1.宇佐山落城
第三部の始まりです。
主人公は、津田九郎忠広と名を変え、古渡三郎五郎様の近習となります。
そして、織田大城郭図を支えるための奮闘が始まります。
1570年11月。
京の総奉行を解任された古渡織田信広様は、山科に居館を移すことになった。そこは曾て「山科本願寺」があった場所で、土塁などがしっかりと残っており、立派な御殿を建てれば、織田軍の総代としての機能を十分に果たせる場所であった。今は法華衆が寺院を建てようとしていたところを差し押さえ、信広様の御殿を建築中である。今は仮の宿舎で軍務の取り仕切りと、政務の引継ぎを行っていた。
古渡様に代わって京の政務を任されたのは、塙九郎左衛門直政様と、村井吉兵衛貞勝様、松井友閑様だ。そして二条邸の護衛役として、織田源五郎長益様が赴任された。
源五郎様は信長様の弟君で後の有楽斎だ。利休十哲の一人にも数えられるお方になるのだが、この頃は勢いのある若武者という雰囲気で、長兄にあたる古渡様に頻りに将軍様の為人について尋ねられていた。
古渡様の配下も大きく変化した。総代としての指示を迅速に各隊に伝えるために、旗下の腹心が仮の居館に詰めていた。この為、人数が一気に増え、仮とはいえ宿舎の規模は、前より大きく数も倍以上に増えていた。連日古渡様の下に人の波が押し寄せ、古渡様は食事をする暇も無いほどである。
俺も居館の敷地内に屋敷をあてがわれた。
そこに、姫改め、茜と暮らし始めている。…と言っても、11歳と10歳の若過ぎる夫婦。睦言など俺の中の倫理観が邪魔して出来る訳もなく、精神的にも肉体的にもモンモンとして過ごしている。
俺は、“津田九郎忠広”と名を改め、古渡様に仕えることとなった。
「…簡単な仕事だ。儂の後ろで大太刀を背負って控えているだけでいい。」
古渡様からそう聞かされて登城したのだが、ばれると拙いと言われて面頬を付けさせられ、筆と紙を渡され、記録係にさせられた。
古渡様と面会に来られた方々は、俺の背丈に驚かれ、面頬に驚かれ、背中の大太刀に驚かれ、そんな奴が、せっせと議事取ってる姿に呆気にとられ、一種の見世物にされているような気分だった。
だが、お蔭で情報だけは最先端で収集できている。恐らく古渡様の目的は俺に話を聞かせて、情報収集させることだろうと思う。俺は未来の知識のお蔭もあって広い視野で状況の把握と献策ができるため、重宝はされている。ただ正体がばれると色々と面倒なので、面頬を付けて筆を走らせているものだから、“鬼武者の右筆”なんて言われていた。
今日も一日が始まった。俺は祖父江孫十郎と一緒に登城し執務室に向かう。面頬を付け大太刀を立て掛け部屋の隅に置かれた座布団に座り、客と主を待つ。そしてまず、客が来る。今日は大物だ。細川兵部大輔藤孝様。明智様と共に幕臣として働きながら、信長様の指示にも従われている御方。…顔の表情からして恐らく厄介事を抱えてここに来られたようだ。…さっきから俺をチラチラ見ているが…ああそうか、細川様は俺のことを知らないか。幕臣の方で俺を知っているのは明智様と和田様だけだったか。だったらこの面頬は要らないじゃないかと思うが、取ったら取ったで色々言われ…
「やあやあ、お待たせ致した、兵部大輔殿。」
…古渡様が来られた。今日は機嫌が良い。おお、上座に座られるのかと思いきや、細川様の横に座られた。なるほど、気を遣う相手として見られていると言うことか。俺は筆に墨を含ませて準備する。
「お忙しいところ忝い。ここのところ将軍様のご機嫌がすこぶる悪くて、出かけることもままならず。」
悪くて当然だ。信長様から兵を取り上げられ、引き篭もらされてるのだからな。
「して…御用とは…将軍様の事に御座るか?」
古渡様は判ってて聞いてるな。会話の中で主導権を取ろうとされてるわ。
「如何にも。弾正忠殿の書状を引き裂いてお怒りになり、またもや勝手に諸大名への書状を書き始めました。」
将軍は信長の承認なく手紙を書いてはならない。将軍様はまたその約定を違えておられる。
「当方は書状を受け取った相手の動向を見守るだけでよいと考えます。」
「…それは?」
