十五話 斎藤としての見解
角樫家の城。
当主、角樫房光の部屋。
異国の品々が多く飾られたその部屋で、拙者は房光様にびてんふえると殿に関する報告を行なっていた。
「引かねば切れぬ、か……。その道理はわかる」
房光様が口を開く。
「しかしながら、如何に叩きつけるだけしかできぬ未熟者とはいえ、良い刀を使えばそれなりに斬れるものであろう」
「はい。それに大の男が振るう太刀です。どのような人間でも肩を叩かれれば、鎖骨が折れるものでしょう。しかし、確かに太刀を身に浴びたびてんふえると殿は、無傷であったのです」
息を吐き、房光様は目を細めた。
口元を扇子で隠す。
「して、その後どうなった?」
「びてんふえると殿は下田の喉を掴み、潰しました」
「喉を?」
「恐らく「参った」と言わせぬためでしょう」
びてんふえると殿と下田の試合。
あれは真剣勝負だった。
どちらかが死ぬか「参った」と言うまで決着はつかない。
そういう取り決めであった。
しかし、びてんふえると殿は下田の喉を潰す事で決着をつけられないようにしたのだ。
「そしてそれからの戦いは……いえ、あれは戦いではなかった。一方的な処刑と言った方が良いでしょうか」
「ふむ。話せ」
私は一度頷き、その後の事を語りだした。
下田の喉を潰したびてんふえると殿は、すぐにその手を離しました。
そして、代わりに襟首へと手をかけ……。
「そこ! どいて!」
門下生達が座る壁を指して言ったのです。
門下生達が言う通りに離れると、壁へ向けて下田の体を放り投げました。
投げつけられ、背中を壁に強打する下田。
そして次の瞬間、びてんふえると殿は消えました。
……ええ、消えたのです。
拙者はびてんふえると殿を見ていた。
それこそじっと、挙動を見逃すまいと……。
しかし、そうとしか形容はできぬのです。
何故なら、まさしく彼女は姿を消したのですから。
そして気付いた時には、下田の腹を拳で貫いておりました。
しかも、それだけに留まらず、左手で下田の腕を捻り上げて掴み、右拳を振りかぶりました。
その時、彼女の背には女人とは思えぬ程の隆りが出来ておりました。
びてんふえると殿は素肌を晒しておりましたが、正直に言えば拙者がその姿に感じた物は女性の肌を見る後ろめたさなどなく、武士としての憧憬を覚えておりました。
それほど、拳を振りかぶる姿は美しかったのです。
そこには、びてんふえると殿が今まで培ってきたであろう武の全てが凝縮しているようで、目を離せませんでした。
そして同時に思ったのです。
これは然るべき所に当たれば絶命を免れぬ、と。
事実、放たれた一撃は予測に漏れぬ働きをしたでしょう。
………………。
……いえ、そのような事は……。
びてんふえると殿は下田を殺してはおりません。
びてんふえると殿が狙い打ったのは、急所ではなく手の平だったのですから。
開かれた手の平を壁と拳で挟み込むように殴りつけ。
その拳は手の平ごと壁へ穴を開けました。
下田の手は当然潰れ、当人は声にならない悲鳴をあげました。
その後、すぐさま逃れようとしますが、びてんふえると殿がそれを許そうはずもなく……。
下田の肩を掴むとさらに腹を殴りつけ、次いで顔を殴りつけようとする。
腹に一撃食らいつつ、顔へ迫る一撃を下田は何とか避け、びてんふえると殿の拳はさらに壁を殴り抜けました。
腰が抜けて、その場で尻餅をついた下田は這って逃げようとする。
その時にはもはや、下田に戦意は残っておりませんでした。
ただただ怯えが勝り、すぐにでもその場から離れたいという有様でした。
何度も口を動かして言葉を紡ごうとしておりましたが「参った」の一言を口にする事もできず……。
そんな哀れな様子の下田を容赦なく蹴りつけると、びてんふえると殿は下田の足を掴んで乱雑に振り回しました。
一度くるりと体を回してその勢いのまま壁へ叩きつけると、体が落ちる前に両足を揃えた跳び蹴りで下田の体を抉りました。
蹴りによって下田の体は壁を突き破り外へ転がり、倒れた下田をびてんふえると殿は引き立てて再び道場内へ投げ込みました。
その一撃によって壁が崩れ、大きな穴が空き……。
今思えば、あれは外にいる町民の野次馬達に中がよく見えるようにするための配慮だったのかもしれません。
試合を申し込む前日、びてんふえると殿は食べ物屋巡りで仲良くなった客達に道場で試合をする事を喧伝しておりました。
あれは、試合の内容を町民達へ見せ付けるためだったのやもしれません。
