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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第二章 香辛料入りの少年
15/30

2―11 千代

 繭子は当たり前のように松子を訪ねてきた。松子は驚き、少し恐ろしそうにしながら迎え入れた。

「暑いわね」

 繭子はぱたぱたと手で顔を扇ぎながら部屋に入った。三毛をじゃらしている優を見つけると、つっけんどんに、ごきげんよう、と声をかけた。

「ねえ、松子さん。デッキに行きましょうよ」

「暑いのに?」

「ホールで絹子さんと知らない女の子が話しているの。それを見に行きましょう。通り過ぎるだけよ」

 繭子は嫉妬に燃えた目をして笑った。松子はため息を吐き、同意した。

 ホールでは数人が白い椅子に座り、静かに本を読んだり窓越しに海を眺めたりしていた。その中に、小さなささやき声が響いていた。絹子だった。向かいにいるのは、緑色の麻の着物を着た、小柄な少女だ。絹子が熱心に話しているのに、少女は時折けたたましい笑い声でそれを遮っていた。

 繭子を先頭にして階段を降り、デッキに向かう。出口側の席にいる絹子は、一行がドアを開けて外に出ようとした時に、気付いた。突然、絹子が厳しい顔で言い放った。

「水島さんを呼んで」

 少女は、昨日三毛が見た少女だった。笑っているにもかかわらず、不気味だ。少女は、けらけらと笑った。

「嫌。会わない。会いたくないわ」

「ふざけないで。私はあなたの代わりにされているのよ。会ってもらうわ」

「兄様に会ったら、私、死んでやるから」

「千代子さん」

 異様なまでに笑い続ける千代に、繭子がぞっとしたように身を引いた。松子が尋ねる。

「この子は誰?」

「水島さんの義理の妹さんよ。早く水島さんを呼んで」

 絹子は松子を見ずに言った。すると、千代が耳鳴りのするような悲鳴を上げた。

「嫌よ。兄様に会ったら、私、狂う。おかしくなる」

「もう十分そうよ」

 絹子が激昂した。千代は唇の端を引き上げながら、絹子をねめつける。

「私がどうしてあなたの前に現れたか、分かる?」

「知らないわ」

「兄様に囚われている女がどんな女か、きちんと見たかったからよ」

 絹子がぐっと黙り込み、千代を睨む。千代は表情を和らげて、質問をがらりと変える。

「兄様は相変わらず小鳥を私の名で呼ぶの?」

「そうよ。異様なまでに可愛がっているわ」

「嫌な兄様。どうして私にこだわるのかしら」

「あなたは水島を愛していないの?」

 絹子はふと不安げな顔で尋ねた。千代は、

「無論よ」

 と答えた。そして優を見据える。優がぎゅっと口を閉じる。

「兄様は私から吉弥を奪って、私を結婚できない体にしてしまったのだから」

 気付くと、松子が遥か遠くの二階の階段を降りてきていた。水島を連れている。水島はゆっくりと歩みを進めていたが、千代を見ながらその目は興奮に満ち、早足になってきた。満足げに絹子は笑った。

     *

「絹子。これはどういうことだ。どうして千代がいるんだ」

 水島はテーブルにやって来ると、まずそう言った。絹子が疲れたようにため息を吐く。

「あなたの愛してやまない千代子さんよ。これでわたしはお役御免ね」

 千代は窓の外を見つめて、放心したように黙っていた。そんな千代を水島は正面から眺めた。表情がみるみる明るくなる。

「お千代」

 千代は顔をしかめてテーブルに顔を向けた。それでも水島はそれを追ってしゃがみ込む。

「お千代はどうしてここにいるんだい。ずっと会いたかったんだよ。どうして隠れていたんだい」

「あなたに会いたくなかったのですって」

 不意に、繭子の笑い声が入り込んできた。水島は聞こえないふりをして千代に話しかけた。

「お千代、これからも僕に会ってくれるだろう? 今までのように隠れたりしないで。僕に会ってくれるだろう?」

「そして兄様にぼろぼろにされるのね。身も心もぼろぼろに」

 千代が初めて口を開いた。もう笑っていない。水島は気味が悪いほどにこにこ笑っている。

「隣の吉弥が大好きだと、兄様に告白したわよね。吉弥と結婚したいと。すると兄様は私を蔵に連れ込んだわ。口にするのもおぞましい事を私にしたわ。私、たったの十六だった。何にも知らなかった。知らないのに瞬く間に色んな事を知ってしまった。私は無垢なままでいたかったのに」

 千代が顔を覆って泣き出した。水島は笑い続けている。それを見ながら、三毛を抱いた優が、不安を抱いているのを三毛は感じていた。

「私が船に乗ってしばらくして、兄様はやって来たわ。小鳥に私の名前を付けて。私、恐くなったわ。だからずっと自分の部屋にこもっていた。出来るだけ気付かれないよう、ひっそりと暮らしていた。絹子さんに私と同じ事をしているのね。やはり兄様は悪魔だわ」

「血が繋がっていないんだよ、お千代」

 水島がやっと口を開いた。笑っているのは相変わらずだ。

「血が繋がっていないのなら、何をしたって問題が無い。絹子さんなどは実のお父様を慕っていたというのだから、質が悪いと思わないか」

 絹子が立ち上がった。水島に近づく。

「私は父を愛していただけ。父は私に何もしなかったわ。あなただけよ、異常なのは」

「異常?」

「異常よ」

「僕は君と慰めあっていただけだろう? 何故そんなことを言うんだ?」

「あなたは私を食べていただけ。千代子さんと同じよ。私はあなたに蝕まれていった」

「馬鹿な」

「ねえ、皆さん」

 外から千代の声が聞こえ、その場にいた全員がはっと外を見た。千代は左舷側の手摺りに掴まり、身を乗り出していた。

「お千代」

 慌てて水島が飛び出す。松子が続き、その後を優が追う。

「もうさよならをしようと思うの」

 潮の匂いの中、真っ白なデッキの上で千代は笑った。

「兄様に見つかってしまったのだもの」

 水島がぐんぐんと千代に向かって走り出す。千代は手摺りに手をかけ、力を込めて体を持ち上げた。

「もうお仕舞いよ。それでは」

 水島が手を伸ばしたが、遅かった。千代の体は手摺りの向こうに消え、鮮やかな緑色の布地と白く汚れた足袋の裏が三毛の目に映った。水島は手を伸ばしたまま、訳の分からない事を叫んでいた。しばらくして、何かが海に落ちる小さな音が聞こえた。千代が死んだ音だった。


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