「将軍様の書状に応じる動きを見せるのであれば、圧を掛ければ良し。無視するようであれば、誼を通じるが良し。我らの外交方針が明確になるのです。」
「ふむ…。」
細川様が考え込まれた。
「兵部大輔殿の方で、手紙の相手と内容さえ確認頂ければ特に問題なく、好きなようにさせ給うことで進められませ。」
古渡様の言葉に細川様の表情が変わった。先程の不安を滲み出すような雰囲気は感じられない。…納得されたということか。
「あいわかった。ではそこそこお諫めしつつも、内容を確認し、貴殿にお知らせすると言うことに致そう。」
細川様は丁寧な礼を述べられると、俺を意識しつつ出て行かれた。俺は後追いで今の会話を書き記して筆を置く。
「…細川様もお義父上を頼りにされているご様子ですね。」
「…幕臣として官位を持っていても有名無実。力を持つ我らに取り入り、自らの権威を守っているにすぎぬ。…だが、明智殿とは一線を画すがな。あの者は、実力で周囲を動かし、力も持っている。」
「細川様も将軍様への御忠義はほとんど無いように御座りますね。」
「…どうであろうか。いざと言う時に足利に付く可能性もある。注意は必要だ。…それよりも将軍様は今の織田家の方針には気付いているのか?」
俺に質問がきた。これは、これまでの情報を整理せよという合図でもある。
「恐らく気付いておりませぬ。…気付くこともないかと思われます。」
「理由は?」
「はい、将軍様はご自身が将軍であることを頼っておられます。故に自身の命に従う者を尊び、従わぬ者を逆臣と単純に切り分けておられます。」
「ふむ。」
「手紙を書かれるのは、従う者からの忠義を受けることを目的としております故、各々の内容に関連性は少なく、また一貫性も御座いません。」
「…だが逆にそれが我らにとって厄介だ。」
俺は古渡様の言葉に相槌を打った。
「はい。それ故、先が読めず、各勢力の連携もバラバラ、いつ来るかわからず、常に守勢を強いられる。そして我らが守勢を強いられれば強いられるほど、将軍様がお喜びになられる。…最終的に我らが取る道は…。」
「…和議か。」
古渡様が得心したようで膝を叩いた。
「将軍様の目的は、我らの和議を仲介すること。」
「ふむ、途中の経緯や、我らの動向などどうでもよく、自分に泣きついてくるよう諸将を戦に仕向けているのか。」
俺は頭を下げた。
「はい。そしてその思惑に乗っかっているのが…」
「武田でしょう。恐らくこれを機に領土を増やそうと西と南に進軍すると思われます。」
「西か…東美濃は遠山殿に任せていたな。」
「何か手を打ちますか?」
「うむ。まずは寝返らぬようにする必要があるな。三郎に相談する。徳川にも知らせておくか。」
古渡様は若い家臣を呼びつけ、指示を出す。…気になる。古渡様は今、徳川様を「殿」を付けずに呼ばれた。織田家と同盟を結んでいるので、格は信長様と同じ。古渡様から見れば、「様」もしくは「殿」と呼ぶべき相手。気になるぞ。これは単なる同盟ではない気がする。そう言えば昔、銭の話があったな。毎月徳川家臣が銭の無心に来るとか来ないとか…。
「御注進!!、淡海の北で煙が見えます!」
考え事をしている所へ古渡様のご家臣が慌ててやって来た。俺はすぐさま立ち上がり、屋敷の壁をよじ登り、屋根伝いに高い所へ登った。薄っすらと北の方角に黒い靄が見える。…良く見つけたな。
「殿!宇佐山の方角に御座ります!」
人の前では古渡様のことは「殿」と呼ぶ。俺は当たりをつけて報告した。
「九郎!支度せえい!」
古渡様は走り出し、俺もそれに続いた。甲冑は一人では着れない。古渡様も奥の間に向かい、俺もあてがわれた部屋へと走る。既に茜が用意しており、さっと着込む。…まあ、俺のはそんないいものではないので、割と簡単なんだが。着換え終わると茜の頭を一撫でして、大太刀と長槍を持って外に出た。流石に古渡様はまだ用意は整っていないようで、俺は外で待っていた孫十郎が用意した馬に跨り、北へと走らせた。
9月に半兵衛様が坂本で押し返した浅井朝倉勢だが、11月に入って再び襲ってきた。収穫が終わったので、兵を十分に集めての進軍だったようだが、前回より少ない。これは、琵琶湖東岸の横山からの“守勢の圧力”のお蔭もあるようで、全軍を出陣させている訳ではなさそうだった。
