鏡
初夏の猛暑が続いている頃のこと。虫の鳴き声も旺盛なことこの上ないが、いよいよ明日から夏休みということで気分は寛容になってきていた。この4ヶ月のことを思えば、帰宅までのたった数時間など塵ほどでもない。
とはいえ、この話は浮かれた学生の戯言などではなく、歴とした怪談であるので、ある意味御誂向だとも言える。
これは、下校途中に起きた不気味な出来事…。
───
6限目が終わったにも関わらず、長々と話す担任はどうかしている。
というのも、私の高校では学期末のお仕舞いまで授業がある。全校集会とホームルームが1限にあり、そこから6限まで授業をしてから帰宅するのだ。なので生徒全員が面倒臭がってその日をこなしている。
かく言う私も、仮にOと名乗ることにするが、面倒に思う。しかし、私はこの日が嫌いではない。これから夏休みだと言う高揚感がなんとも言えない好意の理由である。見方を変えれば、そう悪いことばかりでもない。授業は1限分無くなるし、給食には決まってスイカが出る。不満な点があるとすれば、校長の話が長くなることと、帰りが夕刻になることぐらいだ。
だが、それらを差し引いてもこの日を私は待ち侘びていたのだ。
下校の頃になると、暑さは徐々に引いてきた。
夕方の気候とでも言うべきか、湿度が上がってくるのを感じる。その湿度のせいか、リュックサックの重みも一段と増したように思う。あるいは、ロッカーの中身を丸ごと詰め込んだからかもしれない。
トボトボ歩を進める途中、老婆が声をかけてきた。
「ちょいと、君。随分と重そうにしているね。」
「…ええ、どうも。」
私はその老婆が少し苦手だった。
いつも通学路の途中に居て、私の方をよく見てくるのだ。
痴呆なのだろうかとも思ったが、不気味なのはその時、その場所、その体勢でずっといるのだ。そしてもっと不気味なのは、場所というのがお寺の前、もっといえば墓の前なのだ。街でも大きい墓の前の段で座っているのだ。夕刻にのみ現れ、朝や夜は居ない。
雨の日も風の日もそこに居るものだから、最初の頃は声をかけたりもしたのだが、微動だにもしなかった。
「本当に重そうだ。家には帰れるかい?」
「まぁ…なんとか。」
呆けているのだと思ってやり過ごそうとしたが、老婆は強引に話を続けてくる。
「ところで、あなたの家に大きな鏡はないかい?」
「…え?」
私は絶句した。
なぜなら、私の家には確かに鏡があるからだ。頭身ほどの姿鏡があるからだ。
しかし、それがなんだと言うのか。鏡などどこの家にも置いてあるはずである。
この老婆は適当なことを、適当な考えで言っているだけで、そのことをこの老婆はきっと覚えていない。
「さぁ?あったような、ないような。きっとないですよ。」
私は適当に話を終えて歩みを進めた。老婆の返事も聞くつもりはなかった。
しかし、老婆はまだ語りかけてくる。
「いいえ。私はわかるわよ。鏡はある。絶対よ。」
ここまではぐらかされても曲げないことにも恐れ入ったが、そんなことよりも驚いたのはその老婆が腰を上げて付いて来たことだ。
私はもう構わず歩き出した。
「その鏡を捨てなさい。それは悪い物だから、捨てるのが賢明よ。」
まだ何かを語りかけてくる老婆に対して、もう恐怖だとかいう感情はなかった。頭にあったのは、家に着いてこられるのは面倒だなぁ、という思いだけだった。
わざと早く歩いたりもしたが、老婆はその速度について来ていた。杖があってあたりまえな程よろよろとした足取りなのにである。
そんなことをしているうちに、とうとう家の前までついてこられてしまった。
私はあまりの苛立ちに、とうとう老婆の言葉に答えてしまった。より面倒なことになることは分かっていたが、これ以上は私の方がおかしくなると思ったからだ。
「あなたに関係ないでしょうが!疲れてるんだからいい加減にしてくれ!家の前までついて来て!いくら老人でも警察呼びますよ!?」
老婆は言った。
「だって、その鏡があると私が入れないじゃないか!」
───
それからどうしたのか、記憶が曖昧ではっきりとは思い出せない。
その老婆の言葉は、今でも頭に響いている。そして私は、その鏡を絶対に手放さないと誓った。