1―2 砂糖室
砂糖室は五階の奥にある。白い廊下はくねくねと曲がりくねって合流し、松子の部屋以上にややこしいのだが、慣れた松子は迷ったりしない。最短距離を歩いて部屋に着くことが出来る。砂糖室はいくつもの廊下の合流地点にある。だから簡単だと思えば簡単なのだが、初めてここを歩くときはとても不安になるものなのだ。三毛はドアの無いところは行きつくしているから不安ではなかった。また、砂糖室というものには初めて入るので、わくわくしていた。
ドアは観音開きだった。白いドアだ。三毛は中からざあざあと何かが流れる音を聞いた。松子は、そっとドアを開いた。途端に、音が大きくなった。同時に、視界は柔らかな白になる。部屋はそれほど広くは無かったが、奥に進むほどに目の前にあるものの正体が分かった。砂糖の噴水だ。床から噴出する小さな噴水が、床に湧き出しながら広がっていく。溜まった砂糖はどこに行くのだろう。湧き出た砂糖のかさが増えることは無かった。
砂糖が撒き散らされて匂いがやけに鼻につく。三毛はくしゃみをした。松子が少し笑う。それに反応した三毛が顔を上げる。松子は壁に銀の鍵を手にしていた。彼女の部屋の鍵だ。それをドア近くの壁に空いた小さな鍵穴に差し込むと、松子と同じくらいの大きさの扉が現れた。開いてみるとそこはロッカーで、中には彼女のお望みの小さな石膏の塊と茶色い糸玉が置いてあった。よく見てみると、壁には無数の鍵穴がある。どうやらここはロッカールームのようなものらしい。
「ああ、良かった」
松子がホッとしたように笑った。
「この間は何故か血まみれのカッターナイフが一つ、置いてあったのよ。おかしいわね。私は欲しいものを望んだのに」
この部屋は、欲しいものが手に入る部屋らしい。ナイフがあったのなら、彼女のそのときの本当の望みはそれだったのだろう。
ふと、三毛は考えた。三毛がロッカーを開くと、何が出てくるだろう。三毛は何が欲しいのか考えて見た。食べ物や飲み物がいくつか浮かんだが、そんなものはいつでも住人たちにもらえるものだった。三毛はぼんやりとして、砂糖の飛沫を浴びていた。本当に欲しいもの。そんなものは三毛にはひとつも無いようだ。その時、背後で声が聞こえた。
「明日は新しい乗客が来る日よね」
「ええ」
「楽しみじゃない?」
「そうねえ」
「私、ペルシャが良いわ」
「どういうこと?」
「新しい猫よ」
「お客がまた猫だって言うの。それだったら私はシャム猫が良いわ。気品があって素敵だもの」
「ペルシャだって綺麗だわ。私、子供のときからペルシャ猫が欲しかったのよ」
「でも、三毛がいるじゃない」
「三毛は日本猫だもの。私は洋猫が欲しいの」
「じゃあ、三毛はもう要らないの?」
「ええ、あの人にあげてしまうわ」
「あのしょっちゅう来る陰気な女ね。猫としか話せない可哀想な人。良いんじゃないかしら」
ドアが開いたその瞬間、その場は凍りついた。繭子は口を押さえて目を見開いていた。絹子は微笑していた。荷物を持った松子は、顔を上げることもしなかった。三毛は声も出さずに黙っていた。
「三毛、行きましょうか」
松子の固い声が三毛の耳に届いた。三毛は石膏の塊を抱えた松子に、従順についていった。繭子は何故か悔しそうに松子を睨んでいた。絹子だけが冷静に、松子たちとすれ違いに歩いていった。
*
松子は疲れたような足取りで廊下を歩いていた。三毛は松子に与えられた痛手がどんなに大きいものか分かっていた。彼女はこの四十年間他人に罵倒されずに済んでいたのだ。松子はこの船から出たがっている。けれど、この船が、彼女の恐れる罵りから守っていたのは確かなのだ。
三毛は知っている。船の人々が何故ここに閉じ込められているのか。望んだのだ。誰からも傷つけられない場所を下さいと。嫌われたり、殴られたり、哀れみの目で見られたりする、こんな現実から救ってくださいと。
松子は語ったりしない。姉妹も語らない。ただ、三毛の知っている、三毛を可愛がる人々の中には、三毛が言葉を話せないのを良いことに、自分の過去の苦しみについて涙を流しながら語りかける者もいるのだ。他人が怖い。声を聞くことさえ怖い。そうやって部屋から滅多に出てこない乗客がほとんどだ。
松子は彼らほど弱くはない。けれど、先ほどの絹子の言葉は痛いに違いなかった。
「あの人たち、嫌いだわ」
そうつぶやくと、松子は回廊に出て、そこからつながる階段を下りていった。
