十話 誕生と覚悟と新たな任務
アードラーが産気づいたのは、昼を少し越えた頃だった。
私は言語習得のために彼女の部屋にいて、彼女の陣痛に居合わせる事ができたので迅速に対応できたのは幸いである。
女官に頼んで典医と産婆さんを呼んでもらった。
漢麗様もそれを聞きつけて後宮に訪れ、私はそれに構う事もできず出産の手伝いに奔走した。
とはいえ、私も自分以外の出産に立ち会うのは初めてだ。
何をしていいのかわからない。
手伝いはしたが、むしろ足を引っ張ったかもしれなかった。
魔法である程度筋肉の操作をして出産の助けになればとも思ったが、私よりもアードラーの魔力量の方が多い。
産みの苦しみで突発的に魔力の反発があった時、どんな事故に繋がるかわからなかった。
無力感ばかりが募る中、産婆さんに指示を仰いでお手伝いする事が私に唯一できる事だった。
そして日が暮れて……。
アードラーは女の子を出産した。
アードラーと同じ黒い髪。
固く涙を絞り出すために閉じられていた目が、落ち着いて開かれるとこれもまたアードラーと同じ赤だった。
赤ちゃんは、イェラと名づけられた。
名づけたのはアードラーである。
「どうしてその名前に?」
「私に、初めて舞踏を教えてくださった先生の名前よ。もう亡くなられているのだけど」
と、イェラに授乳しながら教えてくれた。
汗で濡れたその顔には、はっきりと愛情が見える。
『しわくちゃじゃのう。そしてあかい!』
とは、漢麗様の言葉である。
「生まれたてはこのようなものです」
『ちんもそうじゃったのかの?』
「そうでしょうね」
漢麗様はイェラを見詰めて微笑む。
『このようにちいさなものが、ちんのようになり……。そして、クロエのようにおおきくもなるか』
「たしかに父親は私より身長が高いですからね。可能性はあります」
答えると漢麗様は、えっ? と困惑顔で私を見た。
『こどものちちおやはクロエではないのか?』
「漢麗様。女の子同士で子供はできません」
『でも、クロエにははえておるんじゃろ?』
「ぶっ……!」
思わぬ言葉に私は吹き出した。
『きゅうちゅうでささやかれておるぞ。あのクロエとアードラーはふうふで、アードラーのこはクロエのこじゃと』
それを広めた奴は誰だ!
「面白い噂ね。まんざらでもないわ」
と、アードラーはまんざらでもないように言う。
これ以上ないほどのまんざらでもなさである。
『なんじゃ、ちがったのか』
「確かに婦婦ではありますが。夫は別にいます」
そこそこに答えると、漢麗様はアードラーの方へ向かった。
何かしらアードラーと言葉を交わし、恐る恐るイェラへと手を伸ばした。
伸ばした手を少しだけ迷わせ、赤ん坊特有のふっくらとした腕へ向けた。
ふにふにと軽くつつき、軽くぐずりかけたイェラに怯む。
それでも好奇心が勝ったのか、またイェラに手を伸ばす。
「おれも行ってきていいかな?」
すずめちゃんに問われる。
「良いと思う。一応、アードラーに聞いてね」
「わかった」
答えると、すずめちゃんも漢麗様と共にイェラを構いだした。
わちゃわちゃと誰かしらにさわられまくるのは赤ん坊の宿命である。
私も後で触りに行こう。
お体に触りますよ。
「今日はちょっといつもと違う事を教えよう」
すずめちゃんとの稽古の時間。
私はそうすずめちゃんに切り出した。
頷いたすずめちゃんに私は近づき、その顎へそっと手の甲で触れた。
そして、勢い良く打ち抜いた。
思いがけない事に、すずめちゃんは反応もできずに倒れた。
すずめちゃんは立ち上がろうとするが、上手く立てずにすぐ仰向けに倒れる。
「強打者の一撃は、当たり所によって人をこういう状態に陥らせる。こうなってしまえば、魔力の有無関係なくもう何もできない」
