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7.モノに御座ります

2019/08/28 誤字修正




 2月25日の夕暮れに、岐阜からの早馬が到着した。



 既に丹羽軍、羽柴軍が山越えの進軍を行っている最中ではあったが、伝令が各陣へ向かい、秀吉と長秀は茶臼山に召喚された。

 本陣では、使者である堀秀政が上座で顔を真っ赤にして出で立ち、下座で膝を曲げる柴田勝家を叱責していた。ありえない光景に己の目を疑いつつも、二人は勝家の後ろで膝をついた。やがて明智光秀もやってきて、秀政の鋭い視線を浴びて状況を察して下座に腰を下ろした。越前平定軍の将が全員秀政に首を垂れる状況。異様としか言いようがない。


「大殿よりの厳命である!…今すぐ兵をまとめて岐阜に戻られたし!」


 秀政からの言葉は“撤退”。その理由が分からず勝家は不満な声で返答した。


「堀殿、我らはこれより越前を蹂躙する予定で兵を進めてまいった。それを撤退せよとは、いかなる所存か?」


「蹂躙?…真冬の強行に無謀な城攻めの何処が“蹂躙”で御座るか?」


 普段の秀政では、目上である勝家にこのような物言いは行わない。だが、岐阜からの使者として彼は上に立つ者の態度で勝家に言葉を返した。


「あの城を落とせば、国内を蹂躙…「たわけが!」」

 勝家が言い返す途中で秀政の喝が響いた。その表情から怒りが滲み出ている。さすがにここまでやられると勝家にも怒りの色が見え始めた。


「秀政、いくら大殿の使者と言えど、そのような態度は…「大殿の命は、徒に兵を失うような無謀な戦を行わんとする無能な将を今すぐ連れ戻せ!である!」…。」


 秀政はまたしても勝家の言葉を遮って声を張り上げた。


「この戦で命を落としとうない者は即刻荷物をまとめるべし!柴田殿、明智殿、丹羽殿、羽柴殿は儂の言葉を大殿の言葉と思って下知に従われよ!大殿はお怒りである!これに納得できぬのであれば一人槍を持って真冬の越前を蹂躙されよ!…大殿が与えし兵は儂が引き取り、岐阜へと戻らん!」


 大殿は怒っている。さすがにその言葉を聞いて一同の表情が硬直した。全員が下を向き大殿の怒りを体現する秀政に言い返すこともできず、沈黙が流れた。


「…我、大殿の下知に従わん。今すぐ兵をまとめて金ヶ崎へ向かう。」


 丹羽長秀が立ち上がって己の意思を表明した。秀政が頷き、長秀の退出を認めると続いて羽柴秀吉が声を上げた。


「久太郎殿!儂も今すぐ兵を引き連れ金ヶ崎に向かいまする!」


 長秀もそうだが、秀吉も「退()く」とは言わなかった。秀政からすればそれが気に入らなかったようで、


「勘違いされては困る!大殿の下知は“撤退”であり、“転進”では御座らぬ!いい加減認められよ!…この戦の差配は大殿の怒りを買ったのだ!」


 秀政の一言に、秀吉は拳を震わせた。秀政の態度に怒りを覚えたようだが、唇を噛み締めて必死に堪えていた。長秀が秀吉の肩を叩き無言で彼を引き連れ出ていく。その様子を見届けた秀政は残る二人を睨みつけた。


「此度の大将は柴田殿に御座る。某は柴田殿の命に従うのみ。」


 やがて明智光秀が落ち着いた声で言うと、それを聞いた勝家が折れたように両手を地につけ返答した。


「…大殿の命に…従いまする。」


 勝家の言葉に秀政はようやく用意された床几に腰を下ろした。


殿(しんがり)は儂と帯刀殿が務める。準備ができ次第出発されたし。」


 勝家と光秀は各々返事をすると力の無い動作で陣を出て行った。この陣の主は柴田勝家である。しかし、岐阜からの使者を迎えた今は勝家はその任を解かれ、冷たい風に曝されてバタバタと悲しく音をたてる場所となってしまった。



 3月1日、早朝。


 二万の大軍が岐阜城に到着した。金ヶ崎と木ノ芽峠に塙帯刀と阿閉淡路守をおいて、越前から撤退したのだ。岐阜に到着した各将は休む間もなく御殿に集められ、甲冑の擦れる音を鳴らして下座し、上座に座るお方を暗い表情で待った。

