ルシアン 〜演技と本音の狭間で〜
収穫祭を1週間後に控えた午後。
空はすっかり秋の色をまとい、金色の陽の光が学園を照らしている。リディアは今日も収穫祭の準備に向かおうとしていた。
そこへ——
「ねぇ、リディア嬢。お願いがあるんだけど」
台本らしき本を持って声をかけてきたのは、学生ながら劇場でも大人気の舞台俳優、ルシアン・クレイ。
すれ違う女子生徒たちにも軽く手を振るだけで、小さな黄色い悲鳴が上がる。それに慣れた様子で微笑み返す彼。
「僕が主演やる収穫祭フィナーレの劇、どうしても相手役との台詞の間がつかめなくてさ。ちょっとだけでいいから、台本読みの相手してくれない?」
「……私でいいのでしたら、構いませんが」
戸惑いながらも、リディアは頷く。
(まさか彼の劇の練習相手をすることになるとはね。こんなシーン、ゲームにあったかしら?)
講堂は誰もいなかった。静かな舞台の上、椅子を向かい合わせて、ふたりは腰を下ろす。
「お互いの呼び方なんだけど、こっちのほうが感情入ると思って、僕と君になってる。あと、愛称呼びも入れるね。まぁ、演技だからさ。気にしないで。じゃあ、いくよ?」
その声と共にルシアンの声が、雰囲気が、変わった。いつもの軽やかで飄々とした彼は消え失せ、役が彼にのり移ったかのようだった。
台詞に込められた真剣な熱にリディアは思わず息をのむ。
「リディア……。僕はずっと、君が側にいてくれたことに、気がつかなかった。だけど今ならわかる。君が隣にいてくれるだけで、どれだけ心が救われるか……。僕は今、ようやく気づいたんだ」
愛を語るシーン。ルシアンの熱い台詞に引っ張られるようにリディアも台詞を読む。
「わたくしも、貴方の声が、笑顔が、心の支えになっていました。ルシアン、あなたと一緒にいたいの」
言いながら、リディアは自分の顔が熱くなるのがわかった。ページをめくる手が、少し汗ばんでいることに気づく。
(これは台詞、あくまで台詞。なんでこんなに心臓の音がうるさいの……?)
「……リディ、僕は君が、好きだ」
「ルシアン……、私も、あなたのことが……」
ふたりの動きがぴたりと止まる。
そこに広がるのは、静寂。
台本の中のことと分かっているのに、言葉に込められた熱が、確かに胸の奥へ沁み込んでくる。そこが少しだけ苦しくなった。
「……よし、こんなところかな」
不意に彼の声色が戻った。
そしていつもの、明るくて少し軽薄にも取れる口調で言った。
「助かったよ。ありがとう、リディ」
(え……今のは、台詞じゃ、ないよね?)
