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牛丼はいつも通りの味だった。店が空いていたのは夕食には早すぎたからのようで、食べているうちにだんだん客が増えてきた。
長居するような店でもないので、食べ終えたところで立ち上がる。食卓に置いたスマホを忘れないようにしなければ。振り返った視界の端に、彼女の伸ばした腕が見えた。
「あれっ?」
何も考えていなかった。
コートを着直そうとする彼女の袖口が汚れている、と思った、ような気がした。
気づくと私はミトンの左腕を取っていて、その手首にあらわれた生々しい新しい傷痕をまともに凝視していた。
深い。赤い。無数の、様々な長さ、太さの赤い線が、不規則な列をなし……、おそらく袖に隠れて見えない部分にまで続いているのだろう。
血が出ているわけではない。だが乾いてもいない。肉の色……そうか、人の身体はこうなっているのか。と、頭の片隅に不思議な感慨が湧き出して、私の混乱した意識の上を滑り落ちていった。
ミトンは不思議な笑みを浮かべて素早く腕をひっこめた。
「すみません」と彼女は言った。
私は何かを言ったはずだが、言葉が頭に浮かんでいなかった。
店を出る。真っ暗になっている。銀色の空を見ないように、私たちは来た道を戻る。
どうしよう。どうすればいい。
このまま何も言わなければ、彼女は去っていくだろう。何か言っても、去っていくだろう。
きっと今後もSNSでは繋がってくれるのだろうし、作品も読ませてくれるだろうし、誘えば会ってくれるだろう。
けれど、彼女の人生に私は必要ないに違いない。
最初から、私は居なかったのだ。彼女の人生に関係なかったのだ。
ただ、作品を追っていただけ……一方的に。勝手に気に入って、勝手に肩入れして、勝手に、知り合ったつもりになっていただけだ。
歩道が狭まり、隣を歩く彼女が近づいた。私は思わずその手を取って握った。冷たい。すごく冷たい。こちらは右手。
左と同じく、傷があるのだろうか?
「リッチー、そんな顔もするんだね」
彼女がこちらを見ていた。
私は自分の足元より数歩先を見たまま、また空っぽな頭で何か取り繕う言葉を言った。
彼女のアパートへ向かう分かれ道に来たので、私たちは足を緩め、つないでいた手を放し、ありきたりな挨拶を交わした。
ミトンは軽く手を振って笑顔を見せ、帰っていった。
帰りの電車に乗るときに、私は、ミトンの家に上がったら渡そうと思っていたお茶菓子の詰め合わせを鞄に入れっぱなしだったことに気づいた。