2.伊藤盛清を追う
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1570年11月-
甲賀郡に潜伏していた六角承禎が再び近江の長光寺城に襲い掛かった。
宇佐山城の対応に追われていた古渡様は、この攻撃への対応に後れを取り、長光寺に立て籠もる柴田隊三千が孤立した。しかし、遊軍として編成されていた丹羽様の二千の救援で落城は免れ、戦線がこう着した。
比叡山と長光寺で膠着状態に陥った織田家は、事態の打開のため、古渡様の提案に基づき“和議”を執り行った。
まず、将軍足利様を経由して六角家に講和を打診する。同時に公家衆に対しても依頼し、朝廷の仲介と言う形式で延暦寺との和議を申し出た。
この“和議”は立場によって当時様々な捉え方がされた。
浅井、朝倉としては、朝廷の御意向に沿い織田家との争いに面目がたったと考え大いに沸き立った。
延暦寺は朝廷に貸しを作ることに成功し、更に足利家と誼を結ぶことにも繋がり宗門としての権威を高めようと画策し出した。
六角も将軍家に譲歩させたとして、再び近江を支配しようと活発に活動し始めた。
何よりも足利義昭が「自分の威光」でもって争いを終結させたと勘違いして捉えたところが大きい。
織田家としては、敗戦とも捉えられる場合もあるが、幕府への朝廷への忠義を改めて示したとも見られ、または朝廷をも自在に操る大大名とも捉えられることになった。
人によって立場によって捉え方は様々であったが、この“和議”は織田家に雌伏の時間を与えたことには違いない。
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和議の成立により、比叡山から浅井、朝倉軍が撤退した。銀閣寺に詰めていた織田軍も解散し、各々の居城へと戻って行った。古渡様は、佐久間様、帯刀様、森可隆様、そして明智様を呼び寄せ、今後について話を行った。因みに俺は護衛役と言うことで、祖父江孫十郎と部屋の隅で待機している。明智様は面頬姿が直ぐに俺であることに気付いたが、佐久間様は全く気付いていない。
「近隣の隊と連携を取るのは難しいのぉ。」
佐久間様は戦闘に参加できなかったことを言い訳するような発言をし、古渡様に白い目を向けられた。
「ふ、古渡様、次は必ず私めが先陣を務めます!」
慌てるように早口で言葉を続けるが、今度は帯刀様の眉が上がった。
「よい。次は知らせを受けたらすぐに出立せよ。兵を整えるのは後だ。」
「はは!」
佐久間様の遅延は一旦終了したが、燃えた宇佐山城の代りに若狭路を抑える拠点を早急に用意するのが今の課題と話を続けた。そして無言で俺を見る。俺はそれを合図に例の地図を広げた。すると帯刀様がその地図を見ながら提案した。
「宇佐山の改築とその手前の皇子山の築城を同時に行えませぬか?」
帯刀様は地図に描かれた宇佐山のやや南を指した。宇佐山城の眼下には曾て大津京という街が広がっていた平らな土地。ここを抑えるには大津京の平地を見渡せる場所でないと意味がない。俺は山がどの程度高さあるのかわかってないが、大津京の西南にある皇子山へ築城するならば防衛には有効だと思った。そして同時に宇佐山の改築も進めて、築城をカモフラージュする。金は掛かるが効果はあると思う。全員が考え込んだ。暫く唸る声が続く。
「仕方がない。金は掛かるが、今はそれしか手がない。」
こうして、近江に新しい城が建てられることとなった。城と言っても、急ごしらえの砦に近いモノになる予定で、負傷した森三左衛門様に変わり、子の森傅兵衛様が普請奉行として指名された。焼け落ちた宇佐山は帯刀様が担当される。織田信治様の隊は帯刀様が引き継がれ、兵力は四千となった。だが延暦寺に最も近い最前線。…ああそうだった。野田、福島に詰めている細川様、和田様に比べるとまだ安全か。あそこは陸続きになっていない分、逃げ場が少ない。やはり、次の守勢戦場はそこだな。
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1571年1月-
私はこの年初めて正月を尾張以外で迎えた。
山科屋敷が完成し、新しい木の香り漂う住まいで茜と二人きりの正月を考えていたが、私の周囲にはそれを許してくれるような気の利いた者がいなかったことは今でも覚えている。
だが、戦場で共に戦った者とは、厚き情が後々までもが残るものだ。
私は思う。
共に苦難を乗り越えてきた者たちから裏切られることの苦しみ、悲しみ、怒り…信長様は以降、数多くの裏切りに遭うことになり、その度に、苦しみ、悲しみ、怒りを溜めこまれてきたことであろう。
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「九郎様、殿がお呼びで御座います。」
元旦の目出度い日くらい、茜と二人きりで過ごしたかったが、朝一で古渡様に呼ばれた。祖父江孫十郎が呼びに来た。ご機嫌ナナメな表情で古渡様の部屋に行くと、俺以上にご機嫌ナナメな顔の義父が座られており、隣には所司代を務められている村井吉兵衛様が居られる。…何かあったようだと姿勢を正して二人の前に座った。俺の着座を確認して、古渡様が口を開いた。
「盛清の居場所がわかったぞ。」