私がしたのは、脳を揺さぶる打ち方だ。
人の構造は正面からの攻撃に強く、脳を揺さぶるには側面からの打撃が効果的だ。
主にフックやアッパーで陥りやすく、ストレートでも当たる角度によってこの状態を引き起こすだろう。
耳の後ろ辺りにある三半規管への狙い撃ちでも、似たような状態は起こる。
そんなすずめちゃんの頭に触れて、白色を流した。
魔力を通して、一応ダメージの具合を確認しておく。
「魔力を扱う器官は脳にあるらしい。だから、魔力を持った相手に対しても脳を直接揺らす攻撃は有効だ。他人から白色をかけて貰わなければ早急な回復は見込めない」
頭部とは、それだけのリスクを抱えた部位なのだ。
「有効な攻撃であり、そして受け続ければ後々に重大な後遺症を残す事もあるため絶対に受けてはならない。それを肝に銘じておくために体験してもらった」
白色で回復したすずめちゃんは、立ち上がって頷いた。
「あ、それから頭蓋骨は硬いため、打つならば拳ではなく掌底で打つのだ。よいな?」
「わかった。……魔力を持った相手でも、頭を叩けばなんとかなる?」
「今のおまえでは敵わない。一撃で相手の脳を損傷せしめるだけの力が養われていない。だから、今は逃げろ」
「それでも戦わなくちゃならない時は?」
問われ、私は少し考えてから答える。
「初手は足を狙う」
すずめちゃんでも容易に狙えるのはそこだ。
しかし、回復する手段を相手が持っていた場合は決定打になりえない。
だから、あくまでもこれは相手の隙を作るための伏線でしかない。
「そうして隙が出来たならば頚動脈を絞めて意識を奪うか、関節を外すように動け。意識を奪えば回復はできないし、脱臼は白色で治せない」
脱臼した状態で白色をかけても、脱臼したまま周囲の傷ついた筋肉が癒されるだけだ。
「あとは……殺すか」
思いつき、口にするか迷ってから答える。
殺す、か。
私は胸中で口にした言葉を反芻する。
人を殺す事。
そんな覚悟をこの幼い子に持たせるべきか。
これからの事を考えれば、場合によって必要な事である。
殺す事は、相手を確実に無力化するのに有効な手段だ。
しかしできる事ならば私は、そういう事と無縁の場にこの子を置いておきたいと思っていたのではなかったか。
私が何もかもから守ってあげられるなら、そうしてあげたいと思っていなかったか?
「いや、殺しなど覚える事ではないか」
「平気だ」
私が言うと、すずめちゃんは答えた。
「おれは、人の死体を見ても平気だ。殺す事も、多分できる」
すずめちゃんは険しい顔でそう続けた。
そうだった……。
今までもすずめちゃんは、いくつもの死を目の当たりにしている。
きっと初めては、実の両親。
その後、カルダニアの戦場でも無造作に転がるそれらを前に平然としていた。
「そう」
その覚悟を持つ事。
私はそれを戒める事も肯定する事もできなかった。
アードラーの部屋。
「アードラーは、どうして死体が平気なの?」
イェラをあやすアードラーに、私はそう訊ねた。
彼女もまた、死体を前に平然とできる人間だ。
武家でもない生粋のお嬢様育ちである彼女が、そういう心構えを持っている事を私は不思議に思っていた。
「子供の頃から、そういう教育を受けているわ。王の側にある人間として、どんな時でも平常であるように……。そうお父様から教えられたの」
そう言って、アードラーは小さく笑う。
「犯罪者の処刑を見せられて、真夜中に刑場まで一人でその死体を触って帰ってこいなんて言うのよ」
酷いと思わない?
と、アードラーは笑って問いかける。
そういう教育をされていたか。
「クロエはどうなの? 武家なのだから、そういう教育を受けなかった?」
「私は……」
今思えば、あれはそうだったのかな?
