3-2
街は妙に静かな気もしたし、いつも通りという気もした。ミトンの通う大学から川一本を隔てた、古い住宅街だ。細く使いづらそうな坂道が複雑に接し合い、何度もつぎはぎされたように新しい区画と古い区画が入り組んでいる。ぽつぽつと車が走っていて、私たちのように徒歩で出歩いている者も幾人か見かけた。
「この前の、読みましたよ」私は言った。「面白かった。……ごめん、つまんない感想で」
「そんなことない。嬉しいです」と、ミトンは言った。
「あの、主人公の顔が急に変わるところが、良かったです」
「ああ」ミトンは何かを思い出すような目で前方を見ながら、「そう。あの場面、気に入ってるんです」と言った。
「あれは続きがあるの?」
「わからない。ないかも」
「そっか……あそこで終わりだと、ちょっと寂しい感じがするけど、それがいいのかもね」
「ハッピーエンドって何故か作れないんですよね」ミトンはそう言って少しはにかむように微笑んだ。
「ちょっと、わかるかも」
「リッチーは、創作をするの?」ミトンが聞いた。
「昔、絵を描いてたんだけどね。やめてしまった」
「どうして?」
「うーん。特に大きな理由はないかな……」
いくつかの理由に心当たりはあるが、突き詰めて確かめたことはない。私が絵を描きたくなるのがどういうときで、描くのをやめるのはどういうときか。
私には何年も長続きする趣味というものがなかった。
「どうします」少し大きめの丁字路まで来て、ミトンは歩みを緩めた。「駅へ出てみます? それか、こっちのほう行くと、海岸に出られるんだけど」
「あ、ほんと? 思ったより海、近いんだ」
「歩きだとね。抜け道があるから」
「じゃあ海にしよう。駅とか行っても、今日は何も開いてないでしょう」私はちらっと、空を見やった。
「うん……」ミトンは同じく空に目をやって、何か考え込むように目を細めた。
「ほんとなんなんだろうね、あれ」
「良いものじゃあ、ないでしょうね」ミトンは言った。「なんかそんな感じがする。嫌な感じ。……私は好きになれない」
「好きな人なんているの、あれ」
「さあね……いずれ大体の人は好きになるんじゃないかな?」ミトンは憂鬱そうに、わずかに首を傾げた。「結局、無害だし、もしかしたら何かの役に立つとか、あれで金儲けできるとか、なんかそんなね、急にそんな話になって、意外といいものじゃないか、とか、そんなこと言い出す人、わりといそう……」
確かに、そうかもしれない。もし、無害な上に何かしら利用価値があるということになれば、あるいは。
「有害だったらどうする?」私はミトンに並んで歩きながら、半ば冗談、半ば本気で聞いた。「私たちこんなに、ずっとこの下歩いてて大丈夫かな」
「やっぱり、どこか屋内に入ります?」
「いや、うーん……」
それもそれで、気が進まないのだ。こういうふうに空が覆われているとき、閉じこもっていると本当に気持ちまで塞いできそうな気がする。ミトンも、たぶんそれが嫌で外へ出たのだろう。
多くの人が「念のため」というだけの理由で外出を控えているというのに、私たちにはどうもそれが息苦しいみたいだ。
「あんまり長生きとかしたくないからなあ」と私は言った。「もしかしたら死にたいのかも。いや、死にたくはないんだけどさ。けどなんか、生き残るために最大限の努力なんてできない気がする」
「まあね」と、ミトンは笑った。
他の普通の人間相手に、こんなことは絶対に言わない。生きるために真剣に努力する気が無いなんて。
私が素直に自分の思うところを言えたのは、私たちがミトンの「作品」をきっかけに出会ったからだ。彼女の作品は説明が少なく漠然としているが、私にはその意味が直感的によく分かる気がした。
この人は私と同じものを見ている。
自分の気持ちを分かってもらえるかも、という甘い期待感ではなく、ああ、いるんだな、という驚きだった。