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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第二章 香辛料入りの少年
14/30

2―10 不幸

「本当なのよ。信じて」

「嘘を吐いて僕から逃れるつもりだろう。そうはいかないぞ」

 水島の部屋の前で、二人は言い争いをしていた。

「僕が嫌いなんだろう。分かっているんだ。けれど、逃さない。僕は君を手放さない」

「千代子さんはおかしくなっているようだった」

「嘘を吐くな」

 水島が絹子の頬を叩いた。絹子の悲鳴が響く。途端に、向かいの部屋のドアが開いた。飛び出して来たのは繭子と松子だ。おずおずと、優が続く。繭子は絹子の側に寄り、じっと水島を睨む。松子が顔をしかめてこの状況を見ている。絹子が床に落としてしまった三毛を、優が拾い上げた。

「立ち聞きしていたのか」

 水島が不快そうに松子たちを見渡した。松子がため息を吐く。

「あなたが起こした騒動ですよ」

 水島はむっと黙っている。そのまま、部屋に入ろうとする。

「待って」

 絹子が叫ぶ。

「千代子さんはいるのよ。本当よ」

「信じないと言っただろう」

 水島は、自分の部屋の中に入り、ドアを閉じてしまった。

「殺してやるわ」

 繭子がようやく喋った。松子がたしなめようとすると、絹子が早口で囁いた。

「止めなさい」

「殺してやるわ。殺鼠剤を食事に入れれば簡単よ。一遍には死ななくても、毎日飲ませていれば死ぬわ」

「あなた、また人殺しをする気なの」

 絹子が叫んだ。松子がぎょっと繭子を見た。繭子は不思議そうに絹子を見つめていた。

「殺鼠剤だとか食事に混ぜるだとか、全部同じ。あの時と同じよ」

「あの時?」

 繭子が無邪気そうに首を傾げる。絹子が激昂する。

「お父様を殺した時よ」

 優が三毛をぎゅっと抱いた。三毛は首を伸ばして繭子を見た。繭子は笑っていた。

「覚えていてよ。お父様、苦しそうにお亡くなりになったわね。私、いい気味だと思ったわ」

 絹子が恐怖を顔に浮かべ、松子は繭子から離れた。繭子は一人、歩いていった。

「でもまた忘れるのだわ。全て」

 次の瞬間に三毛が見た繭子は、本当に何もかも忘れているように見えた。まっさらな表情をしていたからだ。

     *

 騒動が落ち着き、繭子がどこかに行くと、絹子は、松子と優を見て嫌な顔をして階下に戻っていった。松子は呆然としていた。

「おばさん。部屋に戻ろうよ」

 優は傷ついたようにそう言った。松子は頷き、優と共に部屋に入った。部屋の奥のソファに並んで座る。

「本当かな」

「どうかしら」

 優の呟きに、松子は上の空の返事をした。

「繭子さんは少し変わってるけど、本当に人殺しなんてするのかな」

「この船に乗ってるんだもの。不幸な事は何だってありうるわ」

 松子は優が膝に乗せている三毛を受け取って、胸に寄せて撫でた。三毛はごろごろと喉を鳴らした。

「三毛だって、何かあったのよ」

「猫に?」

「ええ。不幸が」

「不幸?」

「ええ。あなたの不幸と同じようにね」

 優は下を見て、しばらく黙った。

「俺、気持ち悪いんだってさ」

「気持ち悪い?」

「気味が悪いとも言われたな」

「そんなこと無いわ」

「同級生や先生に、気持ち悪い、暗いって言われた。クラスで威張ってる奴に、死ねって言われた。女子には無視された」

「どうして?」

 松子が聞くと、優は大声で叫んだ。

「知るわけないじゃん」

 三毛と松子はびくりとして、互いに目を合わせた。

「ごめんなさい。でも酷いわね。ご両親は何も言わなかったの?」

「親は片方しかいないから、それどころじゃない。離婚したんだ」

「まあ」

 一九七〇年にこの船にやってきた松子は、酷く驚いた。眉間にしわを寄せて、悲しげな表情をしている。

「日本は豊かになったと思っていたのに」

「豊かだよ。何でもある。ただ、俺には住みにくいんだ。辛くて、辛くて、死にたかった。家に引きこもるのもいいと思った。けど、お母さんは許してくれなかった。死にそうだって言ったら、死ねばいい、って言った」

「そんな」

 三毛は泣きたい気持ちになってきた。優の淡々とした口調が、誰も寄せ付けない、誰も信用しない気持ちを表しているように思えたからだ。優の代わりに泣きたい。優は泣きたいに違いないのだ。

「お母さんを殺してやろうかと思った。包丁で刺して、ぐちゃぐちゃにして、ゴミにして出してやろうって。そう思った瞬間、自分が恐くなった。俺は人殺しになるんじゃないかって、恐かった。この船に来たのは、学校で果物ナイフを同級生に見つけられて、逆にそれを突き付けられて家に逃げた時だったんだ。もう、何だっていいと思った。ここから逃げられるのなら何だっていいって」

 優の目はうつろだった。顔色の悪さと相まって、病人のように見えた。

「あなた、無音室に行ったことがある?」

 唐突に、松子が聞いた。優は力無く首を振った。

「一階の奥にある部屋だろ? 名前が恐くて行ったこと無い」

「行くべきだわ」

 怪訝な顔をした優は、

「いつか行くよ」

 と言った。松子は念を押すようにその顔をじっと見て、にっこり笑った。

「死んで欲しいと思ったことはあるわ。夫の愛人と夫。でも死んでしまったのは娘だった」

 優と三毛がはっと松子を見た。松子は能面のような笑顔のまま、呟いた。

「夫が愛人を取ったから私はノイローゼになった。そしたら娘は、手首を切って自殺した。娘の部屋の中を見て、叫びも喚きも出来ないでいる時に、私は船に呼ばれたの」

「呼ばれた?」

 優が不思議そうな顔をした。松子は表情を崩さないまま、こう言った。

「皆呼ばれたのよ。そう、皆」

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