三話 これからの事について
後宮はとても広かった。
大き目の村がすっぽりと入る規模の土地に、十を越える家屋が軒を構えている。
しかし、その家屋のどこにも人の気配はなかった。
それについて案内してくれた人に訊ねてみたかったが、残念ながら雪風がいないので言葉がわからない。
案内された部屋の家具はどれも意匠の凝らされた一級品だ。
明らかに掃除が行き届いていないようであるが、最近まで使われていたようにも見える。
恐らくは、先帝の妾が住んでいたのだろう。
代替わりして、どこかへ移されたか……。
それでもおかしいか。
帝が代替わりしても、後宮には誰かしらのこるのではないだろうか。
帝の母親とか。
ともかく、生活するには申し分ない場所だ。
部屋に着いたアードラーはすぐに寝台へ横たわり、今一度典医の診察を受けた。
妊娠で体力的に弱っている以外に、何事もないそうだ。
それを聞いて安心する。
「ようやくゆっくりできるね」
寝台の横へ椅子をやり、座りながら言う。
「ゆっくり、ね……」
「ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりで」
「何ヶ月もここにいなきゃならないなんて……」
「それは違う」
私はアードラーの言葉を否定する。
「何年か、だよ」
困惑したようにアードラーは私を見た。
「生んですぐにここを発つつもりだった? 無理でしょ。赤ん坊連れて旅なんて」
「でもあなたは、少しでも早く帰らなくちゃならないのに!」
「私は今の年頃のヤタと旅なんてしたくない。危険すぎるから」
言いながら、そばにいたすずめちゃんを抱き寄せる。
「すずめちゃんだって、本当なら家に置いてきたかったくらいだ」
言うと、すずめちゃんは私を見た。
そんな彼女に笑顔を作る。
「で、今丁度、安全に生活できそうな場所ができた。だったら、いっそ二人とも旅に連れて行っても問題ない歳までここで暮らしたっていいでしょうよ」
「そんな……私のせいで……」
ああ、やっぱり気にするか。
アードラーはきっと気に病むと思ってたよ。
「私だって、自分のせいでアードラーの子供が死ぬ事になるのは嫌だよ」
自分のせいで相手を困らせる。
それを嫌がるなら、私の気持ちもわかるでしょう?
と私はアードラーを見る。
アードラーはその意図を察したのか、沈痛な面持ちで顔を俯ける。
理解してくれたようだ。
私は椅子から、寝台へ腰かけ直す。
「ヤタは今、寂がっているかもしれない。でも、一人じゃない。アルディリアがいる。父上や母上だっているんだ。寂しさを紛らわせてくれる相手はいくらでもいる」
「あなただって寂しいでしょう」
「寂しくないね。だって、アードラーがいるから。すずめちゃんがいるから。あと、雪風も」
「そう……」
アードラーは黙り込む。
私はそんな彼女を抱き寄せた。
アードラーは私の肩に頭を乗せる。
「大丈夫だよ。何も心配なんてないんだ。誰かに責任があるわけじゃない。今回の事は、誰も悪くないんだから」
「……ええ、そうね」
……私は嘘を吐いた。
本当は、寂しい。
ヤタは寂しがっているかもしれない、か。
間違いなく寂しがっているよ。
私との時間を取り戻すために、未来からやってくるくらいなんだもの……。
そりゃ、寂しかっただろうさ。
あの未来が実現しないよう、努力はする。
けれど、ここで過ごす数年の間は、その寂しさを強いる事となるだろう。
悔しいな……。
「カンレイ様はこの国の王様、という事でいいのかしら?」
寝転んでいたアードラーが、不意にそう問いかけてきた。
少し時間を置いて、気分が落ち着いたのかもしれない。
身を起こそうとするアードラーの背中を支えて、起き上がらせる。
「そうだね。皇帝陛下だ」
「じゃあ、今どうしてここにいるのか、詳しく説明してくれるかしら?」
これまでの事情を完璧に把握しているのは、雪風を介して話を聞いていた私だけだ。
道中の馬車である程度の事は伝えてあるが、宮殿へ着いてからの事は把握できていないのだろう。
私は今いる場所が後宮であり、そうなるきっかけとなった漢麗様とケイキョウの会話内容を伝えた。
「ふぅん、あの男はケイキョウと言うの……」
アードラーは額に皺を寄せて口にする。
「クロエは気付いていると思うけれど、あの男には気をつけた方がいいわよ」
「胡散臭かったからね」
「……ええ、そうね。どうして気をつけるべきなのか具体的に説明したかったけど、現状ではそうとしか言えないわね。ただ、お父様なら間違いなく陛下から遠ざける人材よ」
お義父さんか。
アードラーの実父、フェルディウス公はアールネスにおいて王様の側近をしている人だ。
立場としても国のナンバー2である。
フェルディウス家は代々、そうして王様に仕えてきた家系らしいのでアードラーもそういう教育は受けているのだろう。
「教育の一環で、私はお父様の仕事ぶりを見学していた時期があるわ。人事の場にも何度か立ち会ったのだけれど……。たいしたやり取りも無く閑職へ追いやった人間が何人かいたの」
面接に行ったら「採用。お前今日から窓際な」と言われたでござる。
という感じだろうか?
