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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第二章 香辛料入りの少年
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2―8 音楽室

「いい加減にして頂戴」

 絹子の声は上ずっていた。木目の見える、色の塗られていないグランドピアノの下で三毛はまどろんでいたが、この闖入者のお陰でその穏やかな気分は台無しになった。緩やかにラヴェルを弾いていた絹子は、今は水島に片手を握られ、それを振りほどこうと必死にもがいていた。ここは音楽室とは名ばかりで、コンサートホールのようにピアノのある舞台と、下には小さな客席があった。三毛は毎日ここで踊っているロシア人のバレリーナが、中に入ろうとして止めたのを見た。

「絹子」

 水島は無表情だった。それでいて絹子に対する執着をあらわにして、絹子を引き寄せようとしていた。

「もう止めて頂戴。私たちの関係は終わったのよ。それでいいでしょう」

「そんなことは知らないぞ」

 水島が顔を少し紅潮させた。そして絹子を抱き寄せて、無理矢理に口付けをした。それが終わると、絹子は水島を睨んだ。水島はお構い無しに絹子の耳元でささやいた。

「僕の部屋に行こう」

「嫌よ」

「いいから来るんだ」

 水島は抵抗する絹子の肩を抱き、客席に降りた。振り返って、ピアノの下の三毛に気付く。水島は舌打ちをした。

「猫か。僕は猫が嫌いだ」

「千代子さんは文鳥に生まれ変わったのですものね。嫌いになっても仕方が無いわ」

 絹子が声を出して笑うと、水島は絹子の顎を掴んだ。

「千代のことを口に出すなと言っただろう」

「信じられないわ。そんなに愛する恋人がいるのに、私にこんなに執着するなんて」

 絹子は苦しげな姿勢でそれだけ言うと、唇の端を上げた。水島は目をぎょろりとさせたが、絹子の顎から手を離した。

「僕と君は苦しみを共有できていると思っていたのだがな」

「共有? 私はあなたの欲望に付き合ってあげただけ。何も共有していないわ」

「僕たちは二人とも、子供を失くした」

 絹子は口を閉じた。

「千代は僕の恋人だった。可憐で、愛らしかった。僕は彼女を孕ませた。すると彼女は僕にそのことを告げて、自殺した。僕たちは結婚していなかった。いや、出来なかった。何故なら僕たちは――」

「その先は聞かせてくれなくても結構よ。一度聞いたもの」

 絹子が大きな声で遮った。

「それに私たちは共通点があるようで無いの。私は夫をあまり愛していなかったし、私の子は」

 いとおしそうに帯の上を撫でる。

「まだこの中にいるのだもの」

「そうか。僕たちは共通点が無いのか」

 水島は静かにそう言うと、絹子を離した。絹子はすぐに音楽室のドアに向かった。

「僕が君を愛していないのは確かだし、君が僕のことを単なる身代わりだとしか思っていないのは確かだな」

「何を言うの」

 ドアノブを握りながら、絹子が呟く。水島が床を見つめながら続ける。

「君は自分の父親を愛していたのだからね。僕が妹を愛したように」

 すっ、と絹子は部屋を出て行った。すぐに、水島も消えた。三毛は一人、音楽室に閉じ込められたが、しばらくすると、誰もいなくなるのを待っていたらしいバレリーナが現れて、くるくると踊りだした。バレリーナは客のいない音楽室で、しなやかに足を上げ、束ねた金髪を輝かせながら回った。

     *

 松子が砂糖室の壁に鍵を差し込んで開けると、白いレースのハンカチが出てきた。松子は首を傾げ、

「これは繭子さんにお似合いね。あげてしまおうかしら」

 と呟いた。三毛は足元にいる。

 繭子が連日松子の部屋を訪れるようになったここ最近、松子は繭子のことばかり言うようになった、と三毛は思う。繭子はずっと絹子と口をきいていないのだという。気まずいからと言って花びらの砂糖漬けの入った壜を持って昼間やって来る。そして、絹子に対する愚痴を吐いて、松子が奇妙な形の彫像を彫るのを、珍しげに眺める。老人以外の船の人々とは交流していなかった松子だが、この若くて美しい、古めかしい風情の女を、自分の友人と認め始めている。

 近頃、また絹子が深夜に出かけるようになったと言って泣く繭子に松子は、いい加減に仲直りをすればいいのに、と言った。姉に恋人が出来たくらいでこんな風になるものなのか? 姉妹はいずれ別れるものだ。

 それを聞いて、繭子は首を振ってハンカチで涙を拭く。あなたには私たちの特別な姉妹愛が分からないのだ、と言う。

 松子はいつものように呆れる。けれど、繭子が来なくなったら悲しくなるから、仲直りの時が遠ざかったらいいと思っている、と三毛にだけ教えた。

 背後で、砂糖室のドアが開いた。松子は気付かないふりをする。没交渉がこの船の暗黙のルールだ。しかししばらくすると、砂糖が床から噴出するさらさらという音の中で聞き覚えのある声が聞こえて、松子と三毛は振り向いた。

「ねえ、何にも出てこない」

 優だった。船に来た時と同じ服を着て、目の下に出来た黒い隈の辺りを擦りながら、松子をじっと見ていた。

「どうしたの?」

「だから、何にも出てこないんだよ」

 苛立った声だった。松子は落ち着いた様子で答えた。

「欲しいものが無いのよ。仕方が無いわ」

「欲しいもの、あるよ。漫画だってゲームだってパソコンだって、欲しいものだらけだよ」

 砂糖が流れ続ける床を踏み鳴らした優は、松子の手にした白いハンカチを見て、笑った。

「おばさん、そんなハンカチ使うの」

「使わないわ。人にあげようと思ってるの」

「誰だよ。友達なんかいないんだろ?」

「いるわ。少ないけれど」

 優が怪訝な顔をする。

「おじいさんと、三毛と、繭子さん。おじいさんのことは知らないだろうけど、三毛はこの子よ。そして繭子さんは」

「繭子さんのことは言わなくても分かるよ」

 優は泣きそうな声で呟いた。松子が少し驚く。

「俺のこと、気持ち悪いって思ってるんだ」

「そんなこと無いわよ」

「絹子さんは思ってるよ」

「あの人が? あんなにあなたを可愛がっていたのに?」

「やっぱり、何であれ俺が誰かと関わるなんて無理だったんだ」

 優が能面のような顔でぶつぶつ独りごちる。

「学校でも家でも駄目だったから、無理に決まってるのに。この船では誰とも関わらなくて良かったのに、馬鹿なことした。ここなら楽だと思ったのに、ここも辛い。もうだめだよ」

「私の部屋に来てみる?」

 松子がため息混じりにそう言うと、優が顔を上げた。

「あなた、私にばかり話しかけるのね。私の事は平気なの? なら私の新しい友達になればいいわ」

 優がぼんやりと松子の顔を見つめる。

「結局、一人でいたくないと思っているからそんなに辛いのよ。私でいいなら話し相手になるわ。いい?」

 優は床を見つめ、そのまま無言で頷いた。それから松子を見て、

「やっぱり、一人だと死にそうに辛い」

 と言った。


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