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17.蜂起



 大坂本願寺。


 上町(うえまち)台地の北端に位置し、淀川や大和川などの大きな川や小さな川が幾つも合流して海に流れ出る地点に作られた寺内町である。幾つもの川によって島のように分断された地形が広がり、古くから津として栄えた街と街道でも繋がっている河内最大の難攻不落の街となっている。本殿のある島へは東と南にある橋からしか入れず、堀は深い。島の周囲は櫓付きの塀あるいは土塁で覆われており、城と表現しても良いくらいだ。

 そして門の前には長い棍を持つ僧兵が立っており、先ほどから俺を睨んでいる。…そりゃそうだな。俺は古渡様より頂戴した僧衣を砂で洗ってボロボロにし、背中に大太刀をひっさげ、笠をかぶって橋の前に立っているんだ。怪しさ満載であろう。俺もそれなりに覚悟を持ってここに立ってんだ。…さあ行くか。


 俺は東門に向かい足を進めた。案の定、僧兵は棍を突き出して俺を止めた。周囲の人たちが驚き、慌てて橋を引き返して、橋を行き交う人の波が途切れた。


「止まれ!……お主、何用でここに参った?」


 僧兵の1人が俺に詰問した。俺は笠を取って一礼した。


「お騒がせしまして申し訳ございません。私は尾張で修業をしておりました“忠信(ちゅうしん)”という者です。…事情により尾張を追放され行く宛もなく旅しておりましたが、本願寺の街が活気づいているとの噂を耳にしまして、何か職にありつけないものかと参った次第に御座います。」


 言い終えると俺はもう一度丁寧に頭を下げた。僧兵は対応に困った顔をしている。俺をどう扱ってよいかわからず、上位の者に確認しに行ったようだ。その間俺は僧兵に棍を突き付けられた状態で門の前で立たされたままとなった。


「…あの、これでは他の方々への邪魔になりまする。このまま端へ移動されてはいかがでしょうか。」


 俺の提案に数人の僧兵は顔を見合わせ、周囲を確認して肯きあうと俺を橋の端に寄せた。橋が通れるようになると、人々が恐る恐る渡って出入りするようになった。俺は端に立って行き交う方々にお辞儀をする。俺の丁寧な態度に周囲の僧兵たちはだんだんと緊張感を解いていった。

 そうしている内に確認しに行った僧兵が立派な僧衣を着た僧侶を連れてきた。僧侶は俺を見ると一瞬吃驚したような表情をするが直ぐに改め、俺の前に立つと丁寧に挨拶をした。


「怪僧がやって来たと報告を受けて来てみれば…確かに身なりは怪僧と呼ぶにふさわしいが、幼さが残る顔からすると若い修行僧ではないか…。そなた、名をなんと申す?」


 丁寧な口調だが、俺を値踏みするような視線で観察しつつ詰問してきた。


「はい、尾張の片田舎で曹洞宗の教えを受けておりました“忠信(ちゅうしん)”と申します。寺が尾張の殿様によって潰され、行く宛もなく旅しておりました。最近本願寺の街が活気づいていると聞き、宗派は違えど何か職にありつけるのではないかと参った次第に御座います。」


 丁寧な対応に驚きつつ、僧侶は俺を観察した。そして背中の大太刀に目を止める。


「…その背の物は…なんじゃ?」


 俺は、怪しまれないよう、怯えさせないようゆっくりと体を動かし、背の荷物を降ろして近くの僧兵に渡した。僧兵は大太刀を鞘ごと受け取って、重さに耐えきれずよろめいて倒れてしまった。慌てて他の僧兵が助け起こし、大太刀も持ち上げたが、やはりその重さに驚いている。


「こ、これはなんじゃ!?」


 僧侶が慌てた口調で問いかけた。俺は想定通りの質問にあらかじめ用意しておいた回答で応える。


「奪いました。…ですが抜き方がわかりませぬ。」


 大太刀は、接ぎ木を外さない限り鞘から抜けない仕組みになっている。俺は接ぎ木の場所に布を巻き見つからないようにしているので、今は何があっても抜けることはない。現に大太刀の鞘と柄を持って両手で引っ張っている僧兵がいるが、顔が茹で蛸のように赤くしているだけで全く抜けない。とうとう諦めてしまった。