「いつも花しか食べないなんて、気取っていて馬鹿みたい。三毛のことだって、あげるも何も――」
「こんにちは」
階段を下りて二階に近づいてきた松子と三毛は、ぎょっとして下の段にいる男を見た。さっき見た男だ。銀縁眼鏡をかけていて、紺色のくたびれた着物に海老茶色の兵児帯を結んでいる。わずかに猫背で、若いのに少し年寄りじみて見える。彼は上の段で唖然としている松子に近寄ってきて、慌てたように話し出した。
「あの、お話があるのです」
「何でしょう」
松子も困惑しているが、話しかけてきたほうの男のほうがより混乱しているようだった。きっと話をするのも久しぶりなのだろう。声がざらざらしていて、かすれていた。手すりを指でこつこつ叩いている。
「猫の話です」
「猫?」
男はぎこちなく頷いた。
「私は小鳥を飼っています。とても大事にしている小鳥なのです。あの、あなた、猫を飼っているでしょう。ほら、その猫」
「いいえ」
男が三毛を指差すと、松子はあっさり否定した。男は更に慌てたように眼鏡を直した。
「あなた、私よりずっと昔からこの船にいるでしょう。なら知っているはずだわ。この子は船のお客さんだってこと。五年前、船が陸に着いたとき、三毛がデッキにいたことを覚えているでしょう。忘れたんですか」
「いえ、覚えています。でも、実質的には飼っているでしょう。えさをあげたり、連れまわしたりして」
「それなら船の人は皆やっています。三毛はたくさんの人と友達なんですから」
「そうですか、しかしですね、私は小鳥を飼っていて」
「三毛が襲わないか心配だって言うんでしょう。ご心配なく。三毛はあなたの部屋には入りませんから」
「何故?」
「あなたの部屋がいつも締め切ってあるからです」
松子は段々苛々してきたようだった。こつこつという音と、男の頻繁な手振り、足踏みに不快感がこみ上げてきたからだ。
「私だって部屋から出ますし、子猫はどこにでも行くでしょう。私はそれが心配でしょうがないのです。あなたにどうにかして欲しいのです」
「大丈夫ですよ」
「根拠が無いでしょう」
男の指が大きくこん、と鳴って止まった。途端に松子の怒りが爆発した。
「いい加減にしなさい。あなた、そんなに心配なら小鳥を高いところに置けばいいでしょう。子猫には届かないんだから」
男は黙り込んだ。
「もう部屋に帰ります。三毛、おいで」
三毛を従え、靴音を鳴らしながら階段を下りていく松子に、男は静かに言った。
「猫は何をするか分かりませんよ。何かあったら責任を取ってもらいますから」
それを聞いた松子はますます早足になって階段を下りた。そしてずんずん廊下を歩き、自分の部屋に飛び込んだ。三毛は尻尾をドアに挟まれるところだった。
部屋に入ると、松子はソファーに倒れこんだ。三毛はその横に寝転んだ。
「他人と話すことがこんなに面倒なことだって、すっかり忘れていたわ」
それに、と松子は続ける。
「三毛、あんたがこんなに悪く言われたのだって災難よね。猫嫌いの人はたくさんいるけれど、あの人は小鳥っていう名分があるから面倒ね」
三毛はあまり気にしていなかった。男のことも、姉妹のことも。他の猫のことは知らないが、三毛は嫌われても、どうでもいいような扱いを受けても、一向に平気だった。嫌われたら近づかなければいいし、放っておかれたらこっちも構わなければいい。それだけだ。松子のように傷ついたり、恐れたりするのは大変だろうと思う。人間は可哀想だ。
「あの人、とても変わっているのよ。私より六十年くらい前にやってきたんだけど、珍しいことにかごに入った白文鳥が一緒だったの。たくさんの人に囲まれて、あの人はとても動揺していたんですって。そこへおじいさんがやって来て、『ようこそ、白い船へ!』って言ったの。そして、名前とか出身国なんかを尋ねたの。でも、戸惑うばかりで何にも答えないのよ。そこでおじいさんは『可愛い小鳥だね』って言って鳥かごに触ろうとしたの。そしたら、いきなり顔を真っ赤にして怒ってその手を払って、『千代に触るな!』って怒鳴ったの。その後も手の付けられない怒りようで、おじいさんはあの人と仲良くするのは諦めたらしいわ」
松子は煙草に火をつけた。一気に吸い込んで吐くと、煙が部屋中に広がる。三毛は煙の行方を追った。煙は天井にたどり着くと、拡散して段々見えなくなった。
「この船の人たちは嫌い。どうして私はあの人たちにこんなに似ているんだろう」
三毛は松子を見た。煙草の煙は彼女の顔をうっすらと霧がかったように見せた。