宇佐山城を守る森隊は二千。更に織田信治隊一千と青地茂綱隊一千が、増援として、宇佐山に駐留しておられたが、三隊とも籠城してしまい、宇佐山城は三万の兵に囲まれた。
俺が作った織田大城郭図に基づき、永原城の佐久間隊、瀬田城の山岡景隆隊、そして山科の織田信正隊が救援に向かった。
だが何と言うことか…救援は間に合わなかったのだ。浅井軍は朝倉と比叡山の協力を得て、一気に城攻めを行い、曲輪を突破した。籠城していた織田兵は別の曲輪から強行脱出を行い、千もの死者を出して南に逃げた。
この脱出戦で、織田九郎信治様が討死され、森三左衛門可成様、傅兵衛可隆様も大怪我をされた。曲輪を破壊され、山頂の主郭が燃え上がる宇佐山城。織田家の重要拠点がいきなり壊され、俺は呆然とした。
「九郎!何をしてる!この程度で貴様の策に綻びなど生じさせてはならぬ!敵を巻くのだ!」
帯刀様が俺を叱咤した。俺は慌てて気持ちを切り替え馬に跨った。
宇佐山城を襲った浅井軍を、織田信正隊三千、山岡景隆隊五百で追いかけた。数では劣勢だったが、城に入りきらない程の数を連れてきた浅井朝倉延暦寺の兵は、織田軍の突撃を構える場所も避ける場所も無くまともに喰らって混乱した。燃え盛る城に逃げ込むもの、押し寄せる自軍の兵を掻き分けて外に逃げようとする者が入り乱れ、半ば自滅するように落とした宇佐山城を捨てて逃げ出した。
俺は帯刀様について、敵を追いかけた。だが、帯刀様が全軍停止の指令を出した。
「彼奴らは比叡山へと逃げ込んだ!これ以上の進軍は危険である!我らは一旦銀閣寺に陣を移す!山岡殿は、宇佐山の南に布陣し、残党が無意味に南下して来るのを防げ!」
帯刀様の指示は全軍に届けられ、瞬時に行動が切り替わった。俺は帯刀様と銀閣寺へ向かい、その途中で古渡様と合流した。後方から、佐久間隊五千の姿も見えた。合計すると一万を超える兵になったが…。
それでも比叡山を攻撃するのは危険であった。
比叡山は山全体が境内となる要塞のような山で、中には一万とも五万ともいう天台宗門徒がいると言われている。そう容易く本堂に辿り着けるものではなく、巻くにも巨大すぎて一万の兵でも無理であった。
「…厄介な場所に逃げ込みやがった。誰か使者として天台座主と交渉できればいいが…さすがにこの状況では行っても無駄か。」
古渡様は歯ぎしりをして悔しそうにした。親族の死に気持ちが高ぶっておられるようで、顔も紅潮している。
「殿……。」
俺は面頬を被った顔で、古渡様に近付いた。古渡様は俺を一瞥してため息をつく。俺が近付いた意図を理解し、大きく深呼吸を繰り返していた。
「頭に血が上っていたようだな。ここは一旦和議を結び沈静化を図るのが得策か?」
「はい。」
「だが、将軍がしゃしゃり出てくるぞ。」
「恐らく。…ならば我等も将軍様の思惑に乗っかり、精々喜ばせてはいかがでしょうか。」
古渡様も、傍で聞いていた帯刀様も目を細めた。
「…狙いは何だ?」
「恐らく、将軍様は互いに相容れぬ宗派を使いこなすことはできません。和議を結ぶことで、足利家と比叡山が接近することになります。しかし、足利様は本願寺とも手を結んでおります。」
「なるほど、強欲な坊主共は互いに有利になるよう将軍に働きかけるようになるか。…いいだろう。恥をかくだけの効果はある。大殿の裁可次第だが貴様の策を採用じゃ。」
古渡様は、この場を帯刀様と佐久間様に任せ、美濃に向かわれた。
史実とは流れが違うが、織田家は一度幕府の仲裁を受ける。周囲には織田包囲網に屈したと思われるであろうが、それは一時の恥。我らは耐えることが目的なのだ。
何時まで?
足利家には権威以外何もない事を知らしめるまで。
そして、その権威すら朝廷ほどの輝きが無いことをわからせるまで。
まだ包囲網は始まったばかりなのだ。
織田信治:織田信秀の五男と言われています。
史実では、坂本での攻防戦で討死しております。森可成、青地茂綱も命を落としています。
青地茂綱:蒲生定秀の次男で近江青地城の城主です。
山岡景隆:近江瀬田城の城主です。




