19.長篠の戦い(後編)
二話連続投稿の一話目です。
二話目は23時に投稿されます。
設楽原の武田軍突撃の少し前。
織田軍別動隊は鳶ヶ巣山から武田軍を追い出したあと、そのまま其処に陣を敷いた。増援の三河軍を|
大海に移動させ後背の武田軍への備えとした別動隊は暫しの休息を迎えていた。すぐに次の戦が始まるだろうが少しでも兵を休ませておけと言われ、俺も大通寺山の監視を雑賀孫一に任せ、横になっていた。
「明日にでも敵は撤退するための突撃を開始するでしょう。そうなれば後背の武田軍も動き出します。」
孫十郎が自分の分析結果を説明する。
「敵将はだれだ?」
「武田信堯、小山田信茂だそうです。」
どちらも武田家の重臣だ。兵力も十分あるから、設楽原の勝頼が撤退開始と同時に仕掛けてくるであろう。そうなると大海に展開した三河軍が挟撃を受ける可能性が高い。
「…やはり大海を増強すべきと考えておりますか?」
「ああ。だがそのためには鳶ヶ巣山からもう一隊北側に兵を配置したいところだが…この山は敵からは丸見えだ。今動けば敵に悟られる。」
「動くなら夜になってからですか。」
「河尻様にお伺いしてくる。皆には今のうちに寝ておくよう伝えておいてくれ。」
俺はそう言うと陣幕へと向かった。陣幕ではちょうど軍議を終えたところで諸将が雑談をしていた。
「如何した九郎殿?」
俺を見つけた丹羽様が声をかけてきた。
「は、武田軍の撤退が始まれば大海の三河軍が挟撃されると思いましたので…。」
俺の言葉に羽柴様が反応した。
「ほう“鬼面”は武勇だけの者に非ずか。だが心配無用じゃ。夜になれば坂井殿を北に向かわせる。夕刻には敵の注意を引き付けるために数備えを展開させるつもりじゃ。」
さすがは羽柴様、俺程度の懸念を考えておられてしっかり対策もされている。だが不安もあるようだ。元々鳶ヶ巣山に詰めていた兵がどこに行ったかわからず、決戦の際には伏兵として我らに横槍を入れてくる可能性があるそうだ。
「周囲は若狭衆に物見をさせることとなった。お前はここで待っとれば良い。下手に動けばまた敵味方引っ掻き回すことになるぞ。」
皆が笑い、俺は恐縮して一礼する。確かに俺が変に動くことで作戦を台無しにする可能性もある。今回はおとなしくしておこうと思っていたが、羽柴様から声をかけられた。
「丹羽殿、こ奴を岡崎三郎のもとに遣わせてはどうじゃろうか?三郎の気性からして武辺者として気が合うかも知れん。」
「ん?岡崎三郎を家康から引き離す布石とするか?……良い結果を生むかも知れぬな。大殿にお伺いしてみよう。」
かくして早馬が本陣へと走り昼過ぎにはその返事が返ってきた。なんと信長様と勘九郎様連名で「やってみよ」だった。俺はこの時本気でおとなしく寝ておくべきだったと後悔した。
夕刻前に俺たちは大海の陣へとやってきた。陣幕に案内され、俺は岡崎三郎様、奥平貞昌様の前で跪いた。羽柴様からの書状を渡して読んでいる二人の表情を伺った。三郎様は俺を興味津々で見つめており、奥平様は胡散臭そうにみている。奥平様は俺の派遣の意図を推し量ろうと考えておられるようだ。
「我が主、織田弾正忠よりお二人の護衛を仰せつかって参りました。お二人の傍にお仕え致すのが本筋なれど、武辺者としてこの大太刀を先陣で振るうのが我が本懐。どうかお二人のご許可を頂きたく。」
二人は俺の申し出を了承した。与力として黒屋何某という男と、牧野何某の二人がつけられた。要は監視役ですな。しかし、岡崎家臣と奥平家臣の両方からつけられるとは…案外岡崎様と奥平様の仲は良くないようだ。
二人と挨拶を交わし、土塁に上って周囲を見渡した。後ろには孫十郎と慶次郎に多賀勝兵衛、先ほどの二人が付き添っている。南には武田軍の陣があり炊き出しの煙が幾本も上っていた。
「…明日にでも出撃するな。」
「はい。」
「陣形は分かるか?」
「ここからは見えませぬが、三列隊形の魚鱗陣を幾重にも横に展開しているそうです。」
「…ならば明日の夕刻には撤退戦が始まるか。」
「そうなれば、此処は激戦となりましょう。」
「後背の心配は?」
「羽柴様が何とかしてくれるはずです。」
「ならば我らは逃げてくる敵を迎え撃ち足止めすればよいわけか。」
「それでもかなりの犠牲者がでるでしょう。」
「…だそうだ。黒屋殿、牧野殿、我に与力されるのであれば覚悟をもってついて来られるように。」
