9.新訳律令
1582年1月22日 近江国摠見寺-
雪に埋もれ壁に囲まれた庵。懐かしの牢獄。今は趣のある茶室に変貌していた。こんなにも冷え込む場所だったかと首を傾げつつ、暖を取りながら待っていた。
やがて雪を踏む音が聞こえ襖が開かれる。
「寒い。茶を出せ。」
開口一番それかよと思いつつ、茶ではなく白湯を出した。
「まずはこれで体をお温め下さい、信長様。」
白湯を出された信長様は何のためらいもなく一気に飲み干す。
「程よい暖かさだ。もう一杯くれ。」
俺は椀に再び湯を注ぐ。信長様はこれを3回に分けて飲み干した。
「…もう一杯だ。」
俺はもう一度湯を注ぐ。今度は湯気が見えるくらいの熱さである。信長様は両手で持って少し口につけた。
「うむ。」
満足そうにゆっくりと白湯を啜る信長様。前世の知識のある俺にとっては笑ってしまいそうである。まさか自分がするとは思ってもみなかった。
しばらく段を取ったあとに、俺は話を始めた。
「信長様を囮にさせて頂きたく…。」
「濃も同じこと言ってきおった。そこまでせねばあ奴らの本性が現れぬものか?」
「お二人には野心こそあれど、そこまででは御座いませぬ。お二人の野心に火をつけ煽っている者がおりまする。そ奴を炙り出すために…」
信長様の目がギラりと光った。
「任せる。貴様の言う通りに動いてやろう。」
即答…そんな簡単に決めないでほしい。そう考えながらも俺は話を進める。
「春になるとあちこちで反乱が起こります。各方面の諸将が鎮圧に向かいますが…鎮圧後にその者を労うために近江へお呼び下さりませ。」
「ほう…兵と将を分けるのだな。で、その後は?」
俺は声を一段低くして答える。
「明智様に饗応役を…。」
俺の言葉に信長様は目を光らせた。既に目は笑っておらずはっきり言って怖い。だがここで怖気づいては全てが水泡に帰してしまう。俺は恐怖に耐えながら話を続けた。そして一通り話し終えたところで信長様はセンスで膝を叩いた。
「よかろう。この件、全て儂の名でやれ。勘九郎には全ての後始末をさせるのだ。」
俺は無言で一礼した。
…やはり信長様は今の世を壊すことを徹底されている。今の秩序の基準を壊し、新たな秩序の基準を作って浸透させる。その為に秘密裏に律令の編纂が行われていた。だが俺の知る徳川の世とは異なる武家の世とはどういうものなのか。それから蒲生様も丹羽様も帯刀様も今は京を離れている。…ということは編纂は既に終了しているのか?
その後、茶を点てながらしばらく会話を続けた。終始心臓が爆発してしまいそうなくらい全身が恐怖で包まれていたのだが。
1582年1月22日 近江国安土城西の丸-
「お帰りなさいませ。如何でしたか?」
「うむ。…無吉の奴、お前以上に儂の命を掛けた策を披露してきおったぞ。」
「それはそれは…。あの子は妾と違って自分の命もかけて大将様に仕えております。大将様の為なら、介様の御命など安しと思うているのでしょう。」
「かっはっはっは!そうか!勘九郎の為か。ならば良いわ。」
「…妾には介様のほうが大事に御座います。」
「わかっておるわ。だからこそ濃の策も実行してきたであろう?」
「既に勧修寺家と大炊御門家、山科家が“新訳律令”を内諾しており、帝の耳にも入れつつあるとのこと。…後は九州と陸奥の諸将に一戦して勝てば、武家同士の争いを憂いてという名目をもって帝の名で発布することができます。」
「そのためには、さっさと毛利との戦を終わらせねばならず、そのためには、欲に駆られた禿ネズミを廃さねばならぬのか。……乱世を生きた武家どもを束ねるのは一苦労よの。」
「介様、それは今の法が、今の公家、武家の在り方に沿っておらぬから故に御座います。」
「“新訳律令”…今の律と令に新たな解釈を付け加え、公家、武家、寺社を明確に分離…。これに逆らう者は儂の名で徹底的に壊し新たな世の礎とする…。」
「はい、これを受け入れ新たなる武家の頭領に従う者のみが、新しき世に生き残ることができます。」
「そうなれば儂は全てを勘九郎に任せ、やりたかったことができるというものだ。」
「まずは、琉球に御座いますね。…商人から色々と話を聞いております。…妾も行きとうございます。」
「であるか。」
「だから…無吉の策をお受けになろうとも、決して…決してそのお命だけはお守りくださりませ。」
「で……あるか。」
1582年1月26日 河内国石山城-
顕如率いる一向門徒が出た後、畿内最大の物資集積地にすべく、原田様が街づくりを行われている。大型の舟が行き来できる海にも通じた水路を張り巡らせ、大地を利用して何段にも重ねた城壁で囲まれた街…。既に平野の商人の多くをこちらに移動させ街道の整備も進んでいた。
信長様の文をもって表門にある詰所へ立ち寄る。安土からの伝令であることを説明し文を見せると直ぐに通された。街に入り辺りを見回していると派手な格好の女が近寄ってきた。
「お侍さん!宿探しならうちらの店に泊まりなよ!」
客引きの女性のようだが、俺に腕を組みながら掌を見せてきた。
「…阿賀月の紋!」
それは俺が段蔵の一族に与えた三日月に十字矢の紋だった。
「待て!遊びに来たわけではない!」
戸惑う表情を見せ拒絶しながらも体を女に預け引っ張られるように店に入った。
「一名様ご案内~!」
女はそんなことを言いながら俺を小部屋へと押し込んだ。襖を占めるなり手を解いて土下座した。
