train
朝7時、スーツに身を包み、カバンを提げて家の扉を開ける。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「……らっしゃい」
リビングからの、妻と息子の小さな声を背中に受けて、私はいつものように駅へと向かった。
ローンを組んで買った戸建ては、もう住んで10年になる。
新築だった家も、外装がはがれていたりと、なんとなく「古い」と感じさせるものになっていた。
ブロック塀をいくつか曲がって、大通りに出る。信号の向こうに見える駅の遠景が、今日はどこか騒々しい。
なんだろう?
私は信号を待つ間、通り抜けていく車越しに伸びあがるようにして駅の方を見つめていた。
信号が変わり、駅に向かって歩みを進める。近付くにつれて、人だかりが増えてきた。
大半は私のようにスーツに身を包んだ勤め人風で、何人か制服を着た学生もいる。ラフな格好をした主婦と思しき女性が数人、ロータリーの隅の方で輪になって立ち話に興じていた。
「これはどうしたことですか、山田さん」
2軒隣に住む山田さんを見つけ、私は肩を叩いた。
私より10センチは背の高い山田さんは、驚いたように硬直したが、すぐに振り返り、目をやわらげた。
「ああ、服部さん。おはようございます」
「おはようございます。今日は珍しく暑いですね」
「本当に。もう10月ですよ」
ジャケットが暑いのなんの、と山田さんはハンカチで額の汗をぬぐった。
「それで、これはいったい何の騒ぎですか」
「これはですね。今朝、駅が電車を食っちまったんですよ」
「なるほど。獸化しましたか」
「ええ」
見れば私の右手、上りの電車がその車両の最後尾をわずかに駅舎の外に出している。しかし、咀嚼されるのは時間の問題だろう。
実際、駅舎が左右に震えるたび、ゆっくりとだが着実に車両は私の左手方向、すなわち駅舎の中に進んでいっている。同時にグシャ、とかミシッ、とか音がするのがいかにも食べられている、という感じで不快だ。
「恵方巻をほおばっているみたいだよな。なんとか一口で行こうとしてさ……」
「しっ。不謹慎だろっ!」
制服を着た学生たちがこんな会話をしていて、私は言い得て妙なたとえだ、と思った。
一方で山田さんは悲しげに眉根を抑えるような動作をしていた。
「10分ほど前に活性化したらしくて。危ないところでした。ちょうどこの位置に立っていて。あと少し早かったら僕も腹の中でしたよ」
「ほんとうですね。会社には連絡されたんですか?」
「はい。今日は半休にしてくれるそうです。今、警察と鉄道会社の方が揃って証明書を配っているところですよ」
「そうですか。こうなっては。私も連絡しないと。ちょっと失礼」
私は社用の携帯をカバンから取り出すと、会社の番号にコールを入れた。
「もしもし。営業三課の服部ですが。はい。最寄り駅で駅が獸化してしまいまして」
「はい。伺っております。別の交通手段で、なるべく早くご出社ください」
「……わかりました」
私は通話を切ると、肩を落とした。
「……お気の毒ですねえ」
通話の内容を察した山田が何とも言えない表情で私を見た。身長のせいで見下ろされているように感じられ、より憐憫の情が強調されている気がする。
「まあ、本当に気の毒なのは、当時駅にいた人たちと、電車に乗っていた乗客たちですが」
「そうですね。よくあることとはいえ、浮かばれませんな」
私たちはさすがに沈んだ表情で駅舎を見上げた。
一年前に建て直された駅舎は、あえて開業当時の雰囲気を出そうと、煉瓦がペイントされえんじ色の屋根が味わい深い演出がなされていた。その駅舎が、ゆっくりと蠕動運動をして震えている。規模の小さな地震がずっと続いているようだった。
生で見るのは初めてなのか、学生がはしゃいだように携帯のカメラを駅舎に向けている。ネット上に投稿されるのだろうか。
ありふれた獸化なので、息子世代の言う「バズる」ことは無い気がするが、今回みたいに大規模な獸化は考えてみれば久しぶりかもしれないからもしかすると、という気もしてくる。
「この辺で獸化が起こるのは何年ぶりでしょうね」
山田さんの問いかけに、私はうーん、と唸った。
「4年ほど前に、南町の戸建てが獸化したことがあった気がしますね」
私は記憶をたどって言った。
「ああ、ありましたね」
「確かその時は、昼時で人がみんな出かけていたから、人的被害はなかったんですよね」
「そうでしたそうでした。ちょっとしたニュースになりましたっけ。死傷者ゼロは珍しいから」
記憶が鮮明になってきた。
駅の向こう側。南町の戸建てが獸化したとき、人的被害は全くなかった。
