4.桶狭間(前編)
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1560年5月。
“織田信長”という名が大きく世に広まった戦が始まる。
この頃の私はまだ幼く、この戦が伝聞でしか知り得なかったことが大きく悔やまれる。だが、聞いた限りのことから私が当時何を考えていたかを書いておこう。
それから、あの戦より、私の知る歴史とは異なり始めたことも明記せねばならぬ。
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俺はようやく歩けるようになった。
歩けると言ってもヨチヨチではあるが、俺の行動範囲は広がった。引きこもりの御台所様や養徳院様のお部屋にも行けるようになった。
女房衆といっても、御台所様や養徳院様は、織田家の支配者層の人間なわけで、家臣たちが毎日様々な理由でお二人に謁見されている。
今は専ら鳴海・大高周辺の状況について林佐渡守様を筆頭に何人もの家臣が報告されていた。
俺はその内容を隣の部屋でこっそり聞いたりしているのだが、不思議に思っている。なぜ御台所様や養徳院様が様子を知りたがっているのだろうかと。
昨年、朝比奈輝勝が大高城の守りに入っている。朝比奈家と言えば今川の直臣だ。そんな大物が最前線の守りについたとなれば、周囲もざわつく。当然そのざわつきを抑えるために織田家は今川に寝返った山口親子が守る鳴海城を囲むように5つの砦を築き、今川への牽制としたそうだ。
大叔父の織田秀敏様を初め、織田家の重臣を各砦に配置しているそうで、どうやら前哨戦は既に始まっており、小競り合いを繰り返しているそうだった。
信長様は津島衆、熱田衆など、尾張在住の商人から情報をかき集めており、今川治部が侵攻の準備を進めている情報も入手している。俺の記憶が正しければ、5月には松平元康の先発隊が、後巻きとして義元本隊がやって来る筈。戦国の時代はこういった情報収集は、商人が行っていたようだ。わかってはいたが、当然「忍者」と言うものは存在しない。情報は、活動範囲の広い商いを専らに行う集団が、自分の足で情報を集め、主君に提供したり、隣国に売ったりしているそうだ。吉乃様のご実家、生駒家も商人衆の一家で、当主の家長様が西三河の情報を集めている。
他にも、美濃と尾張の国境を根城に運輸の活動をしている川並衆など、在地の土豪たちも普段から情報収集していて、ここぞという時に領主に売りつけてくるらしい。ただ、今回は川並衆は全く動いていない。というか、美濃に近い国人衆はほとんど活動しておらず、普段通りの生活をしている。
俺は家臣から御台所様への報告を盗み聞きしている立場ではあるが、どうも解せない。
俺は、御台所様の部屋から離れてトコトコと歩きながら考え込んだ。この時代のいくさとはどのようなモノなのだろうか。俺はまだ幼く、言葉もたどたどしいので、誰かと会話して情報を得ることが難しい。先ほどの様に誰かとの会話を盗み聞きして情報を得るしかなく、細かな状況が想像できずに……
「こら!」
不意に頭の上から声を掛けられ、俺はびっくりして尻餅をついた。見上げると亀さんが頬を膨らませて俺を睨んでいた。
「無吉!あんた歩けるようになったら、急に悪餓鬼になりましたね!いったい、どこをうろついていたのですか!?」
どうやら、俺が勝手にうろうろしていたことを怒っている。確かに、怒られることだ。ここは素直に謝っておこう。
「ご、ごめん…なさい…。」
俺はできるだけ可愛らしい仕草で亀さんに謝った。予想通り、亀さんは俺を抱き上げて可愛い可愛いを連呼し出した。
この亀さんは熱田の加藤某という商家の娘さんで吉乃様の側女中として働いている。…考えると舞さんも生駒家の、それから慶さんという目つきの悪い女中も清州の伊藤某という商家の出だ。…女房衆には商人の娘が多い?いったい…ん?