「それは私の戦利品に御座います。できますれば、お返しいただけると…。」


 俺の言葉に僧兵たちはどうしていいかわからず、渋面の僧侶が小さく肯き、ようやく返却してもらった。


「で、行く宛もなく、雇って欲しいとは?」


 話を元に戻したところで、俺の腹がいいタイミングで鳴った。朝から何も食べてないのが功を奏した。


「…ははは、このように食う物にも困っておりますので…。」


 僧侶はもう一度俺を舐め回すように見て「付いてきなさい。」と言うと踵を返した。俺はにこっと微笑み、僧兵たちに丁寧に頭を下げて僧侶について行った。…最初の関門突破だ。




 僧侶は下間氏三官の1つ宮内卿家の坊官で下間頼芸と名乗った。…やばい。お偉いさんだとは思うが、俺の知識にはない。そもそも下間家の人間は「頼~」が多すぎて覚えられんし。とにかく今は大人しく従いここの内情を把握することに注力しよう。





 ~~~~~~~~~~~~~~


 1570年5月19日-


 私は単身で大坂本願寺に潜入した。史実通りに事が進めば、9月には一斉に蜂起するはずの大集団。私はそれを全てでないにしろ、部分的に蜂起を止めることはできないか、できないまでも内情を調べ織田家に知らせることはできないかと潜入した。


 中に入ってその実情を知り、私は愕然とする。


 曾て信長様は本願寺に矢銭五千貫を要求し、本願寺はこれに応えた。信長様は本願寺の経済力や公家衆、周辺諸国との結びつきの強さを警戒すると同時に利用する手立てを探しておられた。本願寺も信長様の権力を警戒しつつも、縁を結ぶ模索をしていた。

 だが信長様が本願寺の本拠を明け渡すよう要求したことから情勢は一変する。

 曾て山科に本拠を構えていた本願寺は法華宗の門徒により焼き討ちにあっている。本願寺は門徒を増やしその勢力を拡大する度に周辺諸国や他の宗派により叩かれ本拠を移動してきた。当時の法主(ほっす)顕如はまたも本拠を移さねばならぬ事態に腹を立て共生よりも対立を選択した。

 私が潜入した5月には既に蜂起に向けた準備が進められており、堺の商人との密約を交わして、武具兵糧の搬入がなされており、信長様との直接対決は避けられぬ状況であった。


 当時、私は対決する規模をなんとか小さくできないものかとあちこち歩き回ったことを記憶している。


 …そして、後に長島に派遣される坊官、下間頼旦(しもづまらいたん)に接触することに成功した。


 私は今でもあの日のことは忘れない。


 初めて人を斬った日。


 その苦しみを後世のために書き記そう。


 ~~~~~~~~~~~~~~





 俺は、本願寺内部の武闘派集団に放り込まれた。当時の武闘派は刑部卿(ぎょうぶきょう)家、下間頼廉と丹後守家、下間頼隆(らいりゅう)で、俺は頼隆様の配下の下間頼旦様の副官に任命されて御坊の警護にあたった。

 本願寺の坊官は門徒に対して優しかった。俺の記憶では本願寺の坊主共は門徒をごみのように扱い、肉の壁として織田家に抵抗したと思っていたのだが、少なくとも現時点ではそのようなことはない。貧しい農民に手を差し伸べ、職を与え、食を与え、色も与えていた。追い詰められどうしようもなくなって豹変するのかもしれないが、この時点では御坊に集まる門徒を全て受け入れ、飢えさせぬようにさせている。


「どうした、忠信?」


 頼旦様に声を掛けられ慌てて首をふる。


「申し訳ありませぬ、考え事をしておりました。」


 頼旦様は俺に突っ込んで訪ねてきた。


「…私は曹洞宗の教えを学んできました。…しかしその教えは果たして正しいのかと疑問に思っております。何故仏教は権力者に取り入り、媚を売り、政に口を出し、手を出し、争いを起こすのかと。」