隣人の外飼い犬の吠え声で異常に気付いた近隣住民の通報で、家人の知らないうちに警察と消防が出動したのだということだった。
消防による封じ込め策が功を奏し、一週間で戸建ては死亡したとか。
「今回はどうでしょう。前みたく、消防は餓死させますかね?」
「さあ。駅舎はこれだけの大きさですから、いつも通り火をつけるのでは?」
「やはりそうでしょうか」
「まあどちらにしても、しばらく駅は使えないでしょうね」
「本当ですね」
厄介だな、と山田さんは小さく呟いた。
不謹慎な発言だが、気持ちはわかる。
失言にバツが悪い表情の山田さんに向けて、私は「わかりますよ」と言う風に頷いて見せた。
「それにしても警察や消防には頭が下がります」
獸化証明書を受け取りながら、山田さんは感心した風に口を引き結んでいた。
心からそう感じているようだ。
「全くですね」
その実、私も同じ気持ちだった。ロータリーを埋めるように止められている獸用消防車や救急車を横目に重々しく返事をした。
防護服を着た消防隊員が、ホースをもって駅の北口に突入していく。おそらく、そこが今回の口腔部にあたるのだろう。
体内で窒息しないよう、酸素ボンベを担いだ救急隊員は、まるで陸上のダイバーのようである。いかにも重そうだが、訓練された彼らは機敏に獸化した駅舎に突入していく。
入っていくのと入れ替わるように、何人かが担架に乗せて運ばれてくる。あるいは救急車に乗せられ、あるいは引かれたレジャーシートの上で医師の治療を受けている。
一部、顔に白い布をかけられている人がいるが、おそらく間に合わなかったのだろう。
私は心の中で手を合わせた。
そういえば、という山田さんの声に、私は意識を切り替えた。
会社からは「なるべく早く来い」と言われているが、少しくらい油を売っても叱られはしないだろう。
「あのホースから出てくるのは何なんでしょうね。水とか?」
「さあ、そういえば考えたこともなかったですね。生理用食塩水とかでしょうか」
「案外、塩酸とか水酸化ナトリウムとかかもしれませんね」
意外に詳しいんだな、と私は驚いて山田さんを見上げた。視線に気づいた山田さんは、照れくさそうに手を振る。
「いやあ、昨日娘のテスト勉強に付き合ってまして。それが頭に残っていたんです。最近の中学生は難しいものを習いますね」
「いやあ、なるほど」
私は自分の息子の康太を思い浮かべた。現在は中学三年生だったはずだ。毎朝顔を合わせているが、そういえばここ最近碌な会話をしていない。
だから自然、妬ましさが口調に出てしまった。
「お子さんと仲がいいのはうらやましいことですね」
「いや、都合のいい時だけ頼ってくるんですよ。したたかなもんです」
私の口調に全然気づいた様子はなく、山田さんはひらひらと手を振る。
私は、なんだか自分が矮小な人物であるような気がして顔をこっそりしかめた。
その時、軽自動車が猛スピードでロータリーに侵入してきた。危ないのでやめてください、と警察官が叫んでいる。
そんなことに構うかと、軽自動車はパトカーの隣にキキっと音を立てて止まった。
運転席から30歳ほどの女性が降りてきて駅に向かって走る。
「あなたっ、あなた! あなたっ!」
「危ないので入らないでください!」
立ち入り禁止のテープをまるで無視しようと突っ走る女性を、警察官が二人がかりで押しとどめている。
「……旦那さんが被害にあわれたんでしょうね」
「お気の毒です」
私と山田さんはひそひそ話しながら女性から離れる。
「身内に被害が出ると出ないとでは大違いですものね」
「僕も自分の娘や妻が獸化した建物の中に残されたと思うと気が狂いそうになります」
私は妻と息子の顔を思い浮かべた。確かに、想像するだけで吐き気がしそうだ。
逆に自分が被害にあったら、と想像してみる。諦めはつくだろうか。残された妻と息子の生活は。
彼らは悲しんでくれるだろうか、と考えるのは少し女々しいか。
なのに他人のこととなると正直関心も薄れ、獸化自体が全国で毎日一件は起こっていることもあってなんとも思わなくなる。
当然のことなのだが、一方では、どうにも薄情な自分を見せつけられるようで嫌な気分になる自分もいた。
こんなことを口外するといけない。考えるのも慎むべきだ。
私はやはり悲しい表情をまとってゆるゆると首を振った。
駅舎はまだミシミシと音を立てながら左右に震えている。
尻だけ見えていた車両は、もうすっかり駅舎の中に飲み込まれてしまっていた。
感極まり、「ああ!」と警察官に押し留められていた女性が泣き崩れる。
筆舌に尽くしがたい悲鳴がロータリーに響きわたった。私はただ駅舎を見上げることしかできなかった。