谷さんは知らない
「人生、山あり谷ありだから。楽しいこともあれば、苦しいこともある。山や谷を乗り越えてこそ、立派な大人になれるんだ」
いつぞや――たしか、中学二年生の夏休み前だったか――先生が、全校集会でそんなことを話していた。その前後に生活習慣だとかその他諸々、いろいろ話していたような気もするけれど、正直よく憶えていない。ただ、その一文だけはよく憶えている。
(でもさあ、先生。山あり谷ありって言ってもね、あたしの人生はいたって平凡な道で、見上げるほど高い山も、見下ろすほど低い谷もありゃしない。せいぜい少し盛り上がった丘か、誰かが掘った落とし穴にハマるくらいだよ。――つまりなにか、あたしは一生、その立派な大人とやらにはなれないのか!)
そんなことに思い当たって、愕然としていた記憶がある。
――谷百花。高校二年生。名前の可愛さに反比例するような平凡顔。せめて顔に合った地味な名前にしてほしかったな、なんてことを正直思います。友達は普通にいるし、授業も普通に受けるし、テストの点数はほぼほぼ平均。運動も美術も音楽も、下手じゃないけど上手くもない。何が個性? と訊ねられても困ります。あたしだって知りたいよ!
生徒指導らしき先生が、むっすりした顔で突っ立っている横を、無意識に肩を竦めながら通り抜け、下駄箱でローファーからスリッパに履き替えると、一段跳びで階段を駆け上がる。一年生の教室は、何を隠そう、最上階の三階なのだ。年功序列の精神は、こうして子供に植えつけられる。
鞄を机にどさりと置くと、中から教科書一式を取り出し、机に入れようとして、――止まる。
(ああ、しまったな)
頬を赤くして、再度教科書を鞄にしまう。そういえば昨日、席替えをしたんだった。忘れていた。自分の席は、ここのひとつ前。若干近い分、余計に分からなくなる。
「そこ、俺の席」
誰かに指摘される前に、という願いも空しく、本来の机の主が現れたようだった。「ごめんなさい、間違えた」と小声で呟くように言い、乱雑に鞄を移動させる。俯いたまま教科書を本当の自分の机へ入れていると、背後の彼も同じく鞄の中身を移動させている気配を感じた。意外な気がする。なんというか、置き勉をしている気がしたのだ。こういう、キラキラしている人は。
山田琥太郎という、苗字と名前が妙な不釣り合いを見せる彼は、クラスでも目立つグループの人間だ。あたしと違って、勉強もできれば運動もできる。天は二物を与えられた。彼は“虎”の名を冠する通り、厳つい顔をしている。まるで歴戦の戦士のようだ。
――こういう人であれば、険しい山を乗り越え、深い谷も唇を噛み締めて登っていくのだろう。
む、と唇を結ぶ。最近はどうも、僻みが強くていけないな、と思う。
諦めてしまえばいいのに。自分は所詮、平々凡々の真ん中を歩く存在なのだから。別に不幸な訳でもない。人並みに幸せだし、きっと大半の人が同じようなものだ。
それでいいじゃないか、と思う反面、何かが起こらないかな、という気もしている。
例えば、――そうだなあ、異世界に召喚される、とか、どうだろう。特別のスタンダードって感じだ。
自分のあまりに空想的で短絡的な妄想に、知らず口が緩む。それを人に見られないようにと俯いた拍子に、視界の端に、キーホルダーのようなものが落ちていることに気付いた。まあるい、まるで緑の宝石のような輝きを放っているそれを、蔦のような銀色が支え、チェーンに繋がっている。
高校生が持つには、不釣り合いなものだと感じた。けれど大人が持つにも不釣り合い。それはあまりにも神秘的で、明らかに高級そうだから。
誰かの落し物だろうか、と拾い上げると、「あ」と背後から声が上がった。
「それ、俺の」
言うなり、山田くんに奪い取るようにひったくられる。別にそんなことをしなくても、盗ったりしないのに。失礼な人だな。いかに特別な人であったとしても、礼儀知らずは嫌いだ。
「壊れなくて良かったね」
嫌味がてら――けれどそうは聞こえないように言い放てば、虚を衝かれたような顔を向けられた。
「なに?」
「や、別に。――拾ってくれてありがと」
「……どういたしまして」
本当に、なんだっていうんだろう。特別な人は、よくわからない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
平凡なあたしの、唯一の趣味が、散歩だ。
道端に咲いている花を見ていると心が洗われる気がするし、空の色は、なんであれ素敵だ。通り過ぎていく話し声も、自分から流れ出てくる汗も、全てが世界を構成している気がするから、好きだ。
なんでもない日常の、その一片でしかない“あたし”は、しかしそのなんでもない日常の外し難い構成要素のひとつでもある。
狭い路地に入り込み、住宅街の只中をゆっくりと進む。まるで道に覆い被さるような緑を両脇に従えて、石造りの道を進む。ここは車は進入禁止だ。今の暑い時期、わざわざ外を徒歩で闊歩する“馬鹿”は少ない。あたしは自由に進む。調子に乗って、目を瞑りながら息を大きく吸い、その場でくるりくるりと回転していると、予想外に近くから、カン、と石を蹴る音がした。身体を強張らせる。
「……谷?」
名を呼ばれ、肩を震わせる。まさか相手が自分の名前を知っているなど、誰が思うだろう。しかもこの低い声、聴き覚えがないこともない――いや、名前を知られている時点で、当然あたしが相手を知っている可能性も、十分あるわけで――。
恐る恐る振り返ったあたしは、その場でムンクの叫びのような顔をしそうになった。根性で堪えた。
「や、や、山田くん。こん、にちは……?」
学生服とは違う、ジーンズにシャツを合わせたシンプルな出で立ちでも、彼は閑静な住宅街で浮いていた。いっそ彼の周囲を、妙な光が囲んでいるような気さえする。ああ、魔法使いみたいだなあ、と現実逃避気味に考える。
というか、どこから出現したのだろう。さっきまでは確かに誰もいなかったのに。
(いや、それよりも今の踊り、見られた……?)
