第一章2 『エルザライト』
「エルザライト……」
突然な事に、言われた言葉を繰り返すドライグ。
こんな大雨で、風も吹き始めた荒れ狂う天気の中で、深紅の瞳がドライグの瞳を捉える。
何が起きたのか頭の中で整理をするが、打ち付ける雨粒が服に染み込み、体温を奪われてしまい思考回路が上手く働かない。
こんな田舎風景に似合わない赤黒いドレスを身にまとい、雨を寄せ付けない謎の光、一体何がどうなってるのか。
何か喋ろうと言葉を探すが見つからない、いや、見つからないのでは無く喋れない。
鋭い眼光から目を離せない、身体が動かない。
怖い、怖い、怖い。
逃げる行動にすら移せない、蛇に睨まれた蛙のように足が岩のように重く、足掻く事すら不可能。
エルザライトと名乗る彼女も、ずっとドライグを見続けている。
頭で考えるより先に警告音が鳴り響く、だが動けない。
この状態が数秒、実際より長く感じたが、彼女は視線を離すと。
「お前、中々良い目をしているね」
「な、なにが」
ようやく出せた声は掠れた音だった、喉が乾き、貼り付いてしまっていた。
彼女はドライグの言葉の問に答えずに、ある場所に視線を移す。
それは、ドライグが持っている錆びた剣。
これを返せば終わる話かもしれない、まだ彼女の物とは決まっていないが、とにかくこの場を終わらせたいと、ドライグは剣を彼女に差し出す。
「こ、これ。貴女のですか? か、返します」
「…………」
差し出してきた剣を受け取らずに、ずっとそれを見続ける。
カタカタと震えているドライグの手、寒さか恐怖か、どちらかわからない。
受け取らない剣を持っている手が疲れ始める、意外と重く、腕が下がり始める。
その時だった。
「腕を下げるな」
「は、はぁ?」
「腕を下げるな、そう言っているのよ」
「くっ、一体何が言いたいんだ!」
もう頭の感覚が麻痺を始める、ドライグは初めて人に刃物を向けてしまう、錆びていても簡単に人は切れる。
戦い方何て何一つ知らないドライグ、それでもピンチなのは変わらない、助かるためなら何だってする。
構えられ、刃先を向けられても腕を組み、ドライグを上から見ている彼女は。
「主に逆らうの? そんな構えで切れるの?」
「だ、だったら! うわぁぁぁぁあ!!」
つい挑発に乗ってしまうドライグ、切るより身体に刺す構えで、一直線に彼女の腹目掛けて剣を押し込む。
やってしまった、ドライグは瞼を強く閉じたまま彼女に体当たりをする形で刺した。
なんとも言えないどす黒い霧が、頭の中に出現する。
罪悪感、人を殺してしまうと必ずある言葉、ちょっとした悪戯でも罪悪感は出てくるのに、人を殺めてしまえばどんな気持ちになるのか。
ドライグはゆっくりと瞼を開き、刺したであろう彼女の様子を見る。
確かに、剣は綺麗にドレスを貫き腹にねじ込んでいた。
――なっ!?
初めて人を刺したショックから、吐き気などを催す寸前の事だった。
必ず起きる事が起きない、それを頭で理解するのに10秒も掛からなかった。
確かに刺した腹、しかし溢れ出てこない。
さらに言えば刺した感覚が無い、これはどういう事なのか。
「な、なんで……」
「ふ、ふふふ」
「う、うわぁあ!?」
思わず剣から手を離し、後ろに下がる時に何かに躓き尻餅をつく。
支えられる物を失った剣は、刺している筈の腹から足元へすり抜ける様に地面に落ちた。
彼女は落ちた剣を拾い、自分の腕や首筋、頭を刺す仕草をするが全てすり抜けている。
ドライグは確信した。
――人間じゃないのか君は!?
