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8.大河内城攻略

※「乱」「変」について、読者様よりご意見を頂きました。

一応のルールがあるみたいで(ざるのようなルールでしたが)ここに参考情報として書かせて頂きます。


「乱」

①非支配者が支配者層に戦いをしかけ、失敗した場合(島原の乱、大塩平八郎の乱)

②大規模な争乱(壬申の乱、応仁の乱)


「変」

①主上や将軍が不当な立場に置かれること(承久の変、嘉吉の変)

 作者は「承久の乱」とか「嘉吉の乱」と習ったような気が・・・

②支配者層同士の対立による争い(禁門の変)


このように、名付けのルールはあるようですが、明治以前と明治以降で大きく変わります。

明治以降は「事件」「事変」のみになっていきます。


話がそれましたが、ご意見を頂いた方々にお礼を申し上げます。


・・・では本編をどうぞ。






 足利様は将軍就任以降、全国の諸大名に三好の討伐を命じる文を送りつけた。だが、これに反応する大名はなく、逆に三好三人衆の怒りを買った。これが本圀寺急襲の要因となる。

 だが、もう一人足利様の行動に怒った方がおられる。


 織田信長様(今は上総介ではなく弾正忠)



 後世、室町幕府と呼ばれた、足利尊氏公に始まる幕府は発足当初から脆弱な幕府であったと言われている。(俺もそう記憶している)このため、歴代の将軍様は、合議による運営を主として行われてきた。中央よりも地方を守護する大名の方が領土も兵力も大きく、幕府の力は代を重ねるごとに下がっていった。そして嘉吉の乱(1441年~)を機に地に落ちた状態となり、幕府は名目だけの存在となっていたそうだ。それでも将軍職は受け継がれ、これに群がり、出世や権力増加に利用する有力大名は多い。三好家もその権威を利用しようと畿内を掌握し、将軍様を事実上の傀儡とした。

 だが、これに甘んじず抵抗されたのが先の将軍、義輝様。何度も三好家と抗争を繰り返し、最後には暗殺されることになる。

 義昭様は兄が殺された理由を理解されていなかったようだ。将軍になることで、何でも出来ると思い違いをし、幕臣の諫めも聞かず書状を各地へばら撒いたことで、信長様の怒りを買った。


 信長様は思い違いをされた将軍様に立場をわからせるため、殿中御掟を突き付け、無理矢理これを承諾させた。



 本圀寺の襲撃は、信長様と明智様とが交わるきっかけであったが、信長様と将軍様が対立するきっかけでもあったようだ。



「無吉、父上が京の二条に城を建てられるそうだ。…これに乗じて何らかの理由を付けて京に行って見よう。」


 奇妙丸様は信長様の文を見て珍しくはしゃいでいた。…俺がいた時代で「東京」に憧れるように、この時代の人は「京」に憧れるのだろうか。


「京への旅には是非某もお連れ下さい。」

「私も」


 そう言って奇妙丸様の前に座り、頭を下げる二人の若い男。


 河尻 与四郎 秀長殿、11歳。

 森 勝三 長可殿、11歳。


 新たに加わった小姓で、父親は共に信長様の重臣である。これで小姓は12人になった。…がまだまだ若く将来の武将として一軍を預かるには実力不足である。毎日、半兵衛様や、新左衛門様に扱かれているが、戦に参加できる程ではない。俺は…いや俺だけでなく皆が戦に出て活躍したいと考えていたが、奇妙丸様が元服され、初陣を飾るまでは何も出来ないのであろうと考えていた。



 ~~~~~~~~~~~~~~


 1569年になると、勘九郎様(信忠の元服後の字)は毎月のように文を松姫様にお送りしていた。手紙には「早く会いたい」「元服すれば迎えに行く」「貴方に私の武者姿を見せたい」などを書き綴っておられたそうだ。

 当時、この文を検閲した武田家は、若かりし織田家の後継者の文をどう見ていたのだろうと思うと、家臣としては恥ずかしい限りである。

 当時を知る武田旧臣は既におらず、今となっては知ることはできないが、勘九郎様にお聞きすると、


「若気の至りだ。忘れろ。」


 と言って、何も言っては頂けなかった。


 ただ…伊勢攻略の本陣に呼ばれた時は、えらく興奮されており、そのことを松姫様に報告しようとして、小姓衆で必死に止めたのが、私の記憶に残っている。あれは、戦を間近で見る初めての機会であったのだから。


