どこにでもいる高校生
SNSで煌めくインフルエンサー達の日常、憧れのサロン、気軽に試せるプチプラコスメに、胸ときめくアイドル……千歳千歳の脳内には、眩いほどの青春のイメージが広がっていた。きらきらと輝くアイテムに囲まれ、些細なことで笑い合い、共感し合う喜び。ああ、これこそ夢に見た、甘酸っぱくて、ちょっぴり悩ましい、特別な高校生活!
「私の高校生活も、きっとこんな風に輝かしい日々になるんだ!」
今日から始まるJKライフ。入学デビューに向けて、千歳は胸を高鳴らせ、期待に満ちた一歩を踏み出そうとしていた。華やかで、甘酸っぱくて、時には親友と悩みを分かち合う。そんな眩しい毎日が、すぐそこで待っているはずだった。
……しかし。
「いやいや、ちょっと待って。見たくないものは見たくないんだから……」
一人ごちると、千歳はわざとらしく顔をしかめ目を逸らした。彼女の身に宿る、なんとも厄介な特異体質。そのせいで夢見たキラキラJKライフは、早くも暗雲立ち込める気配を見せていた。
「ほんっと、勘弁してほしい。よりによって、このタイミングで……」
4月の風はカーテンを揺らし、窓から優しい日差しと共に容赦なく花粉が舞い込んでくる。千歳が花粉症だと気づいたのは、中学校に上がってすぐのことだった。止まらないくしゃみと鼻水、そして完全にシャットアウトされる匂いの情報。幾度となく、ティッシュペーパーの山を築き上げてきた苦い記憶が蘇る。
花粉症自体は、もはや慣れっこだ。諦めの境地に近い感情を抱いている。しかし、本当に彼女を憂鬱にさせているのは、花粉症というオマケのように、鮮明に目の前に現れる、別の“現象”だった。
「あー、ハハハ……いつにも増して、ぎゅうぎゅう詰めだね」
絞り出すような皮肉は、幼い頃から彼女を悩ませる特異な体質が映し出す光景に向けられていた。
見慣れたはずの自室。可愛らしい雑貨や、丁寧に整理されたインテリアに囲まれたごく普通の女の子の部屋。しかし今、その愛らしい空間には、【今の千歳にしか見えない】異質な光景が広がっていた。
壁一面に、無数のバッタらしき虫たちが飛び交い、天井のシーリングライトの周りでは、雀やカラスが自由気ままに旋回している。
「あ、鳩までいる……」
ベッドの上では、どこからともなく現れた小動物たちが、楽しそうに動き回っている。
そして何より、年頃の女の子の部屋には到底似つかわしくない、見知らぬおじさんやおばさん、走り回る子供たちの姿が、所狭しとひしめき合っているのだ。彼らは千歳に触れることもなく、話しかけることもない。ただ、6畳の自室に、文字通り“みっちり”と、そこに“いる”。
眩暈がするような光景に、千歳はゆっくりと部屋を出て花粉症の薬を探し始めた。子供の頃から変わらないこの奇妙な体質を、家族だけは知っている。しかし、誰にも見えない情報に戸惑う千歳をいつものことだと笑うのだった。
彼女の特異体質は五感のいずれかの機能が低下した時に発現する。それは、まるで失われた感覚を補填するかのように突如として現れるのだ。天才と呼ばれる歴史上の人物の中には、五感の一つを失ったことで、他の感覚が研ぎ澄まされ、常人には及ばない能力を開花させた者もいるという。千歳の場合は、そうした研ぎ澄まされた感覚とは少し違う。幼い頃から彼女に備わっていたのは、超常的な第六感に近いものだった。
「またいつものか?」
面白半分に声をかけてきたのは、父親だった。
「もう、ほんっとに! 春は起きるたびにこうなんだから、嫌になる! 笑わないでよね!」
むっとした表情で言い返す千歳に、父親はニヤニヤとからかいの笑みを浮かべている。
幼い頃から、彼女にはいわゆる霊と呼ばれる存在が見えていた。普段は全く見えないのだが五感のいずれかの機能が低下した時、まるでスイッチが入るようにその特異体質は顔を出す。
