2―9 侵食
「あら、新しいお客様ね」
松子の部屋のドアの前で待っていた繭子は、心底驚いたように目を丸くした。優はそんな繭子を見ないようにしている。松子は優を気にしながら、明るく振舞った。
「砂糖室で会ったのよ。今日は一緒におしゃべりしましょう」
「いいけれど、どうして? 松子さんはその子とお知り合いだったかしら?」
「知り合いではあったのよ。ただ、仲良くしなかっただけ」
「船の他の人たちと同じ理由で?」
「そうね」
「俺、自分の部屋に帰る」
優が急にかすれ声を上げた。三毛が見ると、不安げな顔をしてずいぶん遠くに立っている。
「帰らなくてもいいわよ」
松子が困った声で言った。繭子は目をぱちくりしている。
「でも……」
「この人は絹子さんじゃなくて繭子さんよ」
優は黙り込み、繭子は少し驚いた顔をした。
「絹子さんと何かあって?」
「気持ち悪いと言われたらしいわ」
「絹子さんが? あんなに気に入っていたのに」
優は泣きそうな様子でじりじりと後ろに下がっていった。恐る恐る繭子に尋ねる。
「知ってるんですよね」
「知らないわ」
繭子は即座に答える。少し面倒臭そうだ。三毛を床から持ち上げあやす。松子がそれを見て、ため息をつく。
「いいから来なさい。いいから」
優はそれを聞いて黙り込んでいたが、二人が三毛と共にドアの中で待っているのを見て、慌てて走ってやって来た。
「それでね、絹子さんはあの男のところに入り浸りなの」
ドアが閉じた瞬間、繭子はさっきまでしていた話の続きのように、最後には涙声になりながら言った。優は松子の部屋を見渡し、物珍しそうに歩き回った。
「水島さんね」
松子が答えると、優は立ち止まって二人を見た。繭子は優を見た。
「なあに。何か文句があるの」
「いえ」
優は目をそらし、絨毯の上の三毛がじっと見ていることに気付く。松子と繭子の二人は、部屋の隅のクリーム色のソファに体を沈める。
「私、夜中に出て行く絹子さんをつけたの。絹子さんは一番上等の藍の着物を着ていたわ。朝顔の柄の。陰から見ていたの。すると案の定あの男がやって来たの。そして絹子さんを連れて行くの。自分の部屋でしょうね。ここのお向かい」
繭子が最後の言葉を吐き捨てるように呟く。優と三毛は見詰め合っていた。
「中に入った所を見届けて、泣きながら帰ったわ。どうしてあんな男と? 信じられないわ。私がいるのに」
「絹子さんは、帰ってきたらどんな様子なの?」
松子の声。優はおずおずとしゃがみ込み、三毛に触れた。三毛の毛がくすぐったいくらい柔らかく動く。
「疲れているわ。可哀相に。本当は会いたくないのよ、あんな男に」
「そうとも限らないでしょう? 普段はどうなの? 昼間は」
三毛に触った感動からか、優は顔を紅潮させた。思い切って、三毛を抱き上げてみる。宙に浮いたまま、三毛は黙って、ただ優を見つめ続けていた。
「普段は、寝ているわ。自分の寝室で。私、絶対に絹子さんはあの男に脅されていると思うのよ。そうでなければ、あんなに疲れたりしないわ。私に対してあんなに後ろめたそうにしないわ。私にだって、素直に話しかけてくれるはずだわ。絹子さんのことは私が一番分かっているの。何かあるのよ」
「あなたが聞けばいいのよ。何かあるの、って」
優は三毛を胸に抱き寄せていた。潰さないように、そっと。三毛は優の胸に小さな前足をかけて、目を細めた。
「勇気がないの。いっそ、何も言わずにあの男だけ殺せばいいのだわ。松子さん、この間、一人で砂糖室に行ったの。壁から出てきたもの、何か分かる?」
「さあ。何?」
暖かな胸の中で撫でられながら、三毛は思う。孤独とは何と甘やかなものだろうと。
「殺鼠剤よ」
孤独と孤独が出会うことは、何と悲しく、嬉しいものだろう。
*
「ねえ三毛。私、蝕まれて行くわ」
藍色の広々としたベッドの上で、絹子はきちんと結ったはずの髪を少し崩して、病人のように呟いた。
「水島に身も心も蝕まれていく」
三毛は絹子が被った薄い布団の上に乗っている。見下ろすと、絹子の顔は生気を失い、瞼は今にも閉じそうに下りてきている。
「今の逢瀬はかつてのような慰め合いなんかではないわ。水島が、私を食べていく。ただそれだけ。私はこのまま死んでしまうのかしら」
絹子がふっと笑う。三毛が首を傾げる。
「死にはしない。死にはしないわ。分かっていてよ、三毛」
起き上がると、三毛が布団の上で転がった。絹子は笑う。
「繭子さんもあの人の所に入り浸りね。あの繭子さんにお友達が出来るのは嬉しい事だけれど、寂しいわ。とても。いえ、悲しい。どうしようもなく悲しい」
絹子は涙をぽろりと落とした。けれど、繭子のように大げさに泣いたりしない。ただ、絹子は危険な状態だ、と三毛は思う。
「三毛、デッキに行きましょうか。気分が良くなるように」
廊下を歩いていると、藍染の着物を着た、優と同じくらいの少女とすれ違った。絹子はそれをちらりと見て、そのまま歩き出した。
「三郎さんをご存知ですか?」
愛らしい声が聞こえてきた。振り向くと、少女が立ち尽くしていた。桃割れに結った、古風な少女だ。子供らしさは微塵もない。ただ、顔立ちはあどけなくて、小さめで黒目がちの目と小さく赤い唇が特徴的だった。笑っている。
「あの人の事をご存知なの?」
絹子が尋ねると、少女はまた笑った。少し、不気味な笑み。
「私もお腹に赤ん坊がいるのよ。あの人の子」
けらけらと笑いながら、少女は駆け出した。絹子は息を呑んだ。そして、走り出した。草履の音が二つ、鳴っている。
「待って。お願い。待って頂戴」
少女の足は速く、この曲がりくねり入り組んだ廊下のせいもあって、気がつくと三毛は少女を見失っていた。それでも絹子は走り続ける。どこまでもどこまでも行き、とうとう無音室というプレートのついたドアにたどり着くと、息を切らしてしゃがみ込んだ。
「千代」
ぜいぜいと息をしながら、絹子は呟いた。
「千代が、この船にいた」