絶叫するように彼女に言い放つ、特に驚く様子もなくただただ、ドライグの瞳をじっと見ている。
尻餅をついたまま動けない、気がつけば雨は上がっている、太陽の光も雲の隙間から差してきた。
その光はスポットライトのように、彼女、エルザライトを照らす。
「今のでわかっただろう、お前は選ばれた」
「い、意味がわからないよ」
「口答えはするな下僕」
「うっ……」
いきなり下僕と言われるドライグ、彼女がこちらに近づき剣を渡してくる。
だが、ドライグは受け取らない、受け取れば何かある。
人間の本能的な拒否行動、受け取れば最後、きっと何かが起きてしまう、そんな予感を感じてしまう。
のんびりとした旅が終わってしまう、考えがまとまらない。
「ここまで拒否をする下僕は、お前が初めてだ」
「…………」
諦める様子など無い、むしろ高圧的で、目でドライグを捕まえている。
どうすればいい、どうしたらいい。
味方は居ない、慈愛に満ちたあの笑顔をする母すらいない、このまま拒否を続ければ終わるのだろうか、それは命の火が消える事なのか。
それとも今の状態が終わるのか? 崖っぷちのこの状態ではやはり頭は考える事をやめてしまう。
すると。
「世界を救う、旅に行きましょ?」
「!?」
今でも覚えているその台詞、その言葉。
リュックサックに入っている絵本の、妖精が旅人に口にした言葉。
彼女は妖精なのか? 妖精にしては程遠いドレス姿に、女王の様な威厳と冷徹な表情。
こんな妖精が居るものか、これは悪魔だ、悪魔に違いないんだ。
自分にそう言い聞かせるが、これが夢だとしたら?
長い長い、そんな夢だとしたら、受け取っても直ぐに目が覚めるんじゃないのか。
頭が軽はずみな判断をしてしまう、そうなると、手は勝手に剣へと伸びて行く。
夢じゃないかもしれない、現実かもしれない、それでもいいのだろうか。
手はゆっくりと剣を握られる位置まで伸びる。
絵本の旅人は、躊躇わずに妖精を助けるために、夢であっても決意し世界を救った。
「俺でも、世界を……」
「えぇ、お前でも救える何かがあるわよ」
守りたいと思った人は、決意したその日に居なくなった、正直守りたいものは何も無い、だが自分が生きてさえいれば出来るかもしれない、守りたい何かを、存在を。
伸びた手は、震えながらも剣をしっかりと握ってしまった。
―――契約成立よ、下僕。
それを告げると、握った剣が爆発的な光を放つ。
閃光が走ると同時に、眩しさに目を瞑る、瞼越しに光が見える。
それも数秒の出来事、閉じた瞼は普段の様に闇を映し出す。
怖いものを見るようにゆっくりと視界を開けていくと、先程まで錆びていて折れていた剣は。
「な、なんだこれ、剣じゃない?」
「それは、刀よ」
「カタナ?」
ドライグの身長は174センチ、その刀は身長の半分より上くらいまである長さだ。
見た事の無い武器、薄く長く簡単にへし折れてしまいそうな刃、さらには電気を帯びている。
何もかもが突然過ぎる、展開が早すぎて下手な紙芝居を見ているようだ。
「お前、名は?」
1人何も付いていけていないドライグに、妖艶な笑みを零しながら問いかけてくる。
「ドライグ、ドライグ・ヴァンホッセン」
「ふーん、面白い下僕を拾ったわ」
何が面白いのかさっぱりなドライグ、驚き過ぎていよいよ落ち着きを取り戻し始める。
大雨を降らした雨雲はとっくに居なくなり、日差しが眩しく照りつけ始める。
尻餅から立ち上がり、ドライグは彼女、エルザライトの瞳を見つめながら。
「本当に何もわからない、だから教えてくれないか」
恐怖心は少しある、だがこれも運命かもしれない、あの絵本の通りにハッピーエンドになるかもしれない。
または逆かもしれない、でも立ち止まって居ては先に進めない。
だから勇気を振り絞って、エルザライトに話しかけた。
「下僕の癖に生意気、付いてきなさい豚」
「下僕なのか豚なのか……」
始まったばかりの旅、いきなり慣れる訳が無いし、怖い。
ドライグは、先に歩きだした彼女の背を見ながら、歩きだした。