 全ての仏教が争いを起こしている訳ではない、しかし寺を城塞化し、独自の武力を持ち、周辺諸国をいざこざを起こすのは何故だと考える。


「…知れたこと。教義と信徒を守るためじゃ。」


 単純明快。もう少し深く考えてもいいんじゃないと思うが、武闘派にそれを望むのは無理か。俺は大人しく頼旦様について行った。やがて、頼旦様に法主様からの辞令が言い渡される。


「兵を率いて、長島願證寺に入り証意に蜂起を促せ。周辺の門徒を集め、織田信長に対して敵意を植え付けよ。」


 敵意剥き出しの命令。頼旦様の家臣一同を集めて法主様自らのお言葉で命じるとは余程のことである。その顔も頼旦様を通じて遠くにおわす信長様に向けられていることがよくわかる。頼旦様は直接法主様から命を受けたことに感激し、畏まって答えた。


「必ずや信長めの首を取ってご覧にいれます。」


 …法主様はそんな命令してないけどな。これだから武闘派は困るんだ。



 俺達は出陣の準備を行う。頼旦様の指揮下には五百名ほどがおり、兵糧を長島に送る部隊として長島に向けて出発した。長島へは、大和~伊賀~伊勢というルートと定め、五千石の兵糧が二十の荷車に積み込まれ街道を進む。荷車には本願寺の旗が立てられており、これを襲ったり、呼び止めたりするような愚か者はこのルート上にはいない。五日かけて長島にある願證寺に到着した。


 長島は長良川と木曽川が海に流れ出る河口付近にある巨大な三角州で、その北端に願證寺がある。周辺には救いを求める民で形成された城郭のような街が広がり、寺と言うより城の装いである。というのも、長島の中央には伊藤一族が支配する長島城があり、応仁の乱以降、たびたび伊藤氏と願證寺は衝突を繰り返していたため、互いが堅牢な城郭となっているそうだ。

 願證寺の創建は1492年、八世蓮如の六男である蓮淳により行われている。現在は願證寺4世の証意が長島だけでなく周辺豪族の門徒もまとめている。信長様が伊勢を平定されたと言われているが、ここだけは治外法権的なかたちで独立国として残っているのが現状である。


 俺達は早速、証意様と面会した。大層立派な僧衣を着ているが、貧相な顔つきで目が虚ろ、頼旦様に怯える様子を見せている。頼旦様はずかずかと証意様の前まで近付くと法主様からの書状を直接手渡し、様子を覗った。…完全に脅している体。証意様は怯えに怯えておられる。


「…法主の申すことはわかった。しかし、我らはこれ以上の争いで罪なき門徒が苦しむのは願證寺の望むところではない。大坂に戻りて法主に…ひぃ!!」


 話の途中で、頼旦様は立ち上がり証意様に迫った。


「証意殿…これは我らが教義を守るための戦…門徒も如来様の御為に本願を信じ念仏と共に織田に立ち向かうべし!…と我は思うが…違わぬか?」


「わ、わ、わかった!一先ずは屋敷を用意した!まずはそこで身体を休められよ!」


 願證寺の主は武闘派の脅しに簡単に屈し、彼らを受け入れた。願證寺の回答に満足した頼旦様はニヤリと笑い、部屋を出て行き、これに屈強な坊官たちがぞろぞろとついて行った。俺も皆について行くが、さり気なく丸めた紙をその場に残して去った。証意様が気付いてくれるとありがたいのだが。





 深夜。


 頼旦様御一行は酒をしこたま飲んでぐっすり眠っていた。坊主が酒をガバガバ飲むのはいいのか?と考えつつ、俺はそっと屋敷を抜け出た。証意様がいると思われる館に忍び込み、様子を覗った。若い小坊主が俺を見つけ、周りを気にしながら俺に近寄ってきた。