会社への就職と違って、城で働いている人は初めからそうなるよう決まっている貴族の子弟ばかりだ。
採用が決まっているから、解雇ではなくそんな感じになるのだろう。
つまり、一目見て見切りをつけたという事だ。
「それで?」
「あのケイキョウという人、その閑職にやられた人達と似た雰囲気があるわ」
「お義父さんは、どうしてそういう人を閑職に追いやったのだと思う?」
「私も、完全に理解しているわけじゃないわ。でも、忠誠心の有無じゃないかしら?」
確かに、ケイキョウが漢麗様に心から忠誠を誓っているようには思えない。
「優秀ではあるんだろうけどね。漢麗様がいなくても、国を切り盛りできているんだから」
「優秀なだけ、でしょうけどね。国に必要な人材は、どれだけその才を国へ割ける人間か、よ」
なるほどね。
その格言めいた言葉も、お義父さんの言葉だろうか。
「ケイキョウの場合は、それが行動にも表れている」
「……漢麗様をそそのかして物見遊山に行かせた事?」
皇帝は政治の中枢だ。
それを何週間も空席にする意図は、思うままに権勢を振るいたいがためかもしれない。
いや、漢麗様が居ようが居まいがそれは変わらないのだろうが……。
見咎められたくない何かをその間にしたのだろうか?
「それもあるけれど、私達を後宮に入れた事もそうね」
「私達を?」
「普通、後宮に入れるなら素性の明らかな者を選ぶ。後宮に立ち入れる人間は限られ、どうしても内部への警戒が緩むのだから。カンレイ様の意を汲みつつ、安全を第一に選ぶなら後宮は適していない」
得体の知れない相手を中に住まわせるという事は、後宮の主たる漢麗様の安否に関わる、か。
「それでも後宮に入れたのは、あなたの存在が大きいと思うわ」
私?
「カンレイ様はずいぶんとあなたを気に入っているようだから。同じく重用されているであろうケイキョウとしてはそれが面白くなかったのでしょう。というより、自分の領分である政に口出しされるのが嫌だったのかも」
「後者の方が濃厚だよ。後宮にいる人間が政に口を出すものではない、と漢麗様に言い含めていたし」
私が漢麗様に重用されて、やがて政にも口を出すかもしれないと危惧しているのか。
「まぁ、口出しされたくないというなら望み通りにするさ。こっちは、安全さえ確保できればそれでいいんだから」
こちらとしてはむしろ都合がいい。
権謀術数渦巻く宮廷の中、幼い女帝の後宮ほど安全な場所もないだろう。
大人しくしていてほしいなら、大人しくしているさ。
「だといいのだけれどね」
歯切れ悪くアードラーは言う。
「何か懸念が?」
「何もしていなくても、目障りになるという事もあるという話よ」
「気をつけるよ」
「私もできるかぎりそうするつもりよ」
すずめちゃんを見ながら、アードラーは言った。
アードラーとしては、今もっとも守るべきはすずめちゃんか……。
なら私は、そんなアードラーとすずめちゃんをまとめて守るとしよう。
「……それで、何年くらいここにいるつもりなの?」
気を付けたのだろうが、そう問いかけるアードラーの声は硬かった。
「少なくとも十年くらい居たいかな」
「長いわ。それじゃあ、本当にいつ帰り着けるかわからないじゃない」
十歳にも満たない子供を旅に同行させるのは不安でしょうよ。
とは思うが、アードラーは今焦っている。
そんな彼女を説得するための言葉は、当然用意していた。
「今のは私の希望。漢麗様もいずれは年頃になる。場合によっては、そう長い間ここに居られるとも限らない」
漢麗様は女性だ。
なら、後宮の中身も異性という事になる。