そして、下田を道場へ投げ戻してからは、正直見るべき所のない戦いでした。
というのも、それから先、びてんふえると殿は技を用いなかったからです。
あれは技ではなく、力任せに叩きつけるかのような……。
ただただ痛めつけるためだけの拳でした。
その上執拗で……。
逃げようと下田を執拗に追い詰め、徹底的に痛めつけました。
下田の腕を取って肘の関節を自らの肩に当てて折り、そのまま背負い投げ。
倒れた所に脛を狙って踏みつけ、そのまま脛ごと床を踏み砕き。
道場の奥にある柱へ投げつけ、追い討ちに蹴りつけて柱を蹴り折り。
肩に抱え上げて背骨を折り曲げ。
あらゆる破壊を下田の体へ行なっておりました。
手足は勿論の事、背、肋骨、手はもちろんの事足の指に到るまで、頭骨以外の骨が余す所無く砕かれていた事でしょう。
体を痛めつけられながら逃げ惑う下田が、また哀れに思うような有様で……。
それに伴い、立派な道場内もまた壊され、見る影もなくなり……。
さながら廃墟のようになっておりました。
その頃になると、拙者にもびてんふえると殿の意図がわかりました。
びてんふえると殿は、下田だけでなく道場その物を壊してしまうおつもりだったのです。
その凄惨なまでの行いに、門下生も野次馬の町民達も言葉を失い、平塚殿までも青い顔をしておりました。
そして、終いには下田の体に馬乗りとなり、何度も何度も顔を叩きつけておりました。
抵抗しようと伸ばす手を無感動に払いのけ、何度も、何度も……。
その度に血が飛び、床を汚してゆきました。
見物する者達はその凄惨さに言葉を失い、それでも目を離せずにじっと見ておりました。
最後に下田が抵抗する力も失せると、びてんふえると殿は拳を振りかぶり、顔を目掛けて振り下ろし……。
そのまま、顔のすぐ横を殴りつけて床へ穴を空けました。
馬乗りから立ち上がり、下田から離れ……。
「参った」
びてんふえると殿がそう宣言したのは、そのすぐ後の事です。
こうして、あの試合はびてんふえると殿の敗北という形で幕を下ろしました。
びてんふえると様は夏木殿のご息女を抱き上げると、早々に道場から立ち去りました。
「敗北、か……。しかしながら本来の勝者が誰であるか、見る者には一目瞭然であったろう」
房光様の言葉に拙者は頷いた。
「しかしながら真に恐るべきは、あれに痛めつけられながら命に別状なかった事でしょう」
「ほう」
「剣を握る事はおろか、生涯日常生活もままならぬ様子となっていたとの事です」
房光様は黙ったまま顔を顰めた。
「そして、事はそれだけに留まりませんでした」
「まだ何かしでかしたのか?」
「しでかしたのはびてんふえると殿ではございません。恐らく、しでかしたのは家老の下田でありましょう。その後、夏木殿のご息女と夜道を歩いている際に、びてんふえると殿は刺客に襲われました」
「なんと。して、どうなった?」
「無論、容易く返り討ちに致しました。それもまた、なかなかに酷い事を致しまして」
「何をしたのだ?」
「刺客は二人いたのですが……。その二人共、体の関節という関節を全て外してそのまま放置いたしました。翌日、身動き取れぬまま痛みと恐怖によって糞尿を垂れ流して倒れる哀れな二人の刺客が町民に発見されました」
房光様は痛ましい顔をする。
「何故、下田家の刺客だと思った?」
「一度、下田隆道と共にいる所に遭遇致しました。その後、調べてみると下田家の用人で隆道に付けられた人間である事がわかりました」
「なるほどな……」
「その後、下田隆道は世話係が目を離した隙に自害。恐らく、これからの人生を儚んでの事でしょう。刺客二人も醜態を晒した辱めに耐えられず腹を切りました。平塚もまたこの件が元で門下生達がやめ、町にも噂が広まった事で前田より出ていったとの事です」
結果として、びてんふえると殿は直接手を下さずに仇敵全員へ報復を成したのだ。
「ふむ、そうか……。下田の成した事もまた人を外れた行いであるが、びてんふえるとの所業もまた酷いのう。やはり、びてんふえるとは鬼か……」
拙者は目を閉じた。
確かに、あの所業は鬼だ。
しかしながら、その行動に彼女を駆り立てたのは……。
「いえ、違います」
「ほう。えらくきっぱりと断言するな」
「はい。びてんふえると殿は結果的に仇の命を奪いました。しかし、それは彼女にとっても思いも寄らぬ事だったでしょう」
彼女が画策した謀は、恐らく平塚道場を潰してしまう事までであろう。
下田が自害する事までは予測できなかったはずである。