 やがて、早朝にも関わらず髪を綺麗に結い真新しい裃に身を包んだ織田信長が大広間に姿を現し、無言で上座に腰を下ろした。だが…その表情には“怒気”は一切感じず、穏やかな表情で柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、そして羽柴秀吉と順に見渡すとふっと表情を崩した。


「痴れ者どもが。腐ったような顔して戻ってきおって…。」








 丹羽様の隊と共に岐阜へと戻ってきた俺は、慶次郎と与三郎を置いて岐阜城の御殿へと案内された。大広間ではなく奥の間である。小姓の案内で入ると、そこには見知ったお方が下座に腰を下ろしてじっと上座を見据えている姿が見えた。


 その瞬間に俺はガタガタと震えだした。


 勘九郎様がこの部屋の下座の位置で座られているということはお待ちする相手はただ一人…信長様であることは間違いない。普段は勘九郎様は信長様と同じく上座に座られている。それなのに今日は下座…。その原因は間違いなく俺。そう考えると勝手に体が震えだした。


 勘九郎様が信長様に叱責を受ける…!


 そう考えると震えだした体は言うことを聞かず、膝を曲げて座るのすら、俺は苦しんだ。勘九郎様は俺を一目見ると笑顔を見せず正面に視線を戻した。


「……無吉よ、お前が想定していた以上に本願寺にはしてやられたな。」


 俺は汗がどっと噴き出た。やはり本願寺が我が軍に何かを仕掛けていてそれによって撤退をさせられたとみている。


「は……。」


「お前は…どこまで把握して、父上に文を書いた?」


 勘九郎様はやはり俺が信長様宛に手紙を書いたことを御存知であったか。これは最終手段であったのだが、たまたま与三郎が来たことで俺はそのカードをいきなり切ってしまった。今考えてみれば最悪の一手であった。


「把握した内容は…どうでもいいか。…お前にしては悪手であった。……おかげで私はお前を前にして「知らぬ存ぜぬ」を通さねばならなくなった。」


 そうです。仰る通りです。


 俺は勘九郎様の家臣。いくら信長様の覚えめでたきと言えど、直接信長様に文を渡せる身分ではない。俺や庄九郎などが大殿にお手紙を出す際には必ず上司や父親の連名がいる。俺が書いた文にはそれが無いのだ。不遜極まること甚だしい。



 だが、俺はそれでも現状を伝えるべきだと判断して、文を書いて与三郎に託した。その結果がこれだ。本来ならばこの越前平定戦に名を連ねていない勘九郎様が岐阜に呼び出され、下座に座らされている。


「待たせたな。」


 障子が開き、部屋に信長様が入ってきた。勘九郎様が平伏し俺も慌てて両手を突く…が震える両手で体を支えきれず、俺は額を床に打ち付けた。信長様がちらりと俺に視線を向けたが直ぐに勘九郎様に顔を向けゆっくりと用意された座布団に腰を下ろした。



「…ものの見事にしてやられたわ。」


「……と言いますと?」


「権六のことよ。あ奴は百姓衆には穏やかに接することを知っていて、以前から接触されておったようだ。…半年ほど前から、禿ネズミらの悪評を聞いておったらしい。その対象には金柑、五郎左、三郎五郎、九郎左衛門まで含まれておったらしい。」


「…そこまで行くとさすがに気付くと思うのですが…。」


「あ奴はまっすぐすぎる。だからこそ、越前の百姓ども、寺社衆と上手くやっていけると思うたのだが。…此度は本願寺にしてやられた。朝倉旧臣に根を持つ輩まで踊らされた。」


「権六に越前を任せるのは厳しいですね。」


「前にも言うたであろう?国を任せられる者が圧倒的に不足しておる。権六には…いや権六配下の者も含め軍を任せられるようになってもらわねばならぬのだ。…でないと加賀の門徒を潰すこともできぬ。」