「食料調達の時かな」
「食料調達?」
「私は父上と一緒に、よく山で訓練を受けていたのだけど。その時、狩った動物をしめるのは私の役目だった。その度に……」
これは命だ。
動物も人も、命である事に違いは無い。
その命を奪えたならば、お前はどのような命も奪う事ができる。
「そう、口にしていた」
「うちと根本的に違う。うちは人の死に慣れるための教育。どちらかというと、何事にも動じない度胸をつけるためのもの。でも、お義父さんのそれは殺すための覚悟を説いていたのね」
「私もそう思う」
人を殺せるかどうか、それは武家として必要な素養だろう。
今までそれに気付かなかったが、あれはそういう教育だったんだ。
私はカルダニアでの事を思い出す。
思えばあれが、私にとって始めての戦場だった。
棍棒とはいえ、加減のされていない一撃は人の命を奪うだろう。
手加減をする余裕も、思い悩む余裕も、あの時の私にはなかったな……。
比較的、平静で居られたのはパパの教育があったからかもしれない。
アードラーも私も、素養として人の死を受け止める方法を持っている。
そう思えば、すずめちゃんが獲得した覚悟もまた、期せずして得られた素養として受け止められる。
多分、生きて家に帰るために必要な物だ。
「ありがとう、アードラー。少し心が軽くなったよ」
「どういたしまして。何が助けになったのか、よくわからないけどね」
後宮には、使わなくなって物置のような扱いとなっている部屋がいくつかある。
その内の一つ。
雑多な荷物が無造作に置かれた部屋の中に私はいた。
積まれ、置かれた木箱に腰掛け、足を投げ出して持たれかかるように座っていた。
「おい、クロエ。……何をしているんだ、お前は?」
そんな時に、高呂が部屋を訪れた。
私の姿を見て、怪訝な顔をする。
「召喚されし弓兵ごっこ」
「……それは楽しいのか?」
「楽しい……!」
「そうか……」
力強く答えると、高呂はそれ以上私のささやかな楽しみに触れないようにしたようだった。
「それで、何か御用ですか? 漢麗様が呼んでいるというわけではありませんよね」
最近の漢麗様はイェラに夢中である。
今までは私にべったりだったが、今はイェラにべったりだ。
それがなくなり、暇を持て余した私はその時間にこっそりと町へ出たり、こうして暇つぶししたりして過ごしていた。
「個人的に頼みたい事がある」
「高呂殿が? 漢麗様ではなく?」
いぶかしむと、高呂は疑問に答えてくれる。
「漢麗様の詔勅はその実、圭杏共の思惑が裏にある。しかし、お前は連中の奸計を逆手に取ってむしろその地位を高めてしまった」
この国最強と謳われる武将を倒し、得る事がステイタスとなる炎蹄馬の献上。
どちらも、私を排除する目的で圭杏が画策した事であったらしいが、私の評判が上がるだけになってしまった。
「これ以上、下手に手を出して声望を高める事がないようにしたいのだろう」
「なるほど」
「お前は天子様の物である。どちらにしろ、あとで正式に上奏して勅をいただくつもりだが、その前に打診しておこうと思ったのだ」
私は立ち上がり、服のほこりを払った。
「わかりました。それで、何をすればよろしいのです?」
「内容を聞く前に了承するのか?」
高呂は問いかける。
「私は高呂殿を信頼しています」
「ありがたい事だな」
言葉を交わし、互いに微笑みあう。
「東の地で不穏な動きがあるらしい。それを調べてきてほしい」
「曖昧ですね。どう、不穏なのですか?」
具体的に教えて欲しい、と問いかける。
「ある村で官吏が殺された」
「それはおだやかじゃありませんね」
うむ、と高呂は頷く。
「そしてその地へ人々が集っているそうなのだ。それも農民や侠者、商人、果ては官まで……。貴賎問わず、わけ隔てなく……。この都から流れた者もいる」
「統治する者がいなくなった地に?」
「……いや、どうやら何者かに統治はされているらしい。だが、こちらから派遣した新たな官吏は、全員が消息を絶っている。消されたか、集った人間の一人になったかは知らん」
官吏の殺された地で正体不明の統治者が立ち、そこへ人が集まっている、か。
「深く探ろうとしても、うまく情報が集まらん。その地の実体がどうなっているのかは、何もわからない。だが確かな事もある。人が集うという事はそれだけで力を得るという事である」
それを聞いてすぐさま考えに上ったのは、「乱」の一文字である。
「お前には、その実体を掴んできてもらいたい」
「私にできると思いますか?」
「諜報に特化した者が何人も帰ってこない。なら、純粋な武を打ち込んで情報を奪い取ってくるしかあるまい」
わーお、なんという脳筋的発想。
多分、それしか方法がないくらい他に手段が無いんだろうな。
「今までのやり取りからも、言葉で怪しまれる事はあるまい」
そう、今の私は雪風無しで話せるようになっている。
皆で勉強した成果である。
「風体で怪しまれるかもしれんが」
「骨格を変えて男性として振舞えばあるいは……」
「お前は知らぬようだが、男にそんな乳房は付いていない」
「存じておりますとも」