今は向こうとしても一時的な措置でしかないという事だ。
漢麗様と同性の私達がいつまでもここにおいてもらえるとは限らないのだ。
「ここに住まわせてもらっている間、私はやっておきたい事がある」
私は相手を安心させるように、極力余裕のある笑みを作って答えた。
「実はこの国、倭の国の近くにあるかもしれないんだ」
「え、そうなの? どうしてそんな事がわかったのよ」
「倭の国に居た時と、星の位置が似ている気がするんだよね」
本当は前世での知識を元に言ったのだが、説得力を持たせるためにそう答えた。
正直、オルタナ達の森があるため、全面的に信用する事はできないのだが。
この国が私の知る世界と同じ位置にあるとすれば、東の海を渡れば倭の国があるかもしれない。
「多分、この国は倭の国の西方にあると思う。だから、東に向かっていけば倭の国に行けると思うんだけど……」
ぶっちゃけると、海を渡るのが怖い。
今の私は歴史に縛られているから。
もし私の想像通り東に倭の国があるとすれば、そこから数ヶ月の船旅でアールネスへ帰れる。
しかし、未来の私は十五年間、行方不明になっているという。
その歴史を実現するために、その修正力が私の邪魔をするという事は考えられた。
具体的に言えば、海を渡る時に船が難破してまたどこかわからない場所へ漂着するのではないか、と懸念している。
私一人ならどうとでもなるが、子供達が巻き込まれて命を落とすような事になるのは避けたい。
だから、どうしてもアールネスを目指して進むなら、極力陸路を選びたい。
地に足が着いていれば、何か思わぬ事に巻き込まれても対処しやすいからだ。
実際、倭の国から見てアールネスは西にあるので、西へ陸路で行くのは悪くない選択肢だ。
まぁ、陸路でも最短距離で帰っていると、またどこかでよくわからない場所へ飛ばされるような気がするのだけど。
「私の推測が正しいかどうか、情報を集めてみようと思う。ここほど、国の情報が集まり易い場所もないだろうから。それで東に倭の国があるとわかれば……」
「そこを経由して最速で帰れる!」
アードラーが言うと、私は頷いてみせる。
「つまり、ここに留まって情報を得る事が一番の近道だ、とあなたは考えているのね?」
「うん。私は、帰る事を諦めていない。今動けないなら、動けないなりに一番早く帰れる方法を探るつもりだ」
心の内にある懸念はおくびにも出さず、私はアードラーにそう言った。
「わかったわ。悔やむだけじゃダメよね。挽回できる方法を考えないと」
「その方がいい」
アードラーの表情に笑みが戻る。
「この国の東方については私が調べるとして……。その間、アードラーは子供の事に専念する事」
「……わかったわ。今の私では、足手まといだものね」
「拗ねないで」
「拗ねてないわよ。悔しいだけよ」
不機嫌そうに強張ったアードラーの頬をつつく。
それを嫌がったアードラーが顔を背けて口を開いた。
「当面の目的は、その二つくらいでいいのね?」
「……いや」
肯定しかけ、思い出して否定する。
「漢麗様への恩を返す。これは一番優先すべき事だ」
たとえ帰るための目処が立ったとしても、これだけは必ず果たしておきたい。
「わかったわ」
アードラーは強く頷いた。
さて、これで今後の方針は決まったけれど……。
「おれは、何すればいい?」
すずめちゃんが私の顔を見上げて訊ねた。
その視線はまっすぐで、表情は真剣だ。
「そうだねぇ……」
せっかく、長く留まれる場所ができたわけだし……。
「すずめちゃん。せっかくだから、本格的に闘技の稽古でもしようか」