「…父上がお待ちしております。こちらへどうぞ。」


 小坊主は証意様の御子だった。俺は手短に挨拶をすると、小坊主の案内で小部屋に通された。中では昼間見た貧相な坊主が待っていた。


 俺は姿勢を正し、下座に座って一礼した。


「初めて御意を得ます。“忠信(ちゅうしん)”と名乗る者に御座います。私の文にお気付き頂きありがとうございます。」


 丁寧な俺の態度に証意様は不審そうな表情で見返して無言であった。…さあここからが本題だ。何とかしてこのお方を武闘派から引き剥がしていかねば。


「実は、法主様より密命を帯び、あの者達と行動を共にしております。法主様はあの者達のような教義にのみ心酔し、民を顧みぬ輩に困り果てておりまする。」


 証意様の表情が変わった。俺は話を続けた。



「下間頼廉様を始めとする刑部卿家は織田家の圧力に不満を抱えておられ、常に開戦を法主様に迫っておられました。法主様も下間家の力には抗しきれず、とうとう挙兵することを決められました。」


 証意様は俺をじっと見つめている。話に興味がおありで、しかも同調されている様子。


「しかし、貧しき門徒を抱えて戦うてもいずれは周辺からの援助も尽きやがて織田家に屈することになるでしょう。法主様はそうなる前に一部を先に織田家に降らせて庇護を求め、本願寺の教義を残したいとお思いに御座る。」


 証意様ははらはらと涙を流された。


「法主様は織田家に庇護を求める役目を証意様に求めておられます。一時は逆賊の誹りを受け破門にもされるでしょう。ですが、それでも教義の存続を優先してもらいたいと仰せに御座います。」


 言い終えて反応を待つ。既にこの親子は泣いている。上手くいきそうな気がする。


「法主の御心…ようわかった。我ら願證寺が汚名を被ろう。…法主が貴殿を寄越したと言うことは、この後我らがどうすれば良いか策立てておるのであろう。我らはこれに従おう。」


 俺は深々と頭を下げ、計画を事細かに説明した。そして夜が明ける。




 ~~~~~~~~~~~~~~


 1570年7月-


 阿波三好が三度進軍した。これに摂津の池田知正、荒木村重が同調し、織田家に反旗を翻した。三好軍は摂津中島に城を築城し、織田軍を迎え撃つ準備を進める。だがこれに三好本家の当主は同調しなかった。


 同年8月-


 当主の義継は攻めてきた三好三人衆を非難し、織田家に救援を求めた。河内の守護であった畠山昭高は義継に合力し、古橋城に籠城するも、大敗を喫して京へと逃れた。

 信長様は馬廻り衆3千騎を引き連れて京に入り、そこで兵力を整え、三好三人衆討伐に進軍を開始した時は四万の大軍を従えていた。

 両軍は天王寺で対陣し、織田軍は三好軍に対して誘降を行っている。


 この時、将軍様も兵二千を率いて織田軍に参加している。そして、本願寺はこの戦いの前半は沈黙を保っていた。


 同年9月-


 本願寺からの書状が全国に行き渡る。



 信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。



 本願寺顕如はついに織田家に対して立ち上がった。その時私は、長島願證寺にて顕如の書状に基づく蜂起に立ち会っていた。


 ~~~~~~~~~~~~~~



・・・すいません、話が長すぎて主人公が人を斬る場面が次話になってしまいました。


本願寺顕如 本願寺11世法主で実名は光佐と言います。信長包囲網の一翼を担うほどの大軍(一向宗門徒)を率いておりました。また、畿内に多くの門徒がおり、長島周辺も諸豪族が呼応して蜂起し、長島に立て籠もったそうです。



刑部卿家:本願寺坊官の一族「下間」の一派です。主な武将として、下間頼廉がいます。他に宮内郷家の下間真頼、下間頼龍、少進家の下間頼照、下間仲孝がありこれを下間氏三官と呼ぶそうです。


下間頼旦:本物語ではバリバリの武闘派として描いていますが、史実でもそれっぽい記述があります。どうも同じ下間一族でも、派閥があったようです。


願證寺証意:本物語ではナヨナヨした穏健派で描いていますが、史実ではバリバリの武闘派の様です。


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