五話 クロエ、釘を刺される
私がコウロから疑いの目を向けられている間に、漢麗様の髪形は縦ロールに仕上がった。
どうやら気に入ったらしく、その日はどこの国のお姫様か定かでない姿で帰っていった。
が、後宮へ訪れる事が漢麗様にとって琴線に触れたらしく、それから毎日のように後宮へ足を運ぶようになった。
当初はアードラーにべったりと引っ付き、髪の手入れについて話したり、少し大きくなったお腹を構っていたりしていたが……。
思い出したように、すずめちゃんへ興味を持って追い掛け回す事もあった。
すずめちゃんは私との訓練の成果で得た身体能力を駆使してそれから逃げている。
髪を切ってしまい、今は結う事もできないがそれでも漢麗様が追いかけるのはその追いかけっこが楽しいのかもしれない。
すずめちゃんがどこかへ隠れてしまい、一緒に探すように命じられた時もあったのだが、その時のすずめちゃんは天井に張り付いていた。
にんにん。
それを見た私は、すずめちゃんの身体能力の向上にこのおいかけっこは丁度良いのではないかと思った。
また漢麗様は私にも興味を持ち、座っていると私の体を小山に見立てて登るような遊びに興じた。
小さな漢麗様からすれば、私の体は丁度良い障害物であるらしかった。
ただ、容赦なく髪の毛を引っ張って上ろうとするのが少し辛い。
そして登り終えると私の足の上に座り、いつの間にか寝息を立てているという事が何度かあった。
コウロ……。
漢麗様曰く、高呂と書くらしい。
その彼女が相変わらず私達を警戒しているようなのは気になるが……。
彼女が私達に害を成すような事はないだろう、と私はこの数日で判断した。
というのも、彼女が本気で漢麗様の安否を気にしている様子だからである。
ケイキョウのように言葉だけでなく、態度にそれが表れていた。
すずめちゃんとの追いかけっこでも、私登りの時にも、怪我をしないかと心配そうに見ている表情は、護衛としての職分を超えた過分な心配であるように見えるのだ。
それらの事情もあり、私達は平穏な日常を送っていた。
そんなある日の夜。
私は夜の闇に紛れ、宮殿を警備する人間に悟られぬよう外から後宮へと帰りついた。
黒い衣で体を纏い、その顔には仮面を付けていた。
「おかえりなさい」
建物に入ると声がかかった。
見ると、柱に寄りかかったアードラーが私を見ていた。
「寝ていなくていいの?」
「動けるなら動いた方がいいのよ」
「でも、心配だ」
「あなた、自分がヤタの生まれる直前まで何してたか憶えている?」
私は何も言えなくなった。
「それで、どうして外へ?」
「もちろん、情報収集。ここでの情報収集は、漢麗様の周囲から探る以外にできないからね。高呂からスパイとして疑われている以上、あまり詳しく聞くのもよくないだろうし」
「何かわかった?」
「この宮殿がバカみたいにでかい事と、内と外であまりにも生活水準が違うというのがわかったよ」
私はアードラーに外の様子を語った。
天子様のお膝元であるため、それなりに町が栄えているのはわかった。
宮廷で働く者や一部の裕福な豪商が利用するであろう高級店が、宮殿の周囲には多く軒を連ねている。
その周辺には町を警備する兵士達の詰め所が配されていて、治安も悪くない。
しかし、宮殿から離れれば離れるほど、それは様変わりしていく。
並び建つ店の格は落ちていき、店先には店が雇ったであろう自衛のための護衛が立つようになっていく。
次第に灯りは減っていき、闇が目立つようになる。
そして宮殿から、都の入り口までの距離を三分の二ほど過ぎれば、もはや栄華という言葉は消え失せる。
店や家屋はあるのだが、灯りの類は一切消える。
見かける人間の人相は悪く、生傷の目立つ者も多い。
これ見よがしに武器の類も持っているが、それを見咎めるべき兵士の姿がそもそもない。
少し歩けば十分と経たず、そんな賊まがいの連中に絡まれる。
大変な治安の悪さである。
ここまで荒んではいないが、こういう場所はアールネスの王都にもあった。
