2.幼名、無吉
~~~~~~~~~~~~~~
数奇な運命としか言えぬ出会いであったが、私は信長様の気まぐれで奇妙丸様に拾われた。
その後清州城に戻り、女房衆が住まう館で吉乃様に育てられることとなり、そして奇妙丸様より幼名を頂戴した。
~~~~~~~~~~~~~~
「きょうからおまえのなは“ムキチ”だ」
俺を指さして言う奇妙丸様の指をしっかと握る。…もちろん俺の意思ではない。
今の俺の感覚は凄く奇天烈だ。
意識があり、人の会話もはっきり聞こえているが、視界はぼやけている。目が悪いと言うより、まだはっきりと見えていないと言った方が正解か。当然、自分の意思で声は出せない。体も動かせない。別の意思で俺の身体は操られている。勝手にしゃべり、勝手に泣き、勝手に漏らして、勝手に乳を吸う。
そんな俺に、奇妙丸様は名前を付けて下さった。
無吉。
無から生まれた、吉乃様の子、という意味だそうだ。
「無吉、そんなに強く握っては奇妙丸様の指が取れてしまいます。」
物腰の柔らかい声で吉乃様が奇妙丸様の指を握る俺の手を取り、抱き上げた。
…柔らかい。そして心地よい。
吉乃様は俺をだっこして、あやしている。俺はそれにきゃっきゃと応えている。もちろん俺の意思ではないが。
吉乃様。
本名ではなく、吉法師様の物という意味での通称だそうだ。吉法師とは、お殿様…織田信長様の幼名で、信長様が生駒家に立ち寄った時にお手付けになり、そのまま側室として迎え入れられたらしい。
で、奇妙丸様。
信長様と吉乃様の御子で、御年3歳。数えで4つか。…かなりしっかりしていると思う。昔の人ってそうだったのか?
そして、お付きの侍女に抱かれている赤ん坊が茶筅丸。後の織田信雄様だ。侍女のひとは生駒家の一族で舞という。
あとは、今この場にはいないが、養徳院様というこの台所を取り仕切る御方、そして俺もまだ見たことがないのだが、“御台所様”…お濃の方様…がおられる。
俺の見えている(聞こえている)範囲はそんなところだ。
この世界に来て3日目。
周囲の会話を聞いて、ようやくここが清州城であることがわかった。
後は年代。
今は何年だ?
俺は、織田信忠が何年生まれなのか知らない。歴史のことは好きで多少は知っており元服した年とか、死没年とかは覚えているが、生年までは…。
で、重要なのは、今が桶狭間の合戦の前なのか後なのか。
岩室長門守様がここにおられるということは、1561年より以前であることがわかるが、何せ情報が乏しい。
「ははうえ。奇妙もだっこがしとうございます。」
奇妙丸様が吉乃様を見上げて話しかけた。
「奇妙丸様はまだ御小さいので、無理にございます。」
「むう…。」
奇妙丸様は口をへの字に曲げられた。俺がそれを見て笑った。…俺の意思ではないが。笑う俺を見て奇妙丸様がにこりと微笑まれた。
「奇妙ははやくおおきくなりたい。」
それを聞いた吉乃様が言葉を返された。
「奇妙丸様が大きくなられると共に、無吉も大きくなりますよ。より大きくならねば、無吉をだっこできませぬよ。」
「むう…。ならば無吉よりもはやくおおきくなりたい!」
膨れたお顔が愛らしい。俺は思った。子供とはいつの時代も可愛いものだと。
吉乃様と奇妙丸様の他愛もない会話をしていると、別の侍女がやってきた。名はまだ知らない。てか、初めて見る。…まだ他に人がいたんだ。
「吉乃様、玄蕃允様がお越しになられました。」
侍女のひとは廊下で膝を付いて言われた。吉乃様が俺を舞さんに渡し、いそいそと出て行かれた。その後を「おじい!」と叫びながら奇妙丸様がついて行かれた。
俺は舞さんに抱かれながら考察した。
玄蕃允……。
この時代で俺の知る限りこの官職で呼ばれている人は一人。
織田秀敏。
桃巌(織田信秀。信長の父)の父、信定の子の1人。重要なのはこの人の没年。
この御方は1560年鷲津砦に籠り今川軍の猛攻を受けて討死している。
その御方がお越しになられたということは……。
今は1560年以前、桶狭間が始まっていないことが確定した。
俺はぶるっと震えた。
そう、漏らしたのだ。
「あら、無吉。またやらかしましたね。」
舞さんが笑顔で俺を抱き上げる。おしめに手を突っ込み、俺のマグナムを刺激する。それを合図にもう一度おしめを湿らせた。
俺はその間無言だ。何せ赤子の身体で、何故か言うことを聞かない。意識だけ別人の状態では、恥ずかしいと思っても抵抗すらできない。
しっかりとおしめを濡らし出すモノを出しきってから、俺はおしめを替えられた。