 ~~~~~~~~~~~~~~





 1569年8月。


 信長様は、伊勢国司、北畠家の本城、大河内(おおこうち)城に兵を差し向けた。


 前年より、足利将軍家に組するよう使者を出していたが、「名門北畠が織田家なんぞの下に付くことは出来ぬ!」と突っぱね続け、幕府の名で討伐指示が出された。当然、足利義昭様は名前を書いただけであろうが。


 総大将は信長様。

 名誉ある先陣はなんと木下様。大河内城までの道程にある支城攻略が藤吉郎様の仕事だった。

 大河内城の包囲軍として、柴田隊、森隊、佐々隊、不破隊、氏家隊、佐久間隊、長野隊、坂井隊を投入。城攻めとして、滝川隊、丹羽隊、稲葉隊、池田隊、蜂屋隊

更に援軍として、江北から磯野員昌様、大和から松永久秀様、摂津から和田惟政様が後詰として参加された。


 総勢七万に及ぶ大軍。


 緒戦は木下隊が露払いを進め、苦戦はあったものの大きな損害も無く、本城まで辿り着いた。直ぐに城の周辺の村々が焼かれ、織田軍に追われて大河内城へと逃げていく。周囲は前田隊金森隊で二重の柵を張り巡らせ、敵が城から出て戦いにくいようにした。


「父上、此度は兵糧攻めに御座いますね。」


 大河内城が見渡せる堀坂山の尾根先に設営した本陣から、嬉々とした声で奇妙丸様は城と、城の周囲をぐるりと囲む旗を見渡した。信長様は息子を一瞥すると、城の方に視線を向けた。


「…戦場に出るのがそんなに嬉しいか?」


 明らかに不機嫌そうな声。“魔王モード”が発動し周囲の護衛たちが一斉に顔を強張らせた。俺も強張らせた。…だが奇妙丸様は何食わぬ顔。


「父上、私は早く戦場に出たいと思っていることは事実です。ですが、今はそれ以上に父上の戦場に立つお姿を見られたことの方が嬉しいです。」


 奇妙丸様の言葉に信長様の“魔王モード”が弱まる。


「ほう…。何故じゃ?」


 心なしか信長様の口元がニヤついているように見える。


「大殿の差配には多くの学ぶべきものがあると半兵衛が言っておりました。それを間近で見られるのは中々ないでしょう。…今は父上がこれからどうされるのかを「よし!奇妙!貴様ならここからどう攻める!?」」


 言葉を遮り、奇妙丸様の隣に移動し、奇妙丸様の見ている先に視線を合わせた。そのお顔は子を育てる父の顔のように思える。…俺だけかもしれないが。俺は、お二人の会話の邪魔にならないよう、少し離れた。




 大河内城は周囲に幾つもの支城が配されており、それぞれに多くの兵が詰めていた。信長様は、この支城に火を放ち、わざと城兵を逃がして本城の兵数を増やし、兵糧の消費を速めさせようとしたのだが、先発して進軍した木下藤吉郎様の城攻めで、火を放つ前に降伏する者が出たため、当初よりは本城に逃げ込む兵数は少なくなってしまった。

 その代わり、周囲の村の住人を城に逃げ込ませている。信長様の見立てでは二月持てばいい方らしい。


 信長様のこの戦の目的は二つ。


 一つは、伊勢を織田家の支配下に置くこと。もう一つは大河内城が限界に達する前に将軍様に和議の書状を出させ、北畠家にそれを無視させること。

 信長様は将軍様に幕府の権威は最早役に立たぬことを見せつけようとしていたらしい。



 だが、人の思いはどうも上手くいかないらしい。伊勢国司北畠具教(きたばたけとものり)は、保身のために余力のある内に和議に応じてしまった。その時の信長様の怒りは凄まじく、報告に来た伝令の顔に軍配を投げつけた程であった。


