九話 ……おや!? ユキカゼのようすが……!
何だか最近、雪風がおとなしい。
ご飯を食べたり、お気に入りの場所でお昼寝したり、自分で風呂を沸かして一番湯に入っていたり、日常的なムーブはそのままであるが。
そこには無駄な挙動が一切ない。
これではただの魔術が使えるだけの犬のようである。
しかし、このままではないだろう。
近い未来、何かある。
きっと何か……。
なんて事を思っていたが、思っていた以上にその何かは早く起こった。
ある朝の事だ。
『クロエ! クロエ!』
わんわんと吠える声と私を呼ぶ声が同時に聞こえる。
その声で、私は目を覚ました。
「おはよう」
地べたに敷かれた毛布から起き上がり、目をこすりながら返事をする。
『ごはん! ごはん! ごはん!』
私の周囲を跳ね回り、わんわんと吠えながら、雪風はごはんを要求してくる。
しばらくは大人しかったのになぁ。
「はいはい。今用意するよ」
保存用に干しておいた虹鳥の肉を白狐で細かく刻み、水に一度浸してから器に盛る。
虹鳥の肉はそのまま水分を含ませるとぶよぶよに膨らむが、乾燥させた物は丁度良い食感になるらしい。
だから、カルダニアの人間が虹鳥を調理する時は一度干すのだという。
仲良くなった新兵から聞いた話だ。
この国ではポピュラーな食材らしく、兵糧としても各員に配られてもいる。
実際、虹鳥の干し肉は口に入れると唾液ですぐに柔らかくなり、干し肉とは思えない食感になる。
「お食べ……」
器を置くと、雪風はがふがふと肉を食べ始めた。
『おいしい!』
それはよかった。
アードラーとすずめちゃんはまだ寝ている。
けれど外は明るみ始めていた。
そろそろ起きるだろう。
それまでの間に、私達用のごはんを作っておこう。
……あれ?
今さっき、何かおかしな事があった気がしたけど。
まぁいいや。
あとで考えよう。
そう思いながら、朝食を作る。
作ると言っても、反乱軍から支給された干し肉や野菜の酢漬けを木皿へそれっぽく盛り付けるだけだ。
盛り付けが終わる頃になると、アードラーが起きだしてきた。
そんなアードラーに、雪風がわんわんと吼える。
「ええ。おはよう。……ん?」
挨拶をして、アードラーは怪訝な表情を作った。
雪風は次に、すずめちゃんへ向けてわんわん吠える。
目をこすりながら起きるすずめちゃんは、アードラーと似たような表情で雪風を凝視する。
「雪風が喋ってる……」
そして、倭の国の言葉でそう呟いた。
雪風が……喋ってる?
「わんわん」
「やっぱり、喋ってる」
わんわんとしか聞こえないんだけど。
すずめちゃんは、雪風の頭を撫でながら私を見る。
どうして?
という疑問の込められた視線に、けれど私には首を傾げる事しかできなかった。
すると、雪風はアードラーの方に向かい、「わんわん」と吠えた。
「ああ、空耳じゃなかったのね」
とアードラーも微妙な表情で呟くと、雪風の頭を撫でる。
「何の話?」
「何の話って……」
不思議そうに、アードラーは私を見て答える。
「ユキカゼが喋っているじゃない」
二人揃って、何を言っているのだろう?
と思っていると、雪風が私の方へやってきて吠えた。
「わんわん《なでて》!」
キャアアアアアッ!
シャベッタァァァ!
ついに私の危惧していた嵐がやってきたようである。
いろいろと話を聞いてわかった事だが。
どうやら、雪風の声には指向性があるらしい。
言葉を伝えたい相手、その一人だけにテレパシーのような物で言葉を伝えているようだ。
雪風の母親も同じような事をしていたので、それと同じ事だろう。
そういえば、私も起きてすぐにそれらしきものを聞いた気がする。
言葉がなくとも雪風の要求は行動で如実に伝わってくるので、私の脳内再生かと思った。
朝ごはんのために起こされた事は何度かあったし、食べ終わって私に一声上げる時も「おいしい!」と言っているんだろうなとなんとなく思っていた。
「でもどうして突然喋れるようになったのかしら?」
「わんわん」
アードラーの疑問に、雪風は答える。
何て言ったのかわからないが。
「なるほど」
アードラーは納得したように呟く。
何て言ったんだろう?
「何って?」
「ずっと練習していたらしいわ」
だからずっとおとなしかったのかもしれない。
この子のお母さんができた事だから、確かに喋る事はそれほどおかしな事でないんだけどね。
唐突だったから少し驚かされた。
「コルヴォ!」
アーリアの私を呼ぶ声が、テントの外から聞こえてきた。
来たか……。
昨夜、四度目の襲撃を退けてからは来なかったので諦めたのかと思ったが、ただそのまま寝てしまっただけだったようだ。
「勝負しろぉ!」
「……雪風、お出迎えしてあげて」
『わかった!』
私が言うと、雪風は元気に返事をして外へ出て行く。
「わんわん!」
「うわぁ、喋ったぁ!」
彼女は犬が苦手っぽいから、このまま逃げてくれるかもしれない。
と思ったが、アーリアは雪風を抱き上げてテントに入ってきた。
「どういう事だ!」
「わんわん!」
「そうなのか!?」
私に聞いたんだろうけれど、雪風が何か言って解決したらしい。
どう説明したんだろうか?