「直ぐに行きましょう。」
俺は、場所も聞かずに立ち上がったが、隣に座っていた帯刀様に引き戻された。
「九郎!話を全て聞いてからにしろ!」
「…。」
俺はふて腐れたように座り直した。その様子を見て吉兵衛様が大笑いされた。
「帯刀殿の言う通りじゃな。よほど恨みがあると見える。」
…当たり前だ。家を潰されたんだ。
「いいから話を続けるぞ。居場所はわかったが場所が問題だ。京の米問屋、伊藤道光の店で働いておる。あそこは、将軍も、公家衆らも贔屓にしている店だ。下手に手を出して、諸将から反感を買われると、織田家の面子の問題になる。」
俺は拳を握り締めた。
「…無吉。」
「………。」
「言い直さないのか?」
「…全軍で夜討ちを掛けましょう。奴の肉片一片たりとも残すに能わず。…夜討ちで米問屋を焼き、逃げ出てきたところを千の鉄砲で一斉に…「もういい。」」
俺は帯刀様の手で口を封じられてしまった。もごもごと言うことはできるが喋ることができなくなった。後ろから孫十郎が「ご免」と言いながら両腕を縛り上げた。古渡様はため息を付かれた。
「こ奴がここまで執着するとは…。やはりこ奴に言うべきでなかったか。」
「しかし、いずれ知られることになるでしょう。ならば先に知らせておいて、封じてしまった方がよいと思います。」
古渡様の言葉に帯刀様が応じた。そして俺の頬を強く抓った。
「残念ながら…牢屋に放り込むべきですね。」
こうして、俺は年明けから牢屋に入れられた。人生三度目の牢屋である。
俺は大太刀を取り上げられ、牢に入れられた。牢の外には茜が座って俺を見つめている。…笑っているが怒っている。
「旦那様。どうしてそう簡単に我を忘れるのでございますか?」
丁寧な口調だが、明らかに怒っている…のがわかる。
「旦那様は牢の中がお好きなようですね。これからはここで私が面倒を見させて頂きます。旦那様は暫く反省をなさいませ。」
茜の後ろで孫十郎がくすくす笑っていた。あの野郎は後で絶対殴ってやる。
古渡様が米問屋を呼び出し、盛清について問い合わせたところ、昨日いなくなったことがわかった。どうやら気付かれたようで、逃げ出したあとであった。取られたモノがないか確認するよう指示すると、やっぱりというか金目のものがそこそこなくなっていることも分かった。さらに百石ほどの米も行方不明になっていた。
「だから直ぐに行きましょうとわた「バチン!」あぎゃっ!」
報告に来られた帯刀様につっかかろうとして私は茜に竹竿で顔を叩かれた。帯刀様は苦笑しておられる。…茜さん、それ、本当に痛いですよ。
米問屋の奉公衆に話を聞いて先日から米俵を摘んだ船が何度か桂川を下っていることがわかった。話を聞いた帯刀様は顔をしかめた。前線に兵糧を送る場合は、安全を期すために枚方経由で送ることになっている。直接川で運ぶ指示は誰も出していない。帯刀様と伊藤様は俺と孫十郎を伴って鴨川から桂川、淀川を下る道を通って大坂に向かった。(結局大人しくすることを約束させられて牢から出してもらえた)最前線の海老江砦にいる和田様と話をすると、河から船での兵糧は届いていないということであった。伊藤様は顔を青ざめられた。問屋として管理不行き届きだけでなく、敵の陣に運び込まれた可能性すらある。帯刀様はすぐにこの事について箝口令を敷き、更なる調査を進めた。伊藤道光様は全てを帯刀様に委ねることになる。
米の行先は野田城であった。敵城である。そこに伊藤盛清も逃げ込んだ可能性がある。伊藤道光様は平伏して古渡様に謝罪をされた。古渡様もこの件については不問とし、今後織田家に尽くすよう懇ろに労った。
…皮肉にも伊藤盛清のお蔭で、米問屋が織田家の支配下に置かれることになった。だからと言って織田家への裏切り行為が許される訳ではない。古渡様は阿波三好への締め付けを強めるべく、細川様に丹波の国人衆を千五百増援に寄こした。
史実では、野田・福島城は先の和議に基づき三好軍が撤兵している。だがこの世界では、和議の対象に三好は入っていない。将軍様が三好との和議は拒否したそうだ。お蔭で、この地域はまだ小競り合いが続いている状態なのだが、問題は、何故将軍様は三好との和議を拒否したのかだ。和議は本願寺とは成っていない。本願寺の後ろ盾で兵を出している三好軍も和議で動きを止められては拙いからだろうか。
だめだ、何せ事態を動かす将軍様は思いつきに近い状態であちこちの大名に反織田の挙兵を促すから、どこがどう繋がっているのか全くわからない。
ひらめいた。……気がする。
将軍様の書状を追うからわからなくなるのだ。これを物資を追って繋がりを調べるのはどうだろうか。先の盛清が横領した米を追いかけるのは無理だ。ならば、こちらからわざと横領物資を流して見るのはどうだろうか?
俺は帯刀様に相談し、帯刀様は古渡様に相談された。
古渡様は俺の案を了承された。物資を幕府軍の蔵から横領して、三好軍、河内の一向門徒、摂津の一向門徒に横流しをする作戦が立てられた。
そして、この作戦を遂行する為に、美濃から商人衆が呼ばれた。
土田生駒甚助親正様率いる“土田衆”である。
伊藤道光:京の米問屋として、三条に屋敷を持っていたそうです。かなりの豪商で立派な屋敷を保有しており、豊臣秀吉が入洛する場合の宿にされていたそうです。




