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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第二章 香辛料入りの少年
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2―7 会話・孤独

「では、あなたは記憶がないというのね。船に来る前のことが」

 松子が優しく尋ねると、繭子はそっと頷いた。三毛はテーブルの横で一人遊びをしながら二人の様子を窺っている。

「絹子さんが一生懸命昔の事を説明してくれるのです。でも、次の瞬間には忘れてしまうのです。私が何か大変な事をしたらしいことはおぼろげに覚えているのですけれど」

「それで喧嘩になったの」

 繭子がまた頷く。目はまだ赤い。

「もう訳が分からなくて。私はただ絹子さんが好きなのです。この時の止まった船で、永遠に暮らしていきたいくらいなのです。でも絹子さんはそうではないらしいのです。男の方と、嫌な関係らしいのです」

「嫌な関係?」

「いやらしい関係です」

 繭子の口調が突然厳しくなった。松子がぎくりと繭子を見つめる。そして恐る恐る尋ねてみる。

「絹子さんに恋人が出来たのね」

 すると、繭子の顔色がさっと変わった。

「恋人なんかじゃないわ」

「でも……」

「絹子さんの恋人は私だもの」

 松子が眉根を寄せて困った顔をする。繭子はそれを見て怒り出す。

「本当です」

「変な意味じゃないわよね?」

「変な意味? 妙なことをおっしゃらないで。私たちはキスをするし、一緒のベッドに寝ます。けれど一般の男女のような気味の悪いことは致しません。嫌な人ね」

 繭子は緋色の着物で行儀良く椅子に座っていた。しかしその目は三毛の目よりも大きく見え、鋭さを増し、三毛は一瞬遊びを止めて繭子に見入ってしまった。

「吉屋信子の『花物語』なら、私も読んだ事があるけれど……。いいえ、私の時代にもあったわね。エスという不思議な関係が」

 松子が恐れながらそう言うと、繭子はまた目を吊り上げた。

「そういう妙なものでくくらないで下さい。私たちの関係は唯一無二のもので、例えようの無いものだわ」

「分かりました。分かりました」

 と、松子は頷いた。三毛には、それは嘘だと分かっていた。

「お相手の男性は? この船の人でしょう?」

「古めかしい格好をした、眼鏡をかけた日本人の方です」

 松子がはっとした。

「水島さん?」

「名前なんかどうでもいいわ。ただ、私はあの人が汚らわしい。死んで欲しいわ」

「繭子さん、死んで欲しいなんて……」

「松子さん。私、あの人に汚されたのです」

「え?」

「私の分身である絹子さんと密通して、私にキスをしたのよ。あの人を殺して、私も死んでしまいたい」

 繭子はまたしくしくと泣き始めた。松子は呆れたようにそれを見ていた。三毛は、絹子はどうしただろう、と思って、二人を置いて一階の複雑な廊下に向かって歩いていった。

     *

 絹子はすぐに見つかった。曲がりくねった廊下の陰から、松子と繭子を見ていたのだ。三毛が足元に擦り寄って、にゃあ、と鳴くと、絹子は虚ろな目で見下ろした。

「私と一緒に部屋に行きたいの?」

 絹子がしゃがみ込んで、三毛の喉を撫でた。喉はゴロゴロと気持ちのいい音がした。

「あの子を置いてきぼりにしていたわ。一緒に戻りましょう」

 絹子は三毛を抱き上げ、迷路のような廊下の中に入った。くねくねとした道を歩いて、すみれ色のドアの前に着く。開いた途端、絹子は顔色を変えた。

 赤いドアが開いていた。繭子の寝室のドアだ。居間は無人だった。この状況からして、優が出て行ったのだとは考えられなかった。絹子がつかつかと繭子の部屋に向かった。抱かれたままの三毛は、ぐらぐらと揺れながら不安な気分を抑えられなかった。

 部屋には一見、人がいないように見えた。薔薇色の天蓋付きベッドが円い部屋の中央に置かれ、マホガニー製で揃えられた書き物机にクロゼット、鏡台がある。しかし、それはどれもわずかに乱れていて、書き物机には桃色の封筒と便箋が散らばり、クロゼットの引き出しからは紅い着物が飛び出し、鏡台の上には蓋の開いたままの棒紅。何より、ベッドの掛け布団は盛り上がっていた。

「出てらっしゃい。分かっているのよ」

 絹子が、三毛の聞いた事の無い位冷たい声で言った。鋭くて、皮膚を切り裂いてしまいそうな声。布団は動かない。

「出てらっしゃい」

 静かに叫び、布団をめくった。優が丸くなって蹲っていた。

「こちらを向きなさい。どうしてこんなことをしたの?」

 優は黙って、そのまま動かない。

「こちらを見なさいったら」

 絹子が体に触れると、優はびくりとして絹子を見た。途端に、絹子は息を呑み、三毛はぎょっとした。

 優は、真っ赤な口紅を塗っていた。まだ子供だとはいえ、少年らしい顔をした優に、それはあまりに不釣合いで、気味が悪かった。絹子は後ずさりをした。

「何をしているの? 繭子さんの口紅で」

「あの、僕」

 優が泣きそうに顔を歪めながら、ベッドから降りた。絹子がまた後ずさりをする。

「繭子さんが好きで、我慢できなくて」

 三毛が絹子の顔を見上げると、目を見開き、いかにも嫌そうな顔をしていた。

「そう。あなたはもう子供ではないのね」

 絹子が引きつった笑みを浮かべながら早口に言った。

「もう、男なのね」

「僕は、もうここに来ちゃ駄目なんですか?」

「当たり前でしょ」

 絹子が金切り声で叫ぶ。優がますます顔を歪める。

「僕、ここに呼ばれるのがすごく好きで、繭子さんや絹子さんに会えるのが楽しくて」

「良いから出て行って頂戴」

 絹子がドアを指差した。その顔はいつものように取り澄ましている。

「口紅は海に捨てなければ。繭子さんが可哀相だわ。本当に……」

 唇の端を上げる。

「気味が悪いわ」

 途端に、優の顔が醜く真っ赤になる。次の瞬間、三毛は耳鳴りを聞いたような気がした。

 優は甲高い声で、叫んだ。真っ赤な部屋が、長い長い狂気の悲鳴で満たされる。

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