれるの」

「死んでしまったね」

 幻影が消えた。老人が憂鬱そうな顔で繭子を見た。繭子は老人を見ていた。そして少し笑った。

「私、人殺しだったのね」

「そうだよ、繭子。父親殺しだ」

「どうして忘れていたのかしら?」

「君は自分を人殺しだと思いたくなかったからじゃないか? 君はいつも無邪気だものね。無邪気でいようとしているんじゃないか?」

「私は無邪気よ」

「邪気の塊だよ」

 絹子が嗚咽を上げて泣いていた。松子が肩に触れると、それを振り払った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 23/30 ・ああ~繭子さん…… ・これは……どうすれば良かったんだ? [気になる点] 3-5『老人は頬杖を突いたまま、』 3-6『父親は、ふうっとため息を吐いた。そして髭をいじると、…
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