「はい、これでどこにも行けませんね。ここで大人しく庭を眺めてなさい。」
俺は麻紐で腰を括られ、反対側が柱に結わいつけられた。
「あい?」
「可愛い声を出してもだめです。」
俺は亀さんに頬をぷにぷにされて、縁側の柱に括られた状態で放置された。紐を解こうと試みたが、幼い手つきでは解けるはずもなく…。仕方がないので柱に寄りかかり庭を眺めるふりをして考えに耽ることにした。
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思えば、私がご主君の側に仕え、重宝されたのは、私が未来を知っているという事もあっただろうが、集めた情報を整理し、十分に考えて答えを探すことが癖づいていたからだろうと思う。後に数々の献策をご主君に行い良き結果を生み出した私だが、この時も、その結果、信長様が何を考えておられたのかということもわかったのだから。
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鳴海城は山口親子が今川方に寝返っている。
更に周辺の大高城、沓掛城がこれに同調した。
更に更に大高城は今川家直臣の朝比奈輝勝が城主となった。
そして、三河・遠江で米が買い占められ、値段が上がっているという。
ついでに言うともうすぐ岡部元信という今川方の直臣が鳴海城主になるはずだ。その後、鳴海、大高からの攻撃が激しくなり、砦をいくつか破壊されたところで、松平元康が兵糧を運び込んでくるはずだ。
対して織田側の動きは…。
信長様は5つの砦を築いた後、最小限の兵を砦に残し、清州に引き上げられている。
そして尾張の上四郡の国人達には徴兵を命じていない。
ひたすらに商人達を呼び寄せては周辺諸国の動向を確認している。
これは、何か必要な情報を得られるのを待っているのかもしれない。…何を?
恐らく当主今川義元の出陣をだろう。
俺の認識では、鳴海・大高の小競り合いが発展し、本国の大軍を呼び寄せた結果、起死回生の突撃で義元を打ち取ったと思っていたが…。
そうか。時代は甲相駿三国同盟により、関東の大国がそれぞれ別の方角に目を向けた時期。この同盟により、今川家はその兵力を相模方面、甲斐方面から三河尾張方面に向けていたのだ。信長様はいつか今川の大軍が来ることをわかっていて、どう対処すべきか考えておられたようだ。
となると、鳴海を囲う砦は大軍を呼び寄せるための餌…ということか。いやいや、砦を守る将には大叔父様もおられるんだぞ。…いや、守備する兵を少なくしているのは説明がつくぞ。だが、それだけでは、大軍で押し寄せる今川を破るにはそれなりの兵力が必要だぞ。確か史実では二千の兵で強行突破して本陣を突いたと言われているが…
「おい、無吉!」
またしても急に呼ばれて俺はびっくりした。どうも考え込んでいると周囲の景色が見えていないらしい。俺は声のするほうを見てもう一度びっくりした。
「なんだ、儂らに全然気づいておらなんだな。」
「ふふふ、お亀に怒られてふて腐れておったようですよ。」
いつの間にか、信長様と裏ボス様が座ってこちらを見ておられた。
「あ。あい?」
俺は信長様の顔を見て泣きそうな仕草をした。
「ほらほら、介様のお顔が怖いそうですよ。」
「ふん、いい加減見慣れろ。」
いや、無理。実際に怖いし。
「もう、泣きそうになっております。」
御方様はそういうと俺を抱き上げようとした。だが、途中で柱に括りつけられた紐がピンと張って中途半端な位置で止まった。御方様は予想外の力に転びそうになった。
「ぶわっははっは!!」
信長様が御方様のお姿が滑稽だったのか、大声で笑われた。その様子を見て御方様は少し不機嫌な顔をされた。
「無吉…なんで繋がれているのです?」
御方様が顔を近づけて俺に詰問するが、「あうあう」と適当に応えて見た。すると、フンと鼻を鳴らし俺を置いて信長様の側に戻って行ってしまった。
「おいおい、そのままで良いのか?」
「よいはずです。お亀が勝手に動き回る無吉を懲らしめているのでしょう。」
「なるほど。こ奴、奇妙以上に悪餓鬼なのかも知れぬな。」
信長様は、ひとしきり笑うとごろりと横になり、御方様の膝を枕にされた。…いちゃいちゃモードが始まる。できればこの場から離れたいんだけど。
「…そういえば、奇妙は?」
「お類殿と虫取りに出かけられました。」
「あ奴はお類に懐いておるな。」
「当然にございます、お類殿が愛情を注いでおるのですから。」
「…良いのか?」
「…。」
「奇妙を生んだのも、名を付けたのも…お前ではないか?」
なんですと?
「…だって、生まれた時は猿みたいに皺くちゃで…本当に奇妙に思えたのです。…とても育てる気には…。」
な、なに?どゆこと?
