仏様
初めてお会いした私にでさえも、様々なことを語って下さった趣深い仏様は、琵琶湖の東岸に位置する湖北地方の田園地帯、目立たない小さな御堂の中に、ひっそりと忘れられたかのようにいらっしゃった。
私は、初めからその仏様の素晴らしさを知っていて訪ねたわけではなく、その辺りを旅するにあたって下調べをしている時に、たまたまその存在を知ったにすぎなかった。
実際にお会いしてみて、行基作と伝えられる由緒ある仏様で、国指定の重要文化財でありながら、殆ど訪れる人が無いような辺りの静けさにまず驚いた。
厨子の扉が開かれて、目の前にお姿が現れた時のただならぬ気配と、迫ってくるような圧倒的な存在感に私は心を奪われ、自然と頭が下がっていた。
全体は白木の色が残るような透明感があり、銅が酸化したのか、少し緑がかった金色の装飾金具の輝きが、荘厳さと高貴さとを表わしているようであった。
等身大よりは少し大きいお姿は、人を超えた存在であることを表徴しているようであり、その場から動き出しそうな写実的な造形美は、見上げた者に向かって生きた言葉を語りかけてくるような、ただならぬ気配を漂わせている。
その表情は、多くの仏様のそれが柔和で穏やかなのとは対照的に、引き締まった厳しいものである。とは言え、その厳しさは憤怒の表情ではなく、人の弱い心を叱咤激励するかのような、慈愛を含んだものに私には見え、これから先の人生に於いて、たとえ辛いことがあっても生き抜いてゆけそうな、勇気をもらったような気がした。
両側についた筋肉質の太い腕は、左右それぞれ九本ずつ、全部で十八本あり、それぞれの手で、何らかの道具をもたれている。そんな、少し人とは違うお姿が、別の世界に住する高貴な方であることを示してるのだろうか。 一人で静かな御堂の中で、そんな仏様と向き合いながら、黙ってお姿を拝していると、自分が今まで知らなかった、この世の悩み苦しみを超えた、別の世界の存在を知らしめて下さるような思いがしてきた。
この深い慰めと心の癒しを感じることができた仏様との出会いが、単なる偶然ではなく、何らかの意図によって、巡り合わせてもらえたものなのかもしれないと、自分勝手に解釈してみる時には、私が今迄に経てきた、生きるうえでの様々な苦しみも、あるいは何らかの意味があって、意図的に用意されていたものなのかもしれないという、少し前向きな希望的な想いにも至れるのであった。
薄暗い御堂の中での心静かな時間の経過と共に、不思議な感覚が私の心に広がった。それは、その仏様と向き合った時に感じる、いつまでもその場にいたいような惹き付けられるような感覚も、御堂の中に漂う神秘的な気配も、私にとっては初めて感じるものではないのかもしれないという感覚であった。
私がこの土地を訪れたのはこの時が初めてであり、夢に見たようなことさえも無かった。私が、自分の心の中から浮かび上がってくるそんな感覚を、そのまま受けとめてみようと試みた時に、自然と思い浮かんできたことは、前世の存在ということであった。いつの頃にかずっと以前にも、私自身の意識がその仏様の前で、今この時と同じように向き合っていた時間があったのかもしれないという、現実的ではないかもしれない思いがふと浮かんできた。
私がこの世に生きてきた時間よりもはるかに長い間、そのお姿を拝した多くの人達の心を救ってきたことであろう、その高貴なお姿を見る時、この仏様は、私がいずれこの世のものではなくなったあとでもずっと変わらずに、静かな田園地帯の小さな御堂の中で、訪ねてくる人々に向かって、生きるための勇気と心の救いとを与え続けるに違いないと思うのであった。
私自身も、来世でもまたこの場所で、是非この仏様に再会したいと思った旅であった。
そしてあの旅の日から、私の人生観は少し変わることができたのかもしれない。