さりげなく“リディ”と呼ばれて心臓が跳ねる。
「えっと……、ルシアン様? その呼び方、気に入ったんですか?」
「うん、まぁね……。呼びやすいし、可愛くてリディア嬢にピッタリ。……これからも、そう呼んでいい?」
相変わらず人懐っこい笑顔で、少し甘えるようにこちらを見てくる。
「まぁ、別に……構いませんけど」
(ここで、リディ呼びされる展開になるっけ? まぁ、ルシアンがそう呼びたいならいいか)
そう思いつつも、心の奥に何かがぽっと灯ったのも事実だった。
「今日はありがとう。助かったよ」
「お役に立ててよかったです」
そう挨拶を交わしてリディアが講堂を出た後。
ルシアンはひとり、台本を見つめていた。一つ大きく息を吐く。
「あれは、ただの台本。ただの台詞。ただの……演技だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、彼女が「ルシアン」と呼ぶ声、「一緒にいたい」という言葉、その表情。それらがどうしても脳裏から離れなかった。
***
迎えた収穫祭当日。
リディアは王太子妃候補としての視察同行の後、舞台準備の手伝いをしていた。
ルシアンは客席の確認中だ。そこでファンの令嬢たちが声をかけてきた。
「きゃあ! ルシアン様よ!」
「今日もとてもステキです! 舞台楽しみにしていますね」
「みんな、ありがとう。今日の舞台も君たちの応援のお陰で最高のものになりそうだよ」
ファンに囲まれ、いつものように返答し、ウインクをするルシアン。その姿に歓声があがる。
彼の視界の端では、リディアが舞台に飾り付けをしていた。高い位置に飾りをつけようと背伸びをする姿。
侯爵令嬢なのに、率先して雑務を引き受けてくれる彼女にも後でお礼を言わないと、そんなことを考えていたその時、
ふと、飾りの重みでリディアがよろけたのが見えた。あっ、と思うが、ルシアンの周りはファンの令嬢たちが取り囲み、すぐには動けない。
代わりにリディアを支えたのは——
同じ学年であり、青年騎士団長でもあるカイル・エヴァンズだった。
「ありがとう、カイル」
リディアが微笑む。
「気にすんな、リディ。いつでも助けてやるよ」
カイルがなんでもないことのように言う。
心を許したような笑顔を浮かべる2人をルシアンは見ていた。確か、幼馴染だと聞いたことがある。
(こんな顔、僕は知らない)
彼女の、自分には向けられたことのない柔らかな安心の表情。
ルシアンの心が、ざわりと波打った。
やがてフィナーレの劇の幕が上がる。
野外劇場で、まばゆいライトと優しい月明かりが照らす舞台。物語が進むにつれ、ルシアンの演技は冴え渡った。ユーモアと情熱を兼ね備えたその姿に、客席は笑いと感嘆で包まれる。最後の愛を語るシーンでは、すすり泣きが漏れ、そのまま幕が閉じられた。
鳴り止まない拍手。たくさんの花束。ルシアンの周りには賞賛と祝福が集まる。しかし、彼の視線は気がついたら一人を探していた。
舞台の控え用テントで小道具を片付けている彼女に、ルシアンは声をかけた。
「……リディ」
声をかけると、彼女は振り返り小さく微笑んだ。
「あっ、ルシアン様。お疲れ様でした。舞台、素晴らしかったです」
その微笑みを見て、胸が少し熱くなったのをルシアンは感じる。
「ありがとう。収穫祭のフィナーレを飾る舞台だからね。僕以外の演者やスタッフが特に素晴らしかったよね」
そんな茶目っ気ある返しにリディアはクスクス笑った。つられてルシアンも笑う。
「聞いたよ。小道具に傷が入っていたって。君の助言がなかったら、きっとあの小道具、壊れてた。助かったよ。ありがとう、リディ」
「いえ、私は端っこで道具を確認していただけですから……」
2人の間に穏やかな空気が流れた。
「それにさ、君との練習のおかげで、あの台詞ちゃんと伝えられた気がする」
「私が? いえ、そんな……少し手伝っただけです」
「それでも——」
ルシアンは言葉を区切った。
夜風がテントの布を揺らし、その音が二人の間の沈黙を包み込む。
2人の視線が絡む。舞台ではない、現実の鼓動だけがそこにあった。
真っ直ぐにリディアを見つめて、口を開いた。
「それでも……、君じゃなきゃダメだったと思う」
彼の瞳にいつもの軽い感情は宿っていない。その眼差しから目を逸らせなかった。
(これは、舞台? 違う。これは、確かに現実の一幕で——)
リディアの胸の奥がふっと熱を帯びた。
ルシアンは柔らかく微笑む。
「ありがとう、リディ」
「……どういたしまして、ルシアン様。貴方の役に立てて、よかったです」
彼女はまだ気づいていなかった。リディと呼ばれて高鳴るこの鼓動が、何かの始まりであるかもしれないことを。
彼はまだ知らなかった。いつの間にか彼女を特別に思う、この気持ちの名前を。
秋風がふたりを包み、その姿を夜空に浮かぶ月だけが優しく見ていた。
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