中学の有名人
【四方を山に囲まれた広大な敷地のなかに、悠然とそびえ立つ学び舎。私たちの通う山岡高校の歴史は古く、その重厚な校風は数多の文化人を世に送り出している】
古びたインクの匂いが漂ってきそうな、高校紹介パンフレットの一文。千歳たちの通う山岡高校は、最寄りの駅からさらにバスを乗り継いだ、緑深き山あいにひっそりと佇んでいる。
目に飛び込んでくるのは、青々とした新緑を背景にした、横長の三階建ての校舎が二棟。その少し先に広がる広大なグラウンドの奥には、白いドーム型の体育館が異彩を放っている。進学校でありながら、【文武両道】を理念とするこの学校は、過去に甲子園出場の輝かしい歴史を持つほど、部活動も盛んなのだ。
各クラス四十数名程度で、AからHまでの八クラスを擁する生徒数は、県内でも指折りのマンモス校だという。のびのびとした大自然に囲まれている影響だろうか、芸術分野に進学する生徒も多いらしい。
Eクラスの教室の、まだ新しい木の香りがする机に頬杖をつき、千歳はぼんやりとパンフレットを眺めていた。購買に飲み物を買いに行ったクラスメイトの葉菜を、まだ見ぬ弁当箱を抱きしめながら、こみ上げてくる食欲を文字を追うことで懸命に抑えつけて。
午前中の授業が終わり、待ちに待った昼休みを迎える頃には、教室のあちらこちらで小さなグループが自然発生していた。
(……女の子って、どうしてこんなに早くグループを作るんだろう。うーん、なかなか話しかけづらいな……)
新しい環境に身を置くたびに湧き上がる、いつもの感想。高校生になっても、千歳はやはり初対面の人に声をかけることに、拭いきれないほどの苦手意識を感じていた。
ふと、今朝の登校中に見た、あの不思議な光景が脳裏をよぎる。
大勢の人影、足元を埋め尽くす小動物の群れや、無数の虫たち。この教室の中はどうだろうか?ほんの少しの好奇心に駆られ、千歳はそっと自分の耳を塞いでみた。
(……あれ? 思ったよりも、ずっと静かだ)
独り言を口走りそうになるほどの奇妙な静けさに、千歳は思わず辺りをまじまじと見回した。
先刻、千歳の目に映ったのは、軍服で身を包んだ兵士たちと、おそらくは重傷を負っているであろう怪我人たち、そして走り回る子供たちを優しい眼差しで見守る、着物姿の老人たちだった。時代も年齢もバラバラな、多くの人――もとい、霊凍が、まるでそこに生きているかのように自由に蠢いていたのだ。
さすがの千歳も、あれほどの数の霊凍の群れを目の当たりにして、正直、気が滅入るほどだった。午前の授業の内容は、ほとんど耳に入ってこなかったと言っても過言ではない。
(……なんで、こっちの建物にはいないんだろう?)
Eクラスの教室がある棟は、比較的新しい建物で、隣にそびえる古びた木造の旧館とは、まるで設備が違う。今朝、彼女が校門の前から見た異様な光景は、どうやら旧館の方角だったようだ。
(……あー、よかった。こっちは、ただの生物が多いだけだ)
とはいえ、教室の窓の外を気ままに飛び交う鳥たちや、校庭の地面を覆い尽くすほどの虫の大群も、確かにそこに存在しているのだが。
「ごめんね、結構並んで遅くなっちゃった」
葉菜は、息を切らせながら深々と頭を下げ、申し訳なさそうに謝ってきた
。
「いいよ、全然待ってないし」
まるで待ち合わせをしていたカップルのような、他愛ない言葉を交わした後、二人は向き合って、それぞれの弁当箱を開いた。
◆
ざわめき立つ教室は、様々な声が洪水のように押し寄せ、活気に満ちている。思い思いに楽しい昼休みを過ごす生徒たちは、あちらこちらで弾むような会話を繰り広げ、新しい友情を育んでいるのだろう。
「そういえば、さっきあの子に声かけられてビックリしたんだー」
「うん? 誰のこと?」
聞き返した千歳は、手に持ったパックの牛乳を一口飲み込むと、興味深そうに葉菜の方に顔を向けた。
「同じ中学だった、水泳部のすごい子だよ。えーっと、声かけられて、思わず返事しちゃったんだけど、確か……なんとかまきちゃん?」
「上條槇峰?」
少し考えて答えたその名前は、二人の中学校では知らない者のいないほどの有名人だった。水泳選手権全国中学校大会優勝。直接的な面識はないものの、校内で何度もその功績が称えられた彼女のことは、当時の全校生徒なら誰もが知っていたはずだ。
「そうそう、上條さん! まさか同じ学校だったなんて、本当に驚いちゃったよ」
目を輝かせながら話す葉菜は、つい先ほど出会ったばかりの有名人の話題を続けている。
「まさか私の名前まで覚えててくれたなんて思わなくて、私、完全に固まっちゃった」
