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砂糖細工の船  作者: 酒田青
第一章 平穏で甘ったるい船の暮らし
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1―1 白い船

 海に浮かぶ砂糖細工の船の、日本人たちの物語。明治時代から船にいる水島三郎、大正時代からいる絹子と繭子の姉妹、七十年代からやって来た松子、現代の子猫である三毛。時の止まったこの船では、様々な人々が、孤独を抱え、何かに執着して生きている。これは彼らの始まりの物語。

 強烈な甘い匂いと一際大きな波の音で目を覚ました。辺りを見回す。鮮やかな青が向こうに見えた。下を見る。体を横たえている白い床が強い日差しに焼けている。床はぶつぶつと茶色い泡を立てて、溶けていく。匂いの正体はこれだ。鼻を寄せて嗅ぐと、胸焼けしそうになった。暑いところは好きではない。砂糖の匂いが強くなるからだ。

 陰の中で眠っていても、暑さは相変わらずだった。そろそろ移動しようかと思う。外がこれほどに暑いのなら屋内がいい。誰かがドアを開けてくれるまで待ってみよう。

 三毛は甲板にある、たった一つのテーブルセットの下で背伸びをした。背中がじわりと心地よくなる。同時に空腹を覚える。でも、待っていれば誰かが食べさせてくれるだろう。

 この子猫の体には茶色がかった三色の模様があって、それは頭のてっぺんから背中全体に広がっていた。あとは全て真っ白だ。ゆえにこの白い床に溶け込んで、遠くから見るとまるで模様の部分だけの奇妙な生き物のようだ。眠たげな目はエメラルドグリーンで、口はいつも物も言わずに閉じていた。

 突然、三毛の和毛は塩気を含んだ風に撫でられた。鳥肌が立つような心地よさだった。体を起こした三毛はもっと風が吹けば良いのにとしばらく待っていたが、一度きりで終わったようだった。がっかりして、また床に転がって不貞寝した。

「三毛」

 誰かが呼んだ。三毛はパッと起き上がり、転がるように影から飛び出した。短い足で限りに走って、三毛はざらざらした布地にぶつかった。ふふふ、と笑い声が聞こえる。見ると、布地はアールヌーボー調の黒猫の絵が染め付けてある桃色の麻の着物の裾で、奇抜さに人を驚かしそうな品物だった。

「可愛いわ」

 その着物に包まれた繭子は、笑みを浮かべて三毛を掬い上げた。三毛はなすがままになって抱かれ、繭子の体臭を嗅いだ。百合の花の匂いがする。繭子を見上げる。繭子は相変わらず長い髪をそのまま垂らしている。その髪は三毛に絡みついたりするが、光沢と弾性のあるその髪は、さらさらとすべらかに落ちていく。大きな目は三毛を見ている。子供のように前髪を揃えて切ってあるので、その目は余計に目立つ。少し怖い気がするが、魅惑的でもある。

「ねえ、絹子さん。三毛を見つけたわよ」

 顔を上げて繭子がそう言うと、離れたところにある奇妙な建築物の玄関口に立った女が、にこりと笑って小股に歩いてきた。こちらは髪をきちんと耳隠しに結っていて、青い紗の、かすかに透ける着物を着ている。繭子は彼女が近づいてくるほどに表情を崩した。やがて絹子が繭子に並ぶと、繭子は絹子に体を寄せた。

「よしてよ。暑苦しいわ」

 そう言いつつも、絹子は笑っていた。絹子は繭子より小柄で華奢だ。顔立ちも、派手な繭子に較べると見栄えがしない。しかし、切れ長の目が特徴的で、とても冷たい感じがする。誰かにどちらが印象に残るかと問えば、絹子に軍配が上がるだろう。三毛は繭子のほうが好きだった。けれど絹子は謎めいていて、気になった。

「三毛ったら、こんなに砂糖臭いデッキで昼寝をしていたのよ。馬鹿ね」

「馬鹿はあんまりだわ。きっと涼しい朝のうちから眠り込んでいて、いつの間にかお昼になってしまったのでしょう」

「そうかもしれないわね。今日の朝はとても涼しかったもの」

「花がしおれなくて良かったわ。まだ砂糖漬けにしていないのが沢山あるのだもの」

 絹子がそう言うと、繭子は急に帯の上を撫でた。はにかむように、上目遣いで絹子を見て笑う。絹子が呆れたようにため息をつく。

「なあに、お昼を頂きたいの」

「もうお昼時だわ」

「そうね、頂きましょうか」

 絹子がそう言うと、繭子は満面の笑みを浮かべた。三毛が興味津々で彼女たちを見ていると、願いどおり、繭子は三毛を抱いたまま連れて行くことにしたらしい。草履をぺたぺた鳴らしながら、ごつごつした岩のような妙な建物に向かって歩いていった。