だからそれを悪いと言う事は私にできないが……。
問題は、そこからさらに先である。
一切の人を見なくなるのだ。
いや、正確には人はいる。
生きている人がいなくなるのだ。
営みの痕跡はあり、誰も住んでいないわけではないのだろうが……。
そういう人間は息を潜めて隠れているようだった。
運よく、と言っていいのかわからないが、見つける事のできた死体は痩せ細って骸骨のようだった。
死因は飢えだろう。
そう思ってその場を離れた。
すると、少しして何かの物音がして、振り返ると死体を持ち去ろうとする複数の人間が見えた。
皆、先ほどの死体のように痩せ細った人間ばかりだった。
埋葬する。
というわけではないのだろうな。
そんな予感を覚えながら、今度こそ私はその場を離れた。
「馬車でここに来るまでの光景。それに、この都で私が見た光景。これらを見る限り、この国には飢饉が蔓延している」
「都にまでその痕跡があるのは、かなりまずい状態のようね。飢饉の原因は何かしら?」
「きっかけはわからない。日照りか、蝗害か、冷害か……」
「自然現象だけが飢饉の原因とは限らないわよ」
というと? と私は無言で言葉を促す。
「過剰な徴収、とか……」
統治する人間に問題がある、か。
「いずれにせよ、それらが放置されているなら、現状を作り出しているのは統治する人間には違いない、か。この都ですら目に見える形で害が出ているんだ。知らないはずがない」
アードラーは顎に手を当てて小さく唸る。
「天子様……違うわね。実際に政治を取り仕切っているのは、その側の人間達でしょう。膝元の都ですら対応できていないなら、無能この上ないわね」
「……いや、むしろ有能なのかもよ」
意図を汲みかねた様子で、アードラーは私に怪訝な顔をする。
そこにすぐ思い至らない所は、彼女の魅力だ。
「自身の財を溜め込む事にかけて」
「自分の利を尊び、他人の苦痛を思い遣れないのは一種の才能かもしれないわね」
そう言って、アードラーは苦笑する。
「ともあれ、今の状況は国の根が腐っているようなもの。あまり、ここも安全じゃないかもしれないわね」
「そうだね」
この朱雀国という大樹は、早晩朽ちて倒れるかもしれない。
宮廷の腐敗を住処とする者にとって、腐敗は居心地の良い根城だ。
今は私達もその腐敗に居所を得ている。
しかし、その腐敗の中で生きていけない者の方が多い。
簡単に言えば、都の外にある民達だ。
彼らの不満は多く、今でこそその不満を溜め込む事しかできないだろうが……。
もし、ここに不満の捌け口を示す事ができる人間が現れればどうだろう?
三国志風に言えば黄巾の乱のように、散漫たる不満の方向性を一所へ向けられる存在が現れれば……。
反乱が起きるかもしれない。
そして私達は、それに対して何をする事もできないか……。
漢麗様への恩返しは、その時の救出になるかもしれないな。
「それで、東の様子については何かわかった?」
アードラーの問いに、私は首を左右に振った。
「一応、店をいくつか見て回ったけど倭の国の物はなかった。朱雀国はハンという国の領土に囲まれているらしい。その範囲がどの程度かわからないけれど、海までは押さえられてないはずだ」
それは出される食事からわかる。
時折、料理に海鮮の類が出るのだから間違いない。
それでも倭の国の物がないという事は、やり取りがないという事なのだろうか。
「言葉がわかればもっと調べられたんだけど……」
うちの翻訳アイテムは今、天子様のマスコットキャラになりあそばしていらっしゃる。
噂では閨まで一緒という寵愛ぶりなれば、こっちに帰ってくる事はないかもしれない。
「長くいる予定だし、いっその事言葉を覚えようか」
「それがよさそうね」
漢麗様が後宮へ遊びに来る事は珍しくない事柄となっていた。
しかしながら、『こよいはここでねむるぞ』とお泊り宣言をしたのはその日が初めてである。
漢麗様がそう仰るなら、私達に是非はない。