千歳から見える世界は、人間には認識できないモノたちが存在する世界。そして、そのモノたちは日々増え続け、まるでそこが彼らの日常であるかのように自由に動き回っている。地球が誕生してから何千万年という時の中で、生まれては死んでゆく生命。その繰り返しの後に、ただソレらだけが静かに増え続けていくのだった。
「私からしたら、もうミッチミチなの!いやんなるくらい!」
茶化されたことに子供のように手足をバタバタさせて怒りを表現する千歳は、先ほど飲んだばかりの薬の効果が現れるのをじっと待っていた。
◆
アイロンで丁寧に前髪にカールをつけ、指先に取ったヘアオイルを髪全体に馴染ませ内巻きのボブスタイルを作り上げる。千歳は何度も鏡を見つめ、少し首を傾けてみたり顔の角度を変えてみたりと、入念にチェックを繰り返した。
「うん、完璧!」
時間をかけて手入れをした黒髪のボブヘアに、満足そうに何度も触れる。高校生としての記念すべき初日。今日から始まる新しい生活への期待が、彼女の心を弾ませていた。
先ほどまで悩まされていた花粉症の症状がようやく落ち着くと、千歳の視界にはいつもの見慣れた部屋の光景が戻ってきた。
「やっと薬が効いてきた……よかったぁ。このままじゃ、学校どころじゃなくなるところだったよ」
一人、小さく呟いた千歳の鼻腔には先ほど飲んだ薬のおかげで、微かに香りの情報が戻ってきていた。
彼女の特異体質は鼻詰まりによる嗅覚の低下時だけに限らない。視覚、聴覚、触覚、味覚。五感のいずれかの感覚が遮断された時、それを補うかのように人には見えないモノたちが彼女の目の前に現れるのだ。そんな不思議な現象と、千歳はずっと付き合ってきた。
人には見えないモノ。生き物とは違う、そこにただ佇むモノ。声をかけても、もちろん反応などないモノたち。
幼い頃から見えていたそれらに、不思議と恐怖心は湧かなかった。ただ、子供の頃は、現実の生き物と、そうでないモノとの区別がつかなくなることが度々あった。
周囲の人間には見えない虫を捕まえようとしたり、見えない犬を撫でようとしたり、誰もいない空間に話しかけてみたり。
次第に、周囲の人間から奇異な目で見られるようになり、千歳自身も見えないモノたちのことを家族以外には話すことがなくなっていった。
――普通の女の子でいよう。変な子だと思われたくないから……
そんな風に考えるようになったのは、小学五年になった頃だっただろうか。友達にも、先生にも打ち明けられない、彼女にしか見えないモノたちは、確かにそこにいた。
誰にも言えない悩みを抱えたまま、15年の月日が静かに過ぎていったのだった。
◆
「もうさ、朝起きていきなり霊凍なんて見たくもないよ……」
大袈裟なため息をつきながら、千歳は真新しい鞄に、これから使うノートや教科書を丁寧に詰めていく。
彼女から見えるモノたち。それは、いわゆる幽霊と呼ばれる存在だった。
かつて生きていた者が、その肉体を失い、魂だけがその場所に留まり、ゆらゆらと漂っている。千歳は幽霊たちに干渉することはできず、彼らもまた、千歳に触れることはない。
ただ、そこに“いる”だけのモノたちを、幼い千歳は「ずっと冷凍庫に入れっぱなしで、忘れ去られた冷凍食品」のような存在だと認識し、いつの間にか、それらのモノたちを「霊凍」、そして、現実に生きている生物を「生物」と、自分の心の中で呼ぶようになっていた。
触れることも、話すこともできない「霊凍」は、なぜ自分にしか見えないのだろうか。そんなことを、幼いながらに真剣に考え、悩み続けた時期もあった。
しかし、今の千歳はもうそれについて深く考えることはなくなっていた。
「いってきまーす!」
玄関で元気よく挨拶をし、千歳は家を飛び出した。初めて通る通学路、初めて乗る電車。
喜怒哀楽が顔に出やすい彼女の表情は、誰が見てもわかるほど期待に胸を膨らませ、キラキラと輝いていた。彼女の周りには、まだ「霊凍」たちの姿はない。 今度こそ、夢に見たような眩しい高校生活が始まるのだと信じて。