 彼女たちの後ろには、真っ白で広大なデッキだけが残った。砂糖細工の船は、穏やかな波に揺られて、白い体を太陽光で輝かせていた。

     *

 砂糖菓子ホテルの内部は単純といえば単純だ。テーブルセットが並ぶ広い吹き抜けのロビーがあって、その奥に廊下が連なっている。階段は五階まであり、天井には丸い灯り取りの穴がいくつも空いている。もちろん、どこも砂糖で出来ている。どこもかしこも真っ白だ。そして、ロビーにカウンターは無い。従業員がいないからだ。客たちは自力でドアを開け閉めしている。

 絹子と繭子は二人並んでロビーの奥の廊下を歩いている。この廊下は不思議なもので、くねくねと曲がりくねっている。慣れていないときに歩くとめまいがしそうになる。というのも、部屋の一つ一つがてんで好き勝手な形や大きさをしていて、廊下はそれにあわせて作ってあるからだ。

 部屋に着いた。すみれ色の、可愛らしい花の模様が掘り込まれたドアがある。プレートは一〇二五となっている。この部屋の番号だ。繭子がさっさと入っていく。後ろを見ると、絹子もゆっくりとした動作で、中に入って静かにドアを閉じた。ここは絹子と繭子の姉妹の部屋だ。三毛は辺りを見渡す。とても特徴的だ。

 むっと香る、花の匂い。白とすみれ色のこの部屋は、形が丸く、外側ほど天井が低い。ドアは四つあって、一つは赤いドア、もう一つは青いドアだ。ドア以外のところにはいくつもの棚があって、そこにはたくさんの花瓶が並んでいる。百合、薔薇、紫陽花、向日葵、夏の花は全て揃っているように見える。棚の段には無数の壷と瓶があって、透明な硝子の瓶を覗くと、花びらがみっしりと詰まっていることが分かる。部屋の中央のテーブルの上には同じような壷がいくつか置かれている。繭子は早速丸みを帯びた籐の椅子に座って壷を取り、中のものを手づかみでむしゃむしゃと食べ始めた。三毛は膝の上だ。

「お行儀が悪くてよ、繭子さん」

 絹子がたしなめると、繭子はそちらを見もせずにテーブルの上の銀のフォークを引っ掴んで、壷をつつき始めた。絹子はため息をつきながら向かいの椅子に座る。

「あなた、年月がたつほどに滅茶苦茶になっていくわ。着るものは昔から派手だったけれど、髪の毛は結わなくなったし、着物の着方も雑だわ。私、本当に呆れているのよ」

 そう言いながら、絹子は壷の中身を重ねてあった皿に出し、フォークを突き立てて、しおれた紅い花びらを口に入れた。

「昔のあなたはとても大人しくて、淑女だったわ。どうしてこんなことになるのかしら」

「時の流れには逆らえないのよ、絹子さん」

 繭子が急に顔を上げた。

「だって私たちがこの船に乗ってから、もう八十年も経っているのよ。誰だって変わってしまうわ」

 絹子はそうね、と呟いて、残りの花びらを口に入れた。

 花を食べる姉妹は、時の止まったこの船によく適応している。この船の誰よりも楽しげに、生き生きと暮らしている。三毛はいつもそう思う。笑顔を期待して船を歩けば、そこには陰気で悲しげな他の乗客しか見ることは出来ないのだ。予想に過ぎないが、きっと外の世界で、彼女たちは却って生きていけないだろう。外の世界には時の流れというものがあって、彼女たちが自分たちの命の源である花びらだけを食べるわけにはいかなくなるだろうから。