「では?」


「うむ。全員、戦の費用を自前で払わせるだけで他は全て不問にしたわ。」


 ここで初めて勘九郎様が頭を下げた。信長様が軽く笑った。


「濃にしこたま怒られたわ。“ここで介様が怒りに任せて家臣を処断されれば、本願寺の思う壷です!”だとよ。」


「この怒りは本願寺に向けられますよう…。」


 勘九郎様が再び頭を下げられた。


「わかっている。」


 信長様はそう返事をしたきり、黙り込んだ。静寂が辺りを包み、俺の震えが増していく。


「……勘九郎、此度…儂に諫言をした輩がおる。陪臣の身分で主に断りなく儂に文をよこして来た。…知っておるか?」


「存じませぬ。」


 …即答だった。何かが俺の中で崩れていった。どこかで勘九郎様であれば俺を庇ってくれると思っていたようだ。そんな期待は早々に崩され、俺は真っ暗になった。


「そのような輩、いつか必ず我らに仇を成すでしょう。…今ここでその縁を絶つのが無難に御座ります。」


「…濃がその者の助命を嘆願してもか?」


「ぐっ……」


「類が我が身に変えて守ろうとしてもか?」


「……。」


「あ奴には“家”がない。故に…武家でもなく、公家でもなく、坊主でもなければ、百姓でもない、ましてや商人でもない。そんな奴を切り捨てる…儂は勿体ないと思うた。」


 ここで勘九郎様が頭を床までつけられた。


「…お前の家臣だ。お前が処遇を決めよ。…だが、儂はあ奴が織田家に害を成す者とは思えぬ…。妙なしがらみであ奴を縛り付けても逆に損をするやもしれぬ。」


 勘九郎様が肩を震わせていた。


「先に言うておく。…近い内に家督を譲る。お前が儂に替わって采配を振るう機会も増えるであろう。織田家の支配領は今より遥かに広くなっておる。今よりも多くの者と対峙しなければならぬ。」


 ここで初めて信長様が俺の方に顔を向けた。


「…無吉、お前は勘九郎にとってなんじゃ?」


 俺の中で幼い頃の思い出が蘇った。女房館を出て生活し始めた俺に投げかけた質問。奇妙丸様は「友」と答えようとして足が飛んできた。…いや手だったか?あの時は俺の身分と自分の身分の違いを理解しろとお叱りになった。…今は勘九郎様の直臣となり、大きな屋敷も頂いた。

 だが本質的なところで俺と勘九郎様との間には大きな隔たりがある。俺がこの時代で生き抜くためにはその根本的な違いを利用しなければならない。


 故に・・・



「モノに御座ります。」



 信長様はフフンと笑うとまた視線を勘九郎様に戻した。そして肩を震わせる勘九郎様に優しく声を掛けた。


「勘九郎、お前は類が亡くなった時も涙を見せなかったくせに…。」


「……悔しゅうございました。父上に…偽りの言葉を…吐かねば…うぅ…。」


「もうよいわ。権六らを不問にして、無吉だけを処罰などできぬ。…越前の雪辱は他で果たす。…もはや本願寺には容赦はせぬ。一向門徒は我らを内から腐らせるということがようわかったであろう?」


 勘九郎様は再び信長様に頭を下げられた。その後、二人で御台様のところへ挨拶へと向かった。




 たっぷりと叱られた。



 多分御台様に叱られたのは初めてだろう。勘九郎様もそんな顔で御台様を見つめられていた。




 でも、全然悲しくなくて。




 むしろ嬉しかった。




 ~~~~~~~~~~~~~~


 越前の反乱を機に、織田家と本願寺との抗争はより激しくなった。そして、この争乱がきっかけで、織田家の重臣の間にしこりができたことも記しておく。


 柴田は羽柴に。羽柴は明智に。明智は柴田に。


 それぞれが、只ならぬ思いを秘め織田家は次の戦を迎えるのであった。



 野田・福島に籠もる三好三人衆との決着である。


 ~~~~~~~~~~~~~~






平安時代より、武家は文の書き方にこだわりがあったようです。なぜ?どうして?そこがよくわかりませんでしたが、必ず最後に文の内容を保証する保証人的な意味で、署名がされていました。つまりそこに署名される名は信用のおける者である必要があったそうです。平安、室町においては、源氏或いはこれに連なる者が最も格が高く、誰それの家臣の名では全く信用などされない文だったそうです。(恋文は別です)

 室町の後期から戦国時代では、守護、守護代と言った領主クラスから、実力主義に移り変わり、織田信長の名で発給された文でも信用が得られるようになりました。信用を得た戦国大名は自分の名を表すサイン(花押)を使うようになり、更に信用を得られた大名は「印」を使うようになります。「天下布武」の印は有名ですね。つまり手紙は名のある者の直筆でないと信用されない。そういう時代だったようです。



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