そもそも用途として間違ってもいない。
ちなみに、護衛として高呂もついてきた。
『ここはほんらい、こうていがおなごとしんじょをともにし、めでるばしょらしいときいた』
「まぁ、そうでしょうが……」
私は漢麗様の足元にいる雪風に小声で意訳を頼み、すっと高呂の側に寄った。
「漢麗様は寝相が良い方ですか?」
『……よろしくないほうだ』
身重のアードラーと同衾させるのは少し不安だな。
「アードラーは子に障るかもしれませぬので、私とすずめちゃんの三人で眠りましょうか」
『うむ! いたしかたないことじゃな!』
そうして、私とすずめちゃんは漢麗様と床を共にする事となった。
まぁ、当然なのだが漢麗様のおっしゃる「愛でる」が本来の意味であるはずもなく、彼女の期待はどちらかというと友達と行うパジャマパーティの如き様相なのだろう事は明白であった。
しかしながら、朝早くの訓練でこの時間はもうぐっすりと眠っているすずめちゃんは今にも目を閉じてしまいそうになっており。
興奮して話しかけ続ける漢麗様の言葉を疎ましく思っている様子だった。
そんな様子を察したので私が漢麗様に寝物語を聞かせた。
寝物語と言っても、要はおとぎ話だ。
ウサギとカメを話し聞かせた。
少なくとも、この辺りでは聞かぬ話だろう。
漢麗様は私の話を夢中で聞き始めた。
その間に、すずめちゃんは完全に眠った。
そして大人しく話に耳を傾けていた漢麗様も、ウサギが居眠りをした辺りで同じく眠ってしまっていた。
部屋の端。
護衛のために控えている高呂殿を一瞥すると、私も目を閉じた。
朝となり、眠気眼を擦りながら女官達に連れられて帰った漢麗様であったが。
後宮での一夜が大層お気に召したのか、連日連夜後宮へ訪れるようになった。
私は毎夜、閨でおとぎ話を聞かせた。
漢麗様はいつも話の途中で眠ってしまわれるが、それでも毎日話をせがんだ。
……ヤタには、こういう話を聞かせてあげた事があまりなかったな。
ヤタが眠る時には、横に寝そべってその手を握った。
握っているだけで安心するのか、すぐに寝ついた物だ。
などと思っていると、私は思わず漢麗様の手を握っていた。
漢麗様は少し驚いた様子だったが、その顔が嬉しそうな笑みに変わった。
そして少ししてすぐに、眠った。
眠っても握る力は強く、まるで絶対に放すまいとしているかのようだった。
「まぁま……」
小さく、漢麗様は呟いた。
……もし、この国が近く滅びるとすれば、この子はどうなるだろう。
乱のような猛威からは救い出す事ができる。
けれど、その後はどうなるだろう。
生きていけるのだろうか?
そうなれば、この子も旅路に連れて行く方がいいのだろうか。
今まで考えなかったそんな事が、頭を巡った。
ある日の事。
漢麗様と共に、ケイキョウが後宮へ訪れた。
後宮に立ち入る事ができるという事は、彼は宦官なのだろう。
十常侍みたいな感じなんだろうか?
……あれかな?
真っ黒こげにされてもカットごとに少しずつ回復していったりできるのかな?
たまたま後宮と宮殿を繋ぐ渡り廊下にいた私は、一番にそれを出迎える事になった。
『てんしさま、わたくしはすこしこのかたとはなしがございます』
そう、ケイキョウは申し出る。
私に話?
なんだろう。
『そうか、ではゆきかぜはおいていくことにしよう』
そう言って、漢麗様は高呂を伴って後宮へ歩いていった。
「それで、御用とは?」
『てんしさまは、このくにでもっともとうときかた……』
「存じております」
『いこくの、だれかもわからぬものがちょうをうけるということはためにならぬ』
「左様でございますか」
『ぶんふそうおうなことをするでないぞ。でなければ、そなたも、そなたがだいじにしているものたちもふこうにみまわれるやもしれん』
調子に乗るな、と……。
なるほど、刺激しすぎたらしい。
釘を刺しに来たというわけだ……。
「よおく存じ上げております」
私はケイキョウに笑顔で答えた。