「三毛も食べる?」

 繭子が花びらをつまんで三毛によこす。砂糖がまぶしてある。三毛は砂糖が大嫌いだ。首を横に向けて、拒絶した。

「三毛はお肉を食べたいのよ。花なんか食べないわ」

「そうかしら。訓練すればきっと」

「無理だわ」

 絹子が冷たく言い放った。繭子はテーブルに目を落とし、唇を尖らせる。

「私だって分かっていてよ。三毛が私たちの真似なんてしないってこと。けれど三毛は私たちの猫だもの。そろそろ食べる真似くらいはしていいわ」

「何を言っているの」

「私のこの五年がかりの希望」

 絹子はため息をつく。いつの間にか壷の中身を平らげ、棚から持ってきた新しい黄薔薇の花弁をむしりとって中に詰めていく。テーブルに乗っていたもう一つの壷には砂糖が入っていて、彼女は花びらの壷に砂糖をかけて、フォークでかき回してからまた蓋をする。三毛と繭子は彼女のそんな動きにじっと注目していた。絹子がちらりと三毛を見る。

「そろそろ返しましょうか」

「え?」

 絹子の言葉に、繭子と三毛が顔を上げた。絹子は繭子のいるほうへ手をかざした。

「飼い主さんが待っているわ」

 繭子は振り返って、途端に嫌な顔をした。船の右舷側に窓の開いている一階の姉妹の部屋からは、すぐそばに手すりが見える。そこに、ベージュのブラウスを着た女が寄りかかって煙草を吸っているのだ。煙は部屋の中に入ってきた。変わった匂いがする。甘くて、おいしそうな匂いだ。

「嫌よ、返さないわ」

 繭子が立ち上がった。三毛は転げ落ちた。絹子は冷静に首を振った。

「返しなさい」

 すると、繭子の目が潤んできて、唇は強く噛まれた。

「あなたってすぐ泣くのね。呆れるわ。早く返してやってちょうだい」

 絹子のとげのある言い方に、くやしそうに目を擦った繭子は、仏頂面で三毛を抱いて窓枠に乗せた。すると背中を向けていた女はゆっくりと振り向き、煙草を口にくわえたまま、三毛を抱き上げた。女は四十歳くらいで、白髪交じりの癖毛が特徴的だった。小じわがあって、口元に小さなほくろが一つあり、美人とは言わないまでも、優しそうなかわいらしい顔立ちだった。しかし女は無表情で、姉妹も機嫌が良いとは言いかねた。三毛はこの空気に緊張していた。うまく立ち回らねばと思っていた。けれど、女がそこから立ち去るまで何も出来なかった。

「あの人が三毛にお肉を上げるのよ。仕方ないわ。私たちはお肉を持たないのだもの」

「ひどいわ。三毛と遊んでいただけなのに」

「仕様が無いわ」

 女がデッキの上を歩いて遠ざかっていくほどに、二人の声は聞こえなくなっていった。三毛は女を見上げた。表情のない顔は、三毛と目をあわせた途端にパッと明るくなった。

「三毛、元気? 私は元気よ。あなたがいないしおじいさんは眠っているから、さっきまですごく退屈だったのよ。本を読んでたの。二人の女が男を取り合ううちに、いつの間にか男が可愛がってる猫を取り合う話になってて笑ったわ。こういうことってあるのかしらね。うーん、無いわね。フィクションだからありえる話で、男を取られたら男を取れるか取り返せないかしかないわ。本当、フィクションよね。

 あ、三毛、明日は船に新しいお客さんが来る日よ。どんな人かしらね。私、今度も猫だったらって思うの。猫って可愛いものね。もちろん三毛もよ。でも、もしもコモドオオトカゲだったらどうしようって思うの。あれって人間を食べちゃうのよね。でも、案外私は平気かもしれないわ。船の誰かが食べられても、一向に平気だもの。むしろ皆食べられちゃえば良いんだわ。私、大喜びするわ」

 松子は延々としゃべりながら砂糖菓子ホテルのドアを開け、ロビーを歩き、砂糖細工の白い階段を上がった。途中で怪訝そうに松子を見る、和服を着た日本人の男とすれ違った。銀縁眼鏡の奥の目が、虚ろだった。

「でね、私もう読める本は読み尽くしちゃったのよ。小説に限りね。そりゃあ新聞や新刊本も読めば船の外のことだって分かるしそれなりに面白いかもしれないわ。だけど私は外のことなんて全く興味がないし、日本の文学は六十年代までって思っているのよ。だからね、外国語の本にでも挑戦しようかと思ってるの。でもね、英語を三十年かけて勉強してるんだけど、全く身につかないの。きっと私って頭が日本人日本人してるんだわ。あ、決して頭は悪くないわよ。学校の成績も良かったし。と、ここで、『あなたって要領が良いだけなんじゃない』っていう意地悪な人が出てくるのよね。何言ってるのよ。それなら現実世界うまくやっていけたわよ。こんな船に乗せられることなんて無かったわよ。ね、三毛」