ちょうどそこへ吉乃様と奇妙丸様が戻って来られた。大柄な爺さんを伴って。
「ほう、こ奴が奇妙が拾ったという赤子か。」
爺さんが俺の顔を覗き込んだ。
「はい、ムキチ、となづけました。」
奇妙丸様がハキハキと答えられた。
「ふむ、茶筅よりも良い顔立ちをしておるな…おっと失礼、吉乃殿」
「いえ、おっしゃる通りにございます。奇妙丸様が惹かれたのも無理はありませぬ。」
茶筅丸も立つ瀬がないな。実の母親にブサイク認定されたぞ。
「三郎(信長の字)は、育てよ、と申されたのでござろう?…それはいつまでじゃ?いつまでもここに居させるわけにはいかんじゃろうに。」
「はい…ですので今のうちにどなたかこの子を引き取って頂けるお方はいないものかと、玄蕃允殿にお越しいただきましたのでございます。」
俺をどうするかという相談でこの爺さんが呼ばれたのか。確かに、このまま成長すれば俺はどうなるのだろうか。所詮、父母のわからぬ身分の卑しい子であるため、ここで綺麗な女性たちと過ごすわけにもいかない。どこか人手不足の場所に連れて行かれて下働きさせられるのがオチだ。そうなる前に誰か後ろ盾となれる人に貰って欲しい。俺は爺さんに注目した。
「ううむ…。いろいろと当たってはみるが…三郎の小姓衆どもはまだ嫁も貰うておらぬ者ばかり…嫁が居てもこ奴の面倒を見れるほど余裕のある者もおらぬからな。…まあ、茶筅と違ってよい顔立ちをしておるから…おっと失礼、貰い手はいろいろとあるじゃろうよ。」
…二度目はわざとだな。吉乃様もさすがに顔がひきつってるわ。
そんなじいさんは俺の頬を突いた。俺はきゃっきゃと笑う。もちろん俺の意思ではない。反対の頬を奇妙丸様が突く。俺はその指をきゅっと握った。これも俺の意思ではない。
しかし、今は問題ないがこの先成長するにつれてここから追い出される可能性が高くなることは念頭に置いておくべきだな。
「じゃがな、それどころではなくなるやも知れぬぞ。最近、津島に来る船の数が減っておる。どうやら駿河のほうへ流れておる様じゃ。」
じいさんの言葉に吉乃様は顔を青ざめられた。
「もしや、戦…にござりますか?」
俺はぶるっと震えた。
漏らしたのではない。
恐らく、これから桶狭間の合戦が始まろうとしているのだ。俺は直感で感じた。
「うむ。三郎からも呼ばれておってな。恐らく津島衆を使っての物見を言い渡されるであろう。そうなれば、鳴海や沓掛辺りまで出張る日が続くじゃろう。」
「おじい!きをつけるのじゃぞ!」
何故か奇妙丸様が胸を張って言われている。俺はそれを見てキャッキャと笑っている。
俺は桶狭間の合戦に至るまでの経緯を頭に思い浮かべた。と、言っても歴史家並みに細かく知っているわけではない。
確か…鳴海城主の山口氏が織田家から今川家に鞍替えした。これにより織田家が西三河へ進出する手段を失う。織田家はこれを奪還すべく、何度か兵を送っているが、いずれも撃退されている。そこで周辺に砦を築いて今川との連絡路を断とうとしたが、上手くはいかずこう着状態となった。その後山口氏は鳴海城主の任を解かれて駿河に呼び出され、代わりに今川譜代の岡部元信が城主となった。岡部元信は鳴海周辺の織田側拠点を排除しつつ、駿河からの援軍を待ち、やがて義元自ら大軍を持って尾張に侵攻した。
…こんな感じだったと思う。
恐らく義元は尾張侵攻のために、入念な準備を進めていたと思われ、そのことが、津島を抑える織田秀敏様に感づかれたのではないだろうか。
やがて会話は終り、爺様は部屋を出て行かれた。戦が始まるという言葉に部屋にいる女性たちは暗い顔をしていた。
歴史というのは、ちょっとした出来事で右に倒れるか、左に転がるかわからないと誰かが言っていた気がする。
何もなければ、今川軍が押し寄せ、あの爺様は鷲津砦で戦死する。
だが、俺という歴史上存在しない人間に触れたことで、ちょっとした出来事として歴史が変わるかもしれない。
鷲津砦で討死にせず、生き残るかもしれない。逆にその結果信長様が死ぬることになるやもしれない。
無吉という歴史の異物が、この世界で何をどう変えてしまうのか、全くわからない。
俺はこれから、何がどう起こっていくのか見当もつかず、ぶるっと身体を震わせた。
舞さん:本名は生駒舞といい、小折生駒の一族になります。もちろん架空の人物です。
この時代、奥女中の名前はほとんど残っておりません。
織田秀敏:信長の祖父、織田信定の子です。主に津島の管理を任されていたようです。
秀敏の死後は、津島十五党の大橋家がその役を担います。
 