俺は孫十郎との会話の最後に二人に話しかけた。二人は青い顔をして俺を見返したのち「御免」と言うと何処かへ去っていった。多分、主に報告に行ったのだろう。俺の目配せで慶次郎と勝兵衛が二人の後を追った。
翌日、俺たちの前に五百近い兵が集まった。俺の監視役の二人がそれぞれの主に報告して俺の指揮下の兵をかき集めたらしい。「兵をお貸しするので活躍して信長様に宜しく言って下さい」という意図だ。そういう風に仕向けさせたのは慶次郎と勝兵衛なんだろうが。とにかく俺は伏兵として活動できるだけの兵は何とか揃えることができた。後は逃げてきた武田の兵を叩くだけだ。
設楽原。
武田軍は三度の突撃を織田軍に跳ね返され、かなり大きな損害を被った。“武田の赤備え”で名を馳せた山縣昌景、真田信綱、昌輝、原昌胤、甘利信康といった歴戦の猛将が織田軍の一千丁を超す鉄砲によって討ち取られた。武田軍の本陣では突撃に失敗しながらも生き残った兵のまとめ上げを行っているが、被害状況が把握できず、伝令兵があちこち走り回っていた。これ以上の突撃は本陣を手薄にしてしまうため実行はできない。後はどうやって撤退するかに諸将の思考は移っていた。
「某が殿を務めまする。若殿におかれましては自領への撤退を。」
馬場信春の皴がれた声が武田家当主勝頼の胸に突き刺さる。勝頼でなくてもこの男が自分の命と引き換えに全軍撤退をさせようとしていることは理解できる。だが、果たしてこの状況からどの方角に向かって逃げれば良いのか。誰もそのことに意見を言えず下を向いていた。
「…では、拙者が先陣を承る。残りの者は若殿を護衛されたし。」
いかにも年長者という雰囲気で内藤昌豊が言葉を発し、他の諸将は一斉に頭を下げた。内藤、馬場の二人の老将は揃って勝頼の前に座り一礼した。
「この戦…残念ながら負けにございます。しかし!甲斐信濃にはまだ兵は残っております!…必ずや雪辱を。」
勝頼は強く歯を噛みしめて頷いた。
「…ならば安心して逝けます。では儂らは配下を鼓舞しに自軍に戻る故…失礼致す。」
馬場美濃守はにこりと微笑んで力強く立ち上がり、陣幕を去っていた。これに内藤昌豊が続いた。それを見送った勝頼は残る諸将を睨みつけた。
「二人の命…無駄にはできぬ!日が落ちれば撤退を開始する!武具と馬以外は全て捨てて行く!」
はは!と一斉に返事をする諸将。
「まずは子丑の方角へ向かう。山裾まで行ったら東に向かい大海の敵をけん制しつつ豊川を渡って別動隊と合流する!」
日が落ちて、俺たちは自陣を出発した。二百の槍兵と二十丁の鉄砲衆が音を殺して北へと向かった。敵が撤退するなら大海の北側を山沿いに進むはずだと見越してだ。南からの三河衆と挟撃を計画しているが、篝火も焚けぬ状況故とにかく敵の混乱を第一目標としている。
夜半過ぎて足音が聞こえてきた。真っ暗闇で姿は見えぬが物見の知らせで武田軍であることはわかった。皆には俺の声を合図に動くよう指示している。俺は目を凝らして様子を伺い、先頭の部隊をやり過ごしてから……。
「放てーっ!」
鉄砲音が轟き、馬が嘶く。突然の事に足軽たちが浮足立ち隊列が乱れる。怒号と悲鳴が交錯し恐怖が広がっていく。一瞬にして汗血の匂いが立ち込め、この場が戦場へと変貌した。
先行していた部隊が慌てて引き返そうとするが、後続部隊から逃げ出した足軽兵たちとぶつかった。
「どけ!雑兵!」
逃げ回る雑兵を大喝する声が更に混乱を招く。そこへ三河部隊が到着した。
「進めーっ!!」
これは予め決めておいた後退の合図である。俺たちは同士討ちを避けるため、三河軍が来たら後退して弓矢に切り替えて応戦する手はずとなっていた。俺たちは後退して、槍を捨てて用意しておいた弓矢に持ち替え暗闇の中悲鳴のする方向に矢を放った。
そんな俺たちを見つけ出して追いかけてくる輩がいた。甲冑の音が近くで鳴り響いたかと思うと俺を目聡く見つけて高笑いをあげながら近づいてくる者がいた。
「見つけたぞ“鬼面”!今こそ前年の決着をつけようぞ!」
顔は見えなかったが声で相手が誰か分かった。俺は周囲を確認して味方から遠ざかった。そして背中の大太刀を抜いて声のするほうに構えた。暗闇にうっすらと敵の姿が見える。槍は持っておらず両手に太刀を持って身構えていた。…こりゃ逃げられねえな。腹をくくるか。さあ来い!馬場美濃守信春!