「…。」
信長様は、頭を御台様の膝に置かれたままじっと御台様のお顔を見つめていた。御台様は信長様と目を合わせる事をせず、つーんとしておられた。
そして俺は動転していた。
全く持って理解が追いついていない。桶狭間についてあれこれ考えていたのに、思わぬところからのカミングアウト。
俺の知っている限りでは、奇妙丸様、後の信忠様は吉乃様の御子。それで吉乃様は御台様とも呼ばれていた。だけど事実は、お濃の方様…正妻の御子…。どゆこと?どゆこと?
俺は、詳しく話を聞こうとヨチヨチとお二人のほうに向かったが、途中で麻紐に遮られた。
「無吉がこっちに来たがってるぞ。」
そうです!そっちに行かせてください。
「…ダメです。無吉は今罰を受けておるのです。」
「構わぬではないか。」
信長様は俺に手を伸ばそうとされた。だが、御方様がぴしゃりとその手を叩かれた。
「介様はお身内に甘うございます。」
「…無吉は身内ではなかろう?」
「いいえ。介様は無吉を身内と思うておられます。なればこそ厳しく接することが必要です。」
「…。」
信長様は不満げな表情をしていた。
「…もしや、鷲津砦の大叔父様を助ける手立てがないか模索しておられるのですか?」
「い、いやそんなことは無い!」
信長様が慌てられた。
「ならばよいのです。…時には非情に徹せねばならぬことを…介様は、信勝様の時によおく身に染みているはずにございます。」
「…わかっておる。」
信長様は胡坐を掻くとガリガリと頭を掻いた。なんか俺を出汁に違う話で御台様がプリプリされている。
信長様の御実弟である信勝様は兄によって誅されている。二度の謀反を理由にはしているが、実際の理由は違う。当時はまだ信長様が弾正忠家を継いで間もない頃で、信長様を当主とは認められない国人(特に土田家)が信勝様を担ぎ上げたのだ。人は神輿があれば何度でも担ぎ上げる。信長様は国人たちが担ぎ上げる神輿を奪うために信勝を誅したというのが事実だ。お濃の方様はこの時一度信勝様をお許しになられていることを言っているのだろう。
そして俺の勘が働いた。
……この夫婦は何かを共有されている。
父、桃巌様は子だくさんの武将として知られ、信長様の兄弟は多い。しかし、戦国の覇者にのし上がるまでに多くの親族を失っている。桶狭間の戦いにおいても、一族の長老格である織田秀敏様が討死されている。…だが、先ほどの会話を聞く限り、秀敏様の死は想定内とも言わんばかりの内容……。これは何かある。
「介様、全てを手に入れることはできません。より高みを望むがゆえに…切り捨てねばならぬモノもございます。…お苦しいことは重々承知しております。ならば、共に死ぬるまで妾もその苦しみを側で味わい続けます。」
御方様は信長様の手をそっと握られた。信長様は握られた御方様の手をじっと見つめられた。
信長様は、何も言わずただじっとその手を見つめておられた。
やがて、虫取りから帰って来た奇妙丸様と吉乃様が俺の姿を見て大笑いをして。
館は再び俺を出汁にした会話で花が咲いた。
皆がわいわいと騒ぐ中、俺はもう一度考えに耽った。…やはり、鳴海城を囲う砦は、駿河より今川治部を呼び出すための餌なのだと思う。そして、のこのことやって来た今川を絶好のタイミングで迎撃し、当主を討ち取ろうというおつもりなのだ。
何の為に?……決まっている。尾張で織田家として生き残るためだ。
織田大和守家、織田伊勢守家を討ち滅ぼし、尾張統一目前の信長様が美濃に手を伸ばすためには、東海地方をどうにかする必要があった。おそらく最も効果的なのは甲斐武田、駿河今川、相模北條で三つ巴で争ってもらうことだが、三国で同盟が締結されている今では難しい。そこで、戦で当主を打倒して弱体化を招くように仕掛けたのではなかろうか。
そう思えば、いろんな事が偶然やら奇跡ではなく、必然の結果に思えてくる。
…まあ、何を考えても今のこの俺では何もできず、唯見ているだけなのだが。
信忠の母親は生駒吉乃であるのが一般的です。
ですが、本物語ではとある理由で帰蝶の息子で、そのことを隠している設定とさせて頂きました。