自害した事を伝えた時にはたいそう驚き、外交問題にならないか心配していた。
だが、そんな様子がなかったとしても、彼女にその気が無かった事を拙者は悟っていた。
彼女は初めから、仇を取るつもりなどなかったのだから。
「何故、そう思う?」
「彼女は、悔いておりました」
「何を?」
問われ、思い返す……。
下田を倒した後、屋敷へ帰りついた時の彼女を……。
屋敷にて、びてんふえると殿は眠るすずめの頬を撫でていた。
気持ちをぶつけるといい、それを行動として成した彼女。
これで気は晴れただろうと思ったが、その顔は顰められていた。
「斉藤さん……。私は下田の言う通り、夏木さんを死に追いやってしまったのでしょう」
小さく、呟くように言う。
「もし、私があんな事をしようとしなければ、少なくとも夏木さんが死ぬ事はなかった。この子から、両親を奪ってしまう事はなかった……」
声が震え、言葉が崩れる。
見れば、彼女は泣いていた。
夏木殿が死に、一度として涙を流さなかった彼女が今になって泣いていた。
その姿は、ただの弱々しい女性にしか見えなかった。
あの鬼の如き所業を成した人物と同じだとは思えなかった。
「そうでなくとも、その場に居合わせられたなら助ける事だってできたかもしれない。何で私は、こんな事しかできなかったんでしょうか……」
堪えるように目を瞑る彼女。
しかし、それでは押し留める事ができず、涙が後から後から流れ出てくる。
そんな彼女に私は、何も言葉をかける事ができなかった。
「びてんふえると殿は、顔を顰めておりました」
「ほう」
「その表情には、勝利に対する喜びも仇討ちを遂げた事への満足感もなく……。ただただ、無念そうに顔を顰めておりました。そして、その頬には涙が流れておりました」
あの御仁は、悔いていた。
彼女にとってあの所業は、ただの八つ当たりでしかなかった。
その自覚はあっただろう。
下田を痛めつけようが、道場を壊そうが、何にもならない事を彼女は理解していた。
敵討ちをした所で、夏木夫妻が戻ってくるわけではない。
それをよく理解していた。
それでも成そうと思ったのは怒りのぶつけ所を探した結果もあるだろうが、それ以上にあの子供の心を救いたいと思ったためだ。
これ以上、下田への恐怖にあの子供が怯える事が我慢ならなかった。
だが、それでも完全にあの子を救う事ができたとは思っていない。
だから悔いていていたのだ。
何故自分は、あの子供の両親を救えなかったのか、と……。
「彼女は仇討ちではなく、幼い子の心を救いたい一心であのような所業を成したのです。
もう二度と下田があの娘に手を出せないようにし、なおかつ夏木殿を苦しめた道場を潰そうとした。
それだけのために、執拗なまでに下田を痛めつけた。
道場を名実共に潰そうとしたのです。
あれは、人です……。
それも拙者が知り得る人間の中でも上等な人間。
拙者は、あの御仁を人として尊敬できます」
「珍しく、べた褒めしよるなぁ。それが「斉藤周五郎」としてのお前の結論か? 加西家斉」
拙者の本当の名前だ。
斉藤周五郎は、びてんふえると殿を見極めるための仮の身分である。
拙者は房光様に命じられ、筆頭家老の加西家斉ではなく斉藤周五郎という一介の藩士としてびてんふえると殿のそばにいた。
「はい」
「ならば、信じよう。ワシはお前を信頼している。そんなお前がそう言うのなら、間違いのない事だろう」
拙者は頭を下げた。
「確か、びてんふえるとには子が居るのだったな……」
「はい」
びてんふえると殿は故郷に子供を残し、だからこそ早く帰ってやりたいと思っているようだった。
「人は人……。それも母か……。万全の慎重を期すためとはいえ、酷い事をしてしまったやもしれんな」
房光様は口元を隠していた扇子を閉じた。
「そろそろ結論を出しておこう。加西。他のお目付け役の意見を聞き、そちの意見を聞いた事で、ワシはあるねすが信頼に足ると判断した。異存はあるか?」
「いえ。ありません。あの様な人間を育む国です。悪い国であるはずはありません」
答えると、房光様は満足そうに笑う。
が、すぐに表情を険しくした。
「しかし、これからびてんふえると殿は気をつけねばならんかもしれぬな」
「はい。彼女は下田の次男坊を結果的に死へ追いやった。ならば、下田が何かしらの報復に出るのではないかと思われます」
「こちらからも言い含めておくつもりだが……」
「それでも手はあります。引き続き、そばで警護するつもりです」
「うむ。頼むぞ「斉藤」」
「はい」




