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くらえ、逆転さよならホームラン

作者: 雨森 夜宵

 櫛田つくし、14歳。私立横島中学校2年生。静けさに満ちた早朝の教室で、つくしは自分の使っている椅子を危なっかしく頭上へ振り上げ、今まさにそれを教室後方の窓ガラスへ叩きつけようとしていた。ポニーテールの痕のついた黒髪が体の揺れに合わせて舞う。身の内に渦巻く激情は既に臨界を突破していた。カッと真っ白になった視界の裏、これまで使ったこともない汚い言葉で吼える自分の声をつくしは聞いた。

 ――ふざけんな。くそったれ。

 かくて、それは為された。


 ガシャアアアンッ!!


 派手な音である。一瞬恐ろしくなったつくしであったが、割ってしまったものは仕方ないと腹を括った。首は括れなくても腹は括れるのだと、暗いおかしみが湧いてくる。その自嘲感の中に自然とまた怒りが沸いてくる。ぎりりと歯を食いしばったつくしは、こめかみを襲う痛みにもそれをやめなかった。こうなれば割れた窓に手をつき、痛みをバネに恨み言の一つや二つ、いや五つや六つはぶちまけてやりたいと思われた。

 ひとりでに荒くなった息を必死になだめながら、膨れ上がる感情を煮詰めるように、つくしはその光景を夢想した。缶コーヒーのパッケージに描かれた山脈のようにぎざついた、窓ガラスの残骸を見つめて。


   *  *  *


 何が悪かったか。全てだ。何もかも。しかしその根源は名前にあると、櫛田つくしは思う。櫛田、つくし。すなわち「尽くし」である。人に尽くすことのできる優しい子になるようにと願って付けた、という話を両親に聞いた時からずっと首を傾げ続けている。

 ――優子ではダメだったのか?

 優しい子ならそれでいいではないか。何も敢えて「尽くし」の方を取る必要はなかったように思う。そもそもつくしでは響きも悪い。「くしだ」に「つくし」。回文もどきのようになってしまう。それか早口言葉だ。部活の顧問の石田先生など、あまりの滑舌の悪さに「くすぃだ」だの「くしどぅ」だの、毎度「くしだ」を「つくし」の犠牲にして発音してくる。明らかに氏名の設計ミスとしか言いようがない。

 生後数日、命名の時点で既に躓いているじゃないか、私の人生は。つくしはそう思った。

 しかもそのせいもあってか、櫛田つくしという人間はものの見事に櫛田「尽くし」として成長していった。

 つくしは元来、活動的で精力的な子供であった。外遊びを好み、男子連中とわあきゃあ走り回ることを最大の楽しみとし、頭の回る方ではあったが勉強を好むまでには至らなかった。絵本か何かで知ったそれをいたく気に入り、5歳の時分には将来の夢を野球選手と心に決めていた。心に決めてはいたが、口に出すことはなかった。そういう子供だったのだ。野球選手という職業は何らかの形で両親に負担をかけるものだろうと、当時のつくしはどこかでそう思っていたのである。だから、口に出すこともなかった。

 一方、娘がそんな夢を抱いているなどとは露ほどにも思わなかった母は、つくしにピアノを習わせた。特に疑問もなく言われるまま教室に通い始めたつくしは、しかしピアノの演奏自体に価値を見出すことはなかった。母が通ってほしそうにしていたから通い、上手く弾けば褒めてもらえたからその為の努力も惜しまなかった、というだけのことである。しかし努力はしたわけだからその分上手くもなった。上手く弾くから教師から猛烈に褒められた。褒められると嬉しいのでまた頑張った。そんな繰り返しのうちに、ちょっとしたコンクールのちょっとした賞ももらった。賞状というものはまるで賛辞の塊のようで嬉しかった。

 そんな賞状も、小学校では少し目立つ立場を引き受けるだけでもらえるらしいということをつくしは学習した。要するに、自分が頑張っているかどうかではなく、他人の目に有益な人間として映ることが重要なのだ。そんな真理に辿りついたつくしは、その方向――他人が求める役割にひたすら従事することを、己の基本的な行動方針として採用したのである。

 あれも間違いだった。つくしはそう分析する。価値観をいい子のそれに定めてしまったあの時が、世のため人のためを第一義と勘違いした尽くしモンスター爆誕の瞬間だったのだ。己の人生はそのモンスターの足に散々踏み嬲られて、ぺらぺらの何かに成り果てた。無限に広がっていたはずの選択肢はいつの間にか前後左右の4択にまで絞り込まれていた。そんな狭い視野で生きてきたのだということを、つくしは中学校に上がって、それも二年生になって初めて知った。その実感が、つくしの中にほとんど初めてといっていい感情を生ぜしめた。


 ――憎い。


 学校へ来る度、その全てが憎たらしくてたまらないようになった。美術の作品に付けられた小さな金の紙。当番表の一番上、学級委員の文字。時間割に書き込まれた先生たちの名前。先生、とつくしは顔を顰める。どの先生も皆、「櫛田に関しては心配してないから」の一点張りだった。唯一、体育の金井先生は、貧血で授業を休みがちなつくしを気にかけてはいた。気にかけてはいたが、その金井先生も「でもそうやって頑張るのがお前のいいところだな!」と南の島みたいな能天気さで笑いかけてくる。その言葉の全てが、気管に絡みついて締め上げてくるような気がした。