「そうだよね、あの娘、いつもオーラがあって、同級生とは思えないくらいキラキラしてたもんね」
相槌を打ちながら、千歳は笑みを浮かべ、手に持っていた箸をそっと置いた。ふと、教室の入り口に顔だけ出して、きょろきょろと辺りを見回している女子生徒が目に飛び込んできた。控えめに指をさし、千歳は葉菜にそっと声をかける。
「……噂のスター、発見」
彼女が指さす方向へ顔を向けた葉菜と、目が合った瞬間、二人の口から同時に「……あ!」という驚きの声が漏れた。
「……あ! いたいたー。四つもクラス回っちゃったよー、さっきちゃんと聞いておけばよかった」
こちらに向かってくる中学時代のスターは、千歳が想像していたよりもずっとインパクトが強く、思わず少しだけ椅子を後ろに引いてしまう。まるで太陽の光をそのまま閉じ込めたような、金髪に近い明るい髪を高い位置でツインテールに結び、健康的な小麦色の肌をしたその子を、一言で表すなら、まさにギャルだ。初登校だというのに、なぜそんなにスカートが短いのだろう?!と誰もが思うであろう、堂々とした校則違反の彼女は、二人のテーブルに向かってまっすぐにやってきた。
「あれ、千種さん? また一緒の学校だね。同じクラスだった上條だよ、覚えてる?」
明るく元気な声に、思わず気圧されながらも、千歳は中学のスーパースターが自分の名前を知っていたという事実に、驚きと、それ以上の感動で言葉を失ってしまう。
「か、上條さん、覚えててくれたんだ」
二人は二年生の頃、同じクラスだった。直接的な会話を交わした記憶はないものの、千歳にとって彼女は、遠くから憧れる、まさに雲の上の存在だったのだ。
「あたりまえじゃん! 元クラスメイトだし!」
「あ、そっかそっか、ちーちゃんと上條さんって、二年の時同じクラスだったよね!」
思い出したように、葉菜が驚いた表情で笑った。千歳は、感動と動揺が入り混じった、少し引きつった笑顔で頷いた。
◆◆
___その日の放課後
昼休みの喧騒の中、突然二人のもとに現れた上條槇峰は、満面の笑みで「放課後、教室で待ってて!」と告げ、風のように自分のクラスへと戻っていった。
千歳と葉菜は、予期せぬ出来事に目を丸くしながらも、同じ中学のスターとの、まるで夢のような約束を守り、人気のない教室で彼女を待っていた。
「しかし、昼休みは本当に驚いたよね。まさか、葉菜ちゃんの事だけじゃなくて、私の名前まで覚えてるなんて」
言葉にした千歳の表情には、今でも信じられないという思いが色濃くにじみ出ている。
「そうだよね、上條さんって、なんかこう、近づきがたい雰囲気だったもんね」
返答した葉菜も、少し戸惑ったような、控えめな笑顔を浮かべた。
静寂を破るように、勢いよく教室の扉が開いた。そこには、トレードマークのツインテールを揺らしながら、こちらに向かって手を振るギャル、槇峰の姿があった。
「ごめんね、おまたせ!」
「全然、大丈夫だよ」
「うん、そんなに待ってないし」
二人の返事に、太陽のように明るい笑顔を返した槇峰は、ゆっくりと近づきながら、くるくると手を振っている。その仕草一つ一つが、まさにギャルそのものだ。
「それで、何か話でもあるの? お昼休み、ゆっくり話せなかったこと」
葉菜がそう問いかけると、千歳も、憧れのスターの言葉を固唾をのんで待っていた。
「ごめんね! 美咲さんのクラスを探してたら、あっという間に昼休みが終わっちゃって。それで、やっと見つけた!って思ったら千歳さんもいて、わーい!ってなったんだけど、結局話せなかったんだ」
少し照れたように笑いながら、槇峰は話し始めた。千歳は、憧れの人気者が目の前にいるという緊張感から、ただただ体を硬くして、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「それでね、二人にお願いがあって。聞いてもらってもいいかな?」
少し恥じらいを含んだ表情で、槇峰は上目遣いに二人を見つめ、言葉の続きを促すように間を置いた。
「えっと、なぁに?」
葉菜は、いつもの穏やかなトーンで質問を繰り返すと、優しい笑顔で槇峰の次の言葉を待っている。
「実は、二人に、私と同じ部活に入ってほしくて。二人は同じ学校からの知り合いだから、声をかけたんだ」
「え、まさか水泳部?! ムリムリムリムリ……」
即座にそう答えた千歳を、葉菜は面白そうに笑っている。それに対し、真剣な表情で答える槇峰は、ぐっと二人に顔を近づけた。
「放送部! 私と一緒にやらない?」
真剣な眼差しを向ける槇峰に、千歳と葉菜は、驚きと混乱で、ただただ言葉を失うのだった。