 夏に始まった伊勢攻略は、秋には完了してしまった。しかも信長様が最も望んでいなかった“幕府の力”による終結であった。

 信長様は降伏した北畠具教、具房親子に会おうともせずに岐阜へ引き上げてしまった。戦後処理は丹羽様と滝川様で行われる。奇妙丸様は陣幕の後ろに隠れて滝川様と北畠具教との会談の様子を覗っていた。


「滝川左近将監一益にござる。此度の戦の大将を務めさせて頂いておる。」


 滝川の名は、北畠当主にも届いていたようで、むすっとした表情で頭も下げずに詰問をした。


「貴殿が我が伊勢国を北から侵略した滝川殿か。国司たる儂を下座に座らせるとはいかなる所存か。」


 とても敗者の言葉とは思えぬ表情に表現。周囲はざわつく。だが、滝川様も、その隣に座る丹羽様も冷静であった。


「敗者だからで御座る。」


「儂は幕府からの和議に応じただけだ!負けてはおらぬ!」


「…では、城に戻られよ。北畠家は幕府の要請に応じて面目はたったで御座ろう。我らはその和議に応じるつもりはござらぬ。」


「な!」


 滝川様の降伏の拒否に北畠具教は狼狽した。


「ま、待て!将軍からの書状ぞ!それを無視するのか!?」


「書状は北畠当主宛のものであって、我らではござらぬ。北畠家との和議など我らは知らぬ。知らぬ以上、当初の命令である北畠討伐を完遂するまで。」


 慌てる北畠当主に対し、丹羽様が止めと言わんばかりに当初の幕府からの命令を説明した。言われて益々慌てる具教に対し、子の具房は敗北を理解しているようで、大人しく平伏したままだった。


「北畠殿が何をそんなに慌てているのかはわからぬが、これらを飲んで頂けるのであれば、我らも面目が立つゆえ和議に応じることもできるが?」


 そう言って予め用意してた紙を取り出し、具教に渡した。



・此度の討伐に掛かった戦費一万貫を支払うこと

・当主具教は出家すること

・具教の娘を人質として差し出すこと

・具教と具房は大河内城から退去すること

・志摩を九鬼家に明け渡すこと


 具教は差し出された紙をみて全身を震わせた。名門北畠家としては屈辱的な内容である。しかも自分が可愛がっていた娘も取られるのだ。


「それを持って、城に戻られよ。委細の準備ができ次第、再びここに来られたし。受け入れられぬとあらば、城を包囲する我らに矢を射かけるがよい。」


 滝川様は、ゆっくりとした口調で言うと、丹羽様と共に立ち上がって陣幕を出て行った。残された北畠親子は消沈しただうなだれ地面を見つめるだけであった。





「…戦に負けると、このようになる。どれほど高貴で良き家柄で、名門であろうと、この乱れた世には意味はない。過去の栄光に縋る者はいずれ北畠のようになるのであろう。…無吉よ。私は此度この戦にてそのことを十分に学んだつもりだ。」


「はい、奇妙丸様も、織田家の後継という椅子に胡坐をかかぬようお気を付け下さい。」


「うむ。早速清州に戻り、松姫殿に文を書こう。」


「ダメです!清洲を出る前も皆に怒られたでございましょう!戦の事は書いてはいけませぬ!」


「戦の事は書かぬ。学んだことを書くのだ。」


「その内容は戦のコトになります!ダメです!」




 まだ見ぬ思い人に対してはしゃぐ奇妙丸様であったが、岐阜に帰られた信長様の下には新たなる使者が信長様との面会を求めていた。


 その者とは、史実でもこの先の信長様に大きく影響を与える方であった。




殿中御掟:信長様が足利義昭に付きつけた「勝手なことするな」を厭味ったらしく書いたもの…と作者は受け取っておりす。


滝川一益:甲賀の出身でよく忍者として描かれる人です。確かに甲賀の有力家の出身という記述も見られますが、滝川一族自体が不明点が多いです。池田恒興と従弟の関係だと言われています。(勝三郎の父、池田恒利が滝川出身らしい)今話の戦で伊勢の大部分を所領として貰い、一気に織田家の重臣に駆け上ります。

北畠具教:今話かぎりのモブ


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