 だったら、頑張らない私は私ではないのか。

 櫛田つくし、14歳。初めて自分の存在価値ということについて考えた。そしてその結論が、割れた窓の左隣、開け放された中央の窓にぶら下がっているベルトだった。つくしはそれを見上げる。今日一番の間違いにして、最も致命的だったもの。

 尽くして、尽くして、尽くしまくった人生を思い返してつくしの至った結論はこうだ。すなわち、「尽くした結果自分に付与される価値などというものは、何もない」。頑張るのも尽くすのも、本当は誰にだってできる。自分は、それが他人よりは少し上手かった、というだけに過ぎない。自分がいなくなれば、他の誰かが自分のいた場所で頑張り、尽くすだけのことだ。だから別に、自分が何か特別な価値のある人間になったわけではなかった。

 頑張らない私には、特に何の価値も。そうは思いながらもつくしは、特に何の価値もない、とは言いたくなかった。煩悶の末につくしは、証明しようとした。自分が死んだ時、その柩に触れて泣いてくれる人がいれば、その涙は自分の価値の証明になる。

 だから今日、つくしは母のベルトを一本拝借して、まだ誰もいない時間の教室に来た。好きな場所だったのだ。ここへ至るまでの思考で、つくしの精神は既に疲弊していた。教室の一番後ろの左端。自分の席から椅子を引き出す。どうせ死ぬなら真ん中がいいと中央の窓を上下ともに開け放ち、ベルトをかける。一番緩くした輪に頭を入れようとした瞬間、つくしは気付いた。


 輪が、恐ろしく小さい。


 つくしは知っていた。母がまた最近ダイエットにハマりだしたこと。痩せた自分をイメージするのがいいとか何とか言って、どう考えても入る日の来ないであろう短すぎるベルトを買ってきたこと。目につくようにとわざわざクローゼットの一番手前にそれを吊るしていたこと。朝、そこからベルトを拝借する時、何だっていいやと適当に手を伸ばして掴んだベルトは確かにクローゼットの一番手前にあったこと。この期に及んでベルト選びを間違ったのだと、つくしは半ば呆然とその事実に気づいた。それでも、つくしは証明したかった。

 何とか頭を通そうときっちり結んできたポニーテールを解き、無理やり小さな輪の中へ突っ込んだ。頭が窓枠に押し付けられて痛い。そうしてひねり込んでねじ込んで、ベルトがやっと鼻の頭を超えたところで、限界だった。これ以上進むと後頭部の皮が全部持っていかれそうだと思った。そこで、このベルトでは無理だと、漸く諦めがついたのである。そこで今度は頭を抜こうとしたが、角度が良くなかったのか、ものの見事に鼻が巻き込まれて押し潰された。

 そんなあまりに間抜けな自分の姿を頭の中に描きながら、つくしはふと、己の試みの全てをひどく虚しく感じたのだった。

 朝の静謐と澄み切った空気の中、椅子の上に立ってベルトに頭を突っ込み、白いそれをどじょう掬いの手拭いみたいにしながら見事な豚っ鼻を晒して四苦八苦している。そんな中学2年生女子を思い浮かべて、つくしは心底アホらしくなった。全部失敗してる、とつくしは惨めに思った。ベルトは小さいし私の頭は大きいし。椅子を持ち上げて元の位置へ運びながら、しかしつくしは、己の胸の底にちかりと光るものをも見出していた。


 ――ふざけんな。くそくらえ。


 きらめきは、そのようにちかりと鳴った。あまり使うべきでない汚い言葉と知りながら、つくしは頭の中にそれを反芻した。ふざけんな。くそくらえ。自分の胸の中にある感情はまさしくそれであると思った。椅子を自分の机の前に下ろしかけたまま、つくしはじっとその言葉を噛み締めた。何が「尽くし」か。ひとつスイッチが入ると、全てがオセロのようにひっくり返っていく。今まで何気なく見過ごしてきたもの全て、どこかで己が「尽くし」の為に我慢してきたことであるような――つくしという名の下に目を背けてきたことであるような、そんな気がした。


 例えばピアノ。面白くない。本当はやめたかった。習うならドラムがいいと思った。それかコンガ。もしくはボンゴ。そういうものの方が好きだった。今だって。


 例えば学級委員。やりたくなかった。でも立候補がなくて学級会が長引くのも嫌だったから先手を打って立候補した。流石櫛田、なんて担任の先生の台詞は褒め言葉として受け取ったものの、何が流石なのだろう、という疑問が胃の底にこびりついて吐き気がする。


 例えば書道の金賞。元々字は綺麗だった。別に教室に通ったりもしていない。でも、書道の先生を含めた全員が、私がその「真面目さ」の故に字が綺麗になったのだと勘違いしている。みんなもしっかり練習しろよ、という先生の言葉の後ろにはいつも、櫛田みたいに、という無言の台詞がくっついている。