 終わりのほうは段々と力を失って、か細い声になった。そして、また煙草を口にして、深く吸い込んで、煙の伴う長いため息をついた。そのまま沈黙はいつまでも続いた。三毛と松子はいつの間にか二階の樫のドアの前に来ていたが、松子はそれを開けようとはしなかった。ほとんど灰になった煙草を床に落として踏みにじり、拾ってからその手でドアノブを握った。そして周りを見渡す。廊下のドアの多くが開いていた。青い目、黒い目、灰色の目、皆三毛を見ている。中には微笑みかける者がいる。皆、三毛の知り合いだ。

「人気者ね、三毛」

 二〇四七とプレートに彫り込まれたドアは開いた。中には姉妹の部屋と同じく、変わったものがあった。無数のオブジェだ。丸い形をしていたり、角ばったりとがったりした大きなものが、広い部屋の中央にあるテーブルの周りを避けるように並んでいる。まるで迷路だ。三毛は床に降ろしてもらい、木や石で出来た彫刻の周りを走り回った。三毛にとって、この部屋はとても好きな部屋だ。変化があって、面白い。けれど、壁際の棚にある人間の胸像が苦手だった。生きているように見えるのだ。唇だとか閉じた瞼だとかが、震えながらゆっくりと開きそうな気がする。少女の胸像は、死人のように表情が無かった。三毛はそこだけを何気なく避けながら、テーブルに向かった。

 松子はテーブルのメモを取って何かを書き付けていた。三毛が足元からじっと見上げていると、松子は軽く微笑み、立ち上がって部屋のドアに向かった。ドアの下にメモを通す。するとすばやく向こうに引き抜かれる。すぐさまノックが鳴る。松子は返事もせずにドアを開いた。すると外は無人で、ワゴンだけが廊下に残っていた。松子はワゴンごと部屋に引き込み、乗っていた食べ物をテーブルに置き始めた。笊蕎麦と緑茶と細切れの肉、それに山羊の乳だ。三毛はお座りをしてそれを待った。松子は別の器に肉を移すと、床にそれを置いた。食べ物の匂いだ。そう思った瞬間、三毛は勢いよく小さな肉片にかぶりついていた。松子も蕎麦をすすり始めた。静かな食卓だった。

「ねえ、三毛」

 松子は食事の途中で独り言のようにつぶやいた。

「明日陸に行きましょうよ。今度は暑いところみたい。何があるのだか、見てみるのも面白いじゃない」

 三毛は食事を止めた。少し驚いていた。陸に降りられるのか。今まで、降りることは出来ないと思っていた。

「三毛が来てから五年、一度も陸に近づいてないものね。降りると面白いわよ。幽霊になったみたい」

 松子はくすくす笑った。

「あ、でもね、三毛。陸に行くことはできてもこの船からは出られないわよ」

 意気消沈した声で松子が言うと、三毛も落胆した。松子と違ってこの船に不満は無いが、自由に船から下りられないというのは少し息苦しい感じがする。

「本当に、どうして出られないのかしら。何か手段が無いものかしら。この船の仕組みとか存在とか、不思議でならないわよね」

 松子はいつもこう問いかける。三毛は首を傾げる。退屈な旅。松子にとってはそうだ。どうすれば抜け出せるだろう。

「でも、出ることが出来たって、この船の周りでは時間は遥かに過ぎ去っているのよね。私がここに来て、四十年くらいは経ったわよ。降りた時には浦島太郎よ。それはそれで嫌だわ」

 松子が考え事をしている内に、三毛は最後の肉の一切れを呑み込んだ。それを見た松子も、残りの蕎麦を平らげた。ワゴンに皿を載せる。それを廊下に出して、ドアを閉めると、ガラガラと転がっていく音がする。ワゴンはどこに帰っていくのだろう。料理はどこから来たのだろう。この船のルームサービスはとても特殊だった。少し、気味悪くもあった。

「砂糖室へ行くわよ。私、新しい石膏と、レース糸が欲しいの。三毛も来なさい」

 洗面所で歯を磨き終えた松子が、タオルで口元を拭きながらやってきた。三毛は迷路のような部屋をすいすいと歩く松子に従って、歩いていった。


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[良い点] 1/30 ・懲りずにまた来ました。 ・文章が濃密。その辺の小説と比べて重みがありますね。 [気になる点] 最近思ったのですが、砂糖細工の船は異世界でも平常運転しそうですよね。 婚約破…
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