俺は大太刀を一振りした。相手はしっかりと大太刀の射程範囲外に下がっていた。俺は一度大太刀を引き戻し低く構えて下から振り上げた。相手はさっと後ろに引くが、俺はそれ以上の歩幅で前に出て素早く振り下ろす。鈍い金属音がして俺の太刀ははじかれた。俺ははじかれた勢いを借りて一回転する。その隙を信春は見逃さず間を詰めてきた。が、回転の力で大太刀を横一線に払う。相手は二本の太刀で受け止めた。
「フハハハハ!これほどの大太刀を器用に振るうものだ!」
馬場信春は笑ったまま体を俺にぶつけてきた。俺は素早くいなして距離を取り直す。だが相手の太刀が俺に襲い掛かり俺は籠手で何とかはじき返した。痛みを感じたので斬られたとは思うが、いちいち傷を確認している余裕は俺にはない。俺は更に後ろに下がった。すると相手も一歩詰めて太刀を振り下ろした。それを大太刀で受け止めると相手の腹を蹴った。相手の体がくの字に曲がるが刀を地面にさして何とか踏ん張った。
「やりおるのぉ!大殿が身罷られし折には共に死ぬることも考えておったが…恥を晒してでも生きておればこんな面白き事にも出会えるもんだ!」
信春は嬉々として俺との戦いを楽しんでいる。迷惑な話だが拒否することもできず俺は大太刀を構えなおした。
「きぇえええ!」
奇声を上げて信春が飛び込んできた。両手の太刀を前に突き出し俺に襲い掛かる。間一髪避けた俺は大太刀で切りかかるが相手は転がってこれを避けて俺の足元に潜り込んで太刀を突き上げてきた。腕を蹴って太刀筋を変えて凌ぎ、そのまま相手を踏み下ろす。信春はまたも転がって避けた。そして避けながら俺に一太刀浴びせ、俺の右足に食い込んだ。
幸いにも勢いがなかったので傷は深くない。俺は太刀を気にも留めずに相手の兜諸共メガトンパンチをお見舞いした。
「ぐああぁ!」
もちろん俺の悲鳴である。手甲をつけているとはいえ鉄兜を全力で殴ったのだ。そりゃ痛い。多分指の骨も何本か折れただろう。だが、馬場信春にも相当なダメージを与えてやった。何とか俺から離れて立ち上がったものの真面に立つことができず両ひざをついたままで俺を睨みつけていた。肩でフーッフーッと息をしている。気迫だけは尋常じゃない。
「おのれ、小僧!!」
信春は気力を振り絞って立ち上がると太刀を一本捨てて両手でもう一本を握り締めて大きく振りかぶった。そしてそのまま走り込んできた。走り方が滅茶苦茶だ。おぼつかない足取りでスピードもない。なのに…俺は一歩引いてしまった。体も硬直し大太刀を構える動作も鈍かった。
馬場信春の一撃が押し迫る。俺は辛うじて大太刀で受け止める。鈍い金属音がして相手の太刀を防いだがそのまま倒れ込み揉み合いになった。こうなると俺のほうが不利。役に立たなくなった大太刀を手放し、信春の腕にしがみつき太刀を持つ腕を思いきりねじった。信春は悲鳴をあげ太刀を手放す。俺は素早く落ちた太刀を拾い互いの甲冑を掴み合った状態で強引に首に押し当てた。信春は刃と首の間に無理やり腕をねじ込む。俺は力でそれを押し返し、腕に刃が食い込んだ。信春は両足で俺の腹を蹴ってその勢いで互いの体が離れた。俺はすぐさま立ち上がり奪った太刀を構える。信春も立ち上がったが左腕はだらりと垂れ下がっていた。血が滴り落ち今にも倒れそうな体制で信春が俺を睨みつけていた。
「お…鬼面よ…。」
信春は息を切らしながら話しかけてきた。俺は無言で近づき髪を掴んだ。
「き、貴様に…この首…くれて…やる。」
俺はじっと相手を見た。信春の目は既に納得した雰囲気を漂わせている。俺は怒りが込みあがってきた。
何故、そう簡単に「死」に対して納得できるのだ?
俺は信春の首を持ち上げ、信春の顔を思いきり殴りつけた。信春の体は髪の毛をブチブチと引きちぎって吹っ飛んだ。
「孫十郎!ご老体を縛り上げろ!」
孫十郎がすぐさま近寄り、俺に大太刀を渡した。
「後はお任せを。九郎様はあちらを!」
そう言って、森の外を指し示した。森の淵沿いに武田軍が展開しており、三河軍と対峙している。
「あすこには内藤修理亮がおります!この状況であの老将と対峙できるのは、九郎様しかおりませぬ!」
俺は孫十郎の真剣な眼差しを見返して苦笑した。
…まったく。
俺の家臣は俺をこき使ってくれる。
「慶次!八衛門!ついて参れ!」
そう叫ぶと、大太刀を奮って乱戦の中に躍り込んだ。