 例えば先生たち。みんな私を「優等生の櫛田」としか見ていない。友達もそう。家族だってそう。私が頑張って尽くしてしまうから、誰も自分の誤解に気づかない。


 みんな、みんな、間違ってるんだ。

 あのベルトも、と振り返ったつくしの目に映ったのは、どう考えても首を吊るには向かない小さな輪と、窓ガラスの向こう――学校を取り巻く緑だ。だだっ広くて青臭くて、平和という概念を糸にして編んで作ったような美しい水田。大きなそれの向こうには住宅街があり、更にその向こうに山がある。朝の光の中にどこからかカラスの間延びした声がする。

 この学校もまた、つくしの本当に望んだ進学先ではない。志望した学校の中では最も家に近く偏差値も高かったが、本当に行きたかったのはもうひとつ下のランクの学校だった。家からは遠いが都会にある。つくしは最初からそこを志望校に挙げていた。だが、成績の良さから膨らんだ塾の講師と親の期待に背くことができず、いつの間にか第一志望がすり替わっていた。

 もしかすると、つくしの人生で初めての「自分で決めた道」であったのかもしれないというのに。

 私立横島中学校。その名前さえつくしの怒りに油を注ぐ。よこしまとは何事か。もう少しどうにかならなかったのか。特にここが横島町だの横島区だのというわけでもない。優秀で正しい学生を育てるための施設が音のみとはいえ「邪」を冠してどうする。何もかも間違ってるじゃないか。何もかも。

 そんなつくしの怒りをよそに、水田を渡っていく風に緑がそよいだ。光の帯が揺れながらその面を流れていく。こんなにも煮詰まった思いを、つくし以外の誰も知らない。櫛田つくしという生徒が、ただただ真面目に愚直に、褒められたい一心で尽くし続けてここまで来てしまったがために。

 ぱん、と、つくしのどこかでガラスの砕け散る音がした。


 ――ふざけんな。くそくらえ。


 持っていた椅子を、つくしは危なっかしく振り上げた。

 かくてそれは為された。


   *  *  *


 山の稜線に似た、割れ残った窓ガラスの輪郭。本当ならそこから飛び出して身を投げるくらいの思い切りが欲しかった。とはいえ窓の外は普通にバルコニーであり、転落防止用の柵までついているが。

 最早自分の価値の証明などどうでもよくなったつくしは、ただ何かしらの反逆の狼煙を上げることのみを夢想していた。飛び降りて死ぬもよし。ガラスの破片で喉頚を掻き切って死ぬもよし。意味不明なことを叫びながら走り回りたくもあり、この後駆けつけるであろう先生に渾身の暴言と暴力とをもって応戦したくもある。つくしは闘争を求めていた。今まで従順に尽くしてきた全てに、その牙と爪とをもって傷をつけてやりたかった。だがつくしは、既に骨の髄にまで染み込んだ櫛田「尽くし」としての行動原理を振り払うことができなかった。椅子を拾わなくちゃ、といやに冷静な「つくし」が言う。ガラス片もなるべく片付けておかないと。あとベルト。そんな風に思う自分が、ふと、無性に可笑しくなる。

 ――窓割ったのに、まだ優等生に戻れると思ってるの、私?

 すっと、肺に澄み切った空気の流れ込んだ気がした。つくしは無残な姿を晒している窓に向かって踏み出した。あたしは窓を割ったんだ、とつくしは反芻した。あたしは窓を割ったんだ。割ることができた。あたしは……。

 あたしは、劣等生。

 椅子が叩き割った窓の淵に、櫛田つくしは手をかけた。体重をかけたわけではないが、身じろいだ拍子に手のひらへ鋭い痛みが走った。漸く実感が沸いてきた。つくしの口元に、実にこの状況には「間違った」ものとしか思えない笑みが浮かぶ。


 櫛田つくし、14歳。突然教室のガラスを叩き割った学年屈指の劣等生。ぐっと身を乗り出そうとするとガラスがくい込む。流れる血は闘争と革命の赤。今日あたしは死に損なった。だから今日からはちゃんと生き直す。


 だって、決めてやったんだ。逆転のサヨナラホームラン。


「……あーあ」


 小さく、つくしは呟いた。めちゃくちゃ怒られるだろうな、これから。


「あーぁあ」


 もう少し大きく。こんな手じゃ暫くペンを持つのも辛いだろう。でもとにかくベルトは隠そう。母さんに何を言われるか分からない。けど、決して母さんのためじゃない。あたしのためだ。あたしのために、あたしがそう選ぶ。

 少しぬるい空気を、つくしは胸いっぱいに吸い込んで、叫んだ。


「――あぁ~~~~~~~ぁあ!!!!!」


 視界に入るもの全てを震わすように。


   *  *  *


 数分後、慌てて駆けつけた担任が唖然とする中、頬に血と涙の跡をつけた櫛田つくしは割れた窓を背に笑みを浮かべていた。ほうきとちりとりを手に、ポニーテールを結び直して。

 あたしがそうしたかったので、と櫛田つくしはそう言って、以後この事件について一切語ることはなかった。

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