「アーリア様、犬が苦手じゃなかったんですか?」
「誰がそんな事を言った?」
ファーストコンタクトで厳しい顔してたから、そうじゃないかと思っていたんだけど。
『アーリアはやさしいよ! おいしいのくれるから!』
雪風がそう証言する。
へぇ、ふぅん。
『バーニもやさしい! おいしいのくれる!』
雪風、美味しい物くれる相手はみんな優しいと思ってない?
「勝負しろ! コルヴォ!」
どういう流れ?
そのまま勝負する事になり、体を回転させながらの足払いで体勢を崩し、回転を利用した左フックを顎に打ち当てて撃退した。
意思疎通の手段を手に入れた雪風は、それを活用したくてたまらないようだった。
言葉を覚えたての子供みたいによく喋る。
誰彼構わず喋りかける。
「わんわん!」
「うわ、犬が喋った!」
当初はそんな驚きの声がそこかしこで聞こえ、隠れ処内は嵐のような混乱に陥れられた。
その混乱は、一日経つ頃にで一定の収拾を見せたが……。
雪風の猛威はそれだけに留まらなかった。
今度は隠れ処内を縦横無尽に駆け回り、さまざまな要求を突きつけはじめたのである。
「ごはん!」「あそんで!」「なでて!」と求められた人々は、謎の強制力によってその要求に従わざるを得なかった。
それまでのおとなしかった時間を取り戻すかのように雪風はアグレッシブに動き回り、目を離すとすぐに姿を消すようになった。
いないなぁ、と思って探したらジェスタの横で干し肉を齧りながら撫でられていた事もあった。
雪風にかかれば、王族ですらその要求を拒めないのだ。
まさしく、嵐である。
もういっそ、雪嵐に改名すればいいかもしれない。
そういえば、雪風は何語で喋ってるんだろう?
私には倭の国の言葉に聞こえるけど、アードラーとも普通に会話している。
「わんわん」
「へぇ、そうなのね」
今も何やら会話しているようだが、端から見るとアードラーが独り言を言いながら頭を撫でているようにしか見えない。
「アードラー。雪風の言葉は何語に聞こえる?」
「この大陸の言語に聞こえるけど」
多分、雪風は言葉ではなく自分の意思を伝えているのだろう。
だから、言葉に関係なく言いたい事は通じるのかもしれない。
という事は、どこのどんな相手とも意思疎通ができるという事だ。
これは、思った以上にすごい能力かもしれない。
可愛いマスコットから、某こんにゃくのようなお役立ちアイテムの地位に着いたと見ていい。
新兵訓練のため、私はアードラーとすずめちゃんを連れてテントを出た。
すると新兵達の並ぶ前で、アーリアが新兵の一人と棍棒による組み手をしていた。
新兵の攻撃を軽くあしらい、一撃を加えて勝負をつけた。
新兵がその場で倒れ、「まいりました!」と言う。
しかし、アーリアは難しい顔で黙り込んだ。
何か考え事をしている?
少しして、顔を上げる。
「私は強い!」
唐突にそんな事を言う。
「なのに、何故勝てない?」
言いながら、アーリアは私に顔を向ける。
「勝負だ、コルヴォ」
カードゲームのアニメみたいに自然な流れで勝負を申し込んできた。
「今倒れられると新兵の訓練に支障が出るのですが」
「そうはならん。今日の私には、勝利しかないからだ!」
理屈っ!
アーリアは構える。
いろいろと私への対策で構えを変えていたが、最初のものに戻っている。
どう防御しても同じだと悟ったのかもしれない。
仕方ない……。
気絶させないように、気をつけながら相手をしよう。
私も段々、加減がわかってきた。
「わかりました……」
そう答えると、私も構えを取る。
新兵達の見守る中、私とアーリアの戦いが始まった。
先手必勝とばかりに、腕全体を使っての手刀を振るってくる。
半身になってそれを回避し、左拳のボディブローでカウンターを取る。
よろめいたアーリアの顔を左ジャブ二回で牽制し、最後に右ストレートを打ち当てる。
「うあぁっ!」
悲鳴を上げて、アーリアは尻餅をついた。
けれどすぐに立ち上がって構える。
そんな彼女へすかさず近づき、右ローキック。
「っ……!」
彼女はかくりと膝を曲げながらも、悲鳴を堪えて距離を取る。
白色をかけたのか、地に着ける足へ力を込めた。
「もうやめましょう。訓練の時間がなくなります」
構えを解いて私は言う。
「まだだ! 私は、負けない! 負けてしまえば、私の存在価値がなくなってしまうから……」
「……」
私は無言で、彼女に応じた。
構えを取る。
彼女にとって、私に勝利する事は譲れない事なのだろう。
その理由はわからないが。
今日は満足するまでとことん付き合ってあげようと、そう思った。
私とアーリアの戦いは、一時間ほど続いた。
アーリアは私へ一撃を当てる事ができず、逆に何度も攻撃を当てられた。
その都度彼女は、耐え難い痛みを覚えたはずだ。
体の痛みだけでなく、自分の無力感に打ちひしがれたはずだ。
しかし彼女は、それに屈しなかった。
体力も消耗し、攻撃する事も防御する事も辛かっただろう。
それでも果敢に挑み続けてきた。
結局、耐えられなかったのは私の方だ。
白色を使う余力もなく、傷を癒せずないままボロボロになっても挑み続ける彼女。
もう体力も限界だろうに、それでも諦めない姿。
それを見ている事が、辛くなった。
だから私は彼女の顎を狙い撃ち、その意識を刈り取った。