「謝罪は不要。如何した?」
「は、此処は危のう御座います。織田家の動向を探る輩がわんさかおりまする。原田様へのご伝言であらばここで承ります。今宵はこのまま此処に留まり明日出立いただきますよう…。」
なんと……さすがに物資の集積地として数多の商家が出入りしているとそうなるか。俺は黙ってうなずく。そして信長様から預かった手紙を渡した。
「これを原田様へ。…潜り込んでいるのは、どこの手の者なのかはわかっているのか?」
「全員まではわかりませぬが…京の呉服屋、茶屋四郎次郎の手の者を幾人か確認致しました。」
…驚いた。すっかり失念していた。徳川家が滅んだことで茶屋四郎次郎は有力武家の後ろ盾を失っている。織田家中であまり茶屋の名を聞かなかったから俺も忘れていたのだ。その間に茶屋は毛利家と繋がったのか。
「茶屋の情報を集めることはできるか?」
「…此処にいる限り難しいです。それに我らは原田様への隠密監視役…これ以上の活動を行えば悟られます。」
女は申し訳なさそうに頭を下げた。俺はひれ伏す女を起こし、幾ばくかの銭を握らせた。
「此処が危険であることは分かった。いざとなれば原田様に庇護を求めるのだ。決して命を粗末にせぬよう。」
女ははらはらと涙を流した。
翌日俺は女の手引きで隠し通路から街を出た。去り際に女から手紙を渡される。
「…このような無礼をお許しください。……梶は私の妹に御座ります。里の掟とはいえ妹に無事を知らせとう…」
そこまで言って女は嗚咽する。俺は笑顔を見せて手紙と受け取った。名を聞きたいところだが、段蔵の教えで名乗りを禁じていると聞いている。
「承った。梶に必ず渡そう。」
そう言うと俺は百姓に扮した格好で走り去った。…原田様にお会いしたかったが致し方ない。俺は残念な気持ちを抑えつつ街道を京方面へと進もうとした。
……。
大規模な商隊が見える。織田木瓜の旗印もあることから、織田家の物資を運ぶ商隊だと思うが…。
俺は踵を返し、街道を東へ向かった。この道は大和街道へと続く道。奈良までは生駒山越えの二日の道程だが百姓姿の俺が一人で街道上をそのまま歩いていれば、怪しまれる。淀川沿いの道ならばいくらでも着替えを手に入れられたのだが、こっちはむしろ馴染みがなさ過ぎて立ち寄れる場所がない。
仕方なく俺は街道を外れて草木の生い茂る山を歩いて奈良へと向かった。
生駒山を越えたあたりで陽が沈み、だが休むことなく歩き続け日が昇るころには大和の中心地を抜けて大和街道に入った。
「…大和を通るのは遠慮したかったが、ましてや一人での行動…さすがにこれ以上の寝ずに進むのは厳しい。…しかし真冬の野宿か…。」
俺は凍死の可能性を考え、極力立ち止まらずに道なき道を進んだ。幸いにもそこまで積雪があるわけではなかったため、歩き続けて伊賀に入った。もともと関所だった宿場町で衣服を調達する。持っててよかった銭の束。身なりを浪人風に変えて長島を目指した。
「……付けられてるな。…一人か。…さっきの宿場からかな?」
小声で独り言を言うとゆっくりとした歩調に切り替えた。俺の後ろに付けている野武士風の男の歩調も変わった。俺を付けているのは確定。…だが何のために?俺が生駒吉十郎だとバレているのか?など疑問がいくつか浮かんできた。街道を進みつつも相手の目的を知ろうと気配を窺う。だが相手は笠を深く被り一定の距離を保ったままついてくるだけであった。
「阿賀月衆のように気配を殺した行動でもなく、商人衆のように無関係を装う風もなく…尾行に関しては素人なんだが…」
男の目的は以前不明。唯只管に俺の挙動に注視している様子で、そのまま二刻が過ぎた。陽は既に上っており、一睡もしていない俺にとっては体力の限界にも近づいていた。
大きく道を曲がったところで不意に腕を引っ張られ、そのまま草むらの中に倒れ込む。俺は慌てて起き上がろうとしたが、腕を掴まれさらに背中にまで手を回された。
「しっ!!」
目の前に見覚えのある女の顔があった。俺は抱き着かれたまま女に身を任せた。完全に雪積る草むらに隠れ切ったところで先ほどの男がやってきた。あたりをきょろきょろと見まわし、舌打ちをしてそのまま道を走り去っていった。見えなくなったところで俺と女は草むらから顔を出した。
「ぷはっ…助かった礼を言う。…しかし梶はなぜここに?」
俺を助けたのは小折で子育てをしているはずの梶であった。
「旦那様は“信頼のおける者を大和に派遣するよう”言われましたので…。」
「ははっ。それで梶自らが来たのか?」
「はい、まさか旦那様が浪人どもに追われているとは思いもしませんでしたが。」
俺は笑った。梶も笑った。そして優しく抱きしめる。
「梶に借りができたな。…で先ほどの男は何者だ?」
「大和に領地を持っていた者です。三好様によって領地を没収され他家に仕えるでもなく、この辺りをうろついている者どもです。」
「ふん、情勢の変化に乗り遅れた浪人どもか、それなりに徒党を組んでいるのか?」
「実はあまりわかっておりません…申し訳ござりませぬ。」
そう言って梶はひれ伏した。俺はまた慌てて彼女を起こした。
「わかった、もういい。…しかし、このまま進んでもさっきの男とかち合う可能性が高い。それに俺も寝ておらぬ故、できれば休息をとりたい。」
「それならば来た道を戻って宿を取られませ。」
そう言って顔を赤らめた。
…この女子、何か勘違いしているかもしれない。




