3-6 繭子2
「君たちは少し変わった姉妹愛にあるようだね。そしてどうやらそれは繭子の方が強いようだ。繭子は家に帰りたがっていたね。学校の同級生よりも、姉である絹子のことが好きだからだろうね。君たちが家で何をしていたか、見てみよう」
ここは洋間のようだ。狭いが、革張りのソファがあるし、灰皿の載ったテーブルもある。何より、防音壁のそばに木目の見えるアップライトピアノがある。姉妹はそこにいた。絹子がラヴェルの『鏡』を長々と弾いていると、繭子がその肩を叩いて交代を促す。絹子は笑って取り合わない。光がちらちらと飛び交うような音楽を弾き鳴らし続けている。
「もう、絹子さんたら意地悪だわ」
繭子が怒ると、絹子は笑ってピアノを止めた。
「あなたはラヴェルよりもドビュッシーが好きだものね」
「そうよ。私に弾かせて」
絹子が椅子からどくと、繭子がその席に座った。何を弾こうかという風に考える仕草をして、手を鍵盤に置いた。指が動き出すと、謎のような響きが奏でられ始めた。ドビュッシーの『夢』だ。絹子は微笑みながら聴いている。
最後の音が終わると、絹子は拍手をした。繭子がにっこり微笑む。
「こんな風に、ピアノの趣味は合うのよね」
絹子が呟くと、繭子は少し顔を曇らせた。
「私とあなたは趣味が全然違うのだもの」
「そんなことはないわ」
「だって、あなたは何を読むかしら? 『魔風恋風』に『金色夜叉』、ああ、『花物語』も読むわね。女学校の他の人たちと一緒ね。いつか探偵小説のような俗悪なものも読むのではないかと心配よ」
「違うわ、違う」
繭子は首を振る。
「それにミュシャだったかしら。あなたの好きな画家は。あの絵は何の主張もしない美しいだけの絵だと思うわ。私、好きではないわ」
「そう」
繭子はしゅんとしている。
「蕗谷虹児の絵も可愛らしいけれど、それだけよ。後世に残るようなものではないわ。それにあなた、少女雑誌を読んでいるのよね。私、知っていてよ」
「何でも知っているのね」
「あなた、隠すのが下手なのだもの」
絹子がくすくすと笑う。繭子がすがるように絹子に近寄る。
「じゃあ、絹子さんは何が好きなの? 何を見て、何を読んでいるの? 教えて」
「イプセンの『人形の家』が好きだわ。それに、谷崎潤一郎という作家を知っていて? とても素晴らしいのよ。私、『少年』という短編が好きなの。読みたいの?」
「読みたいわ。絹子さんと同じものを読みたい」
「じゃあ、あなたは『人魚の嘆き』から読めばいいわ。おとぎ話的であなたに合っていると思うから。絵は、本でしか見たことがないけれど、ルネッサンス期のものが好きだわ。ボッティチェッリやミケランジェロね。最近では印象派の画家も好きね」
「私、絹子さんと同じものを読むわ。同じものを好きになる」
「そんな必要は無いじゃない」
絹子は少し困った顔をする。しかし繭子は頬を赤らませて、頑固に譲らない。とうとう絹子は根負けして、
「好きになさい」
と言った。繭子がほっとした顔をする。絹子が繭子を慰めるように、ピアノの鍵盤に手を置いた。
「私たちが一番好きなショパンを弾きましょう。ね?」
「ええ」
繭子が顔を輝かせた。絹子の手から、夜想曲が緩やかに流れてくる。
「何でも同じにして何になるんだろう」
老人が呟くと、幻影は消え、繭子が噛み付くように言った。
「絹子さんと同じになりたいのよ。それのどこが悪いの」
「君は絹子じゃないよ。繭子だ。好きな大衆小説や絵を好んでいて何がいけないんだ。絹子が君の趣味を批判しているかもしれないけれど、変えろとまでは言っていないよ」
「絹子さんと同じがいいのよ」
「子供じゃないんだよ。君は、異常だ」
*
「さて、君の女学生時代はこれくらいにして、絹子の結婚後の君を見てみようか」
老人は黒い花びらが落ちている辺りに目を向けた。そこにはまた新しい幻が生まれていた。絹子と繭子の部屋だ。文机は一つだけになり、広々としている。ただ、フランス人形や白い日傘が部屋に散らばっている。畳の上には、しゃがみこんだ繭子がいた。
「絹子さん」
そっと、フランス人形を触る。
「絹子さん」
日傘を触る。見る見るうちに、繭子の目に涙が盛り上がってくる。
「嫌。絹子さんが他人のものになってしまうなんて、嫌」
「何を騒いでいるんだ、繭子」
ふすまが開いて、父親が顔を出した。怪訝な顔をしている。繭子は振り返ると、
「お父様のせいよ」
と叫んだ。
「お父様が絹子さんをお嫁にやるから、私、一人ぼっちになってしまったのよ」
父親は困った顔をする。
「一人ぼっちではないだろう。私がいるじゃないか」
「お父様なんて、絹子さんの代りにはならないわ。何よ。いつも研究のことしか考えて来なかったくせに。絹子さんをお嫁にやった、あの山下とか言う人、全く冴えないわ。絹子さんに似つかわしくないわ」
「絹子は満足しているよ。山下は優しくて、頭がいいから尊敬できると」
「それが嘘だと見抜けないの」
父親は、ふうっとため息を吐いた。そして髭をいじると、ふすまを閉めてどこかへ行ってしまった。
「絹子は夫を愛していたか?」
老人が聞くと、絹子は戸惑ったように眉根を寄せた。
「分からないわ。ただ、尊敬はしていた」
「嘘よ」
繭子が叫ぶ。
「繭子はヒステリックだな。人は一人で生きるものだよ。いつまでも姉妹一緒にはいられない」
「だって、だって」
「最も重要な場面を見てみよう」
老人は繭子を無視して、黒い花びらを見た。