居心地の悪そうな顔に、「あ、見たんだ」と悟った。スカートをぎゅうっと握り締めて、俯く。顔が熱い。火が出ているのではなかろうか。
「そ、それじゃ……また」
ろくな会話ひとつ交わせず、あたしはぎくしゃくと動き出す。一刻も早くこの場から離れなければ、あたしは憤死してしまうのではないかと思った。大袈裟だ、と言うなかれ。あたしの人生の谷って、大概、こういうレベルのものだから。
いやー、暑い、暑い。ぱたぱたと手で顔を扇ぐ。火照った頬に、微かな風が当たる。
――てっきりそんな偶然は、それが最後かと思ったのに、意外や意外、彼は神出鬼没であった。
ある時は、気分が上がって「らーらららー」と自己流のリズムを奏でている時、またある時は「雲つかめそうだなー」と空に向かって手を伸ばしている時――しかも、親指と人差し指を駆使して、真剣に雲を捕まえようとしていた時――。
とにかく、タイミングが悪い。なんでここまで、と思う程にタイミングが悪い。その度にあたしは逃げる。驚異のエンカウント率だというのに、会話などした試しがない。彼の中であたしはどんな人間なのだろう。確かめたくもない。
別に見せるためにやっているのではない。思い出した時には、ちゃんと前後左右を確認し、念のために空を見上げ、地面を見下ろした後にやっているし、忘れている時はそもそも忘れているのでどうしようもない。ただ、どちらの場合でも、運が悪いと遭遇する。回避不可イベントだ。非道だ。
おかしい。人の気配には割と敏感な方なのに。
灼熱の夏に風鈴で涼み、秋の訪れに虫の音に耳を澄ませていたら、コートで身体を包み、手袋で指先を守りながら、マフラーと耳あてによって顔を保護する必要がある冬がやって来た。
その日は朝から雪が降っており、道に薄らと積もっていた。シャクシャクと音を立てながら歩く。流石の山田くんも、この雪の中で遭遇することはなかろう。あたしは含み笑いをした。
――異世界に飛ばされたわけではないけれど。
この邂逅は、少しだけ“特別”な気がして、嬉しい。……断じて山田くんと会えることが嬉しいわけではない!
くすくす笑いながら、進んでいく。気付けば、初めて彼を見掛けたあの路地裏に来ていた。当然のように誰もいない。あたしは、くるくると踊り始める。目を瞑る。冷たさがより鮮明になる。息を吸う。冷たい空気が身体いっぱいに広がる。何回転かした後に、たたらを踏みながら足を止める。見上げた空から落ちてくる雪が、あまりにも綺麗で。ピト、と額に雪が落ち、水になって消える。腕を広げたまま、ずっとそうしていた。
平和だなあ、と思う。平和だ。平穏だ。何もない毎日。大きな山も、深い谷も無い。だからあたしはごくごく静かに生きている。それを平和だと思う。
鼻先に、少しだけ大きめの雪が落ちた。「つめた」と零すついでに、くしゃみをひとつ。
――ふわり、と。
人の温もりを持つ大きなコートが、あたしを覆い隠した。フードがあたしの目を隠す。雪の姿が掻き消える。
しばし状況把握に時間を要した。(あー、なんかこの香り、嗅いだ記憶がある)と変態チックに考える。誰だっけ。誰、と来た時点で、大概もう答えは出ている。
「…………っ!?」
あたしは途端に顔を赤く染め上げた。顔を冷やしたくてフードを取ると、肩からずるりとコートが落ちそうになる。慌てて両手で襟を押さえ、難を逃れた。普段ののったり具合からは想像が付かない程、早く動けた。やればできるのね、あたし。
振り返ると、思っていた通りの人物がそこにいた。非常に寒そうな格好で――非常に寒そうな表情で。
あたしは目を見開く。それから唐突に思った。なんの根拠があったわけでもなく、漠然と。
(ああ、この人、大きな山を越えて、深い谷を這い上がってきたんだな)
まるで死線を越えて来た戦士のような顔で、頬に入った赤い線など気にも留めないような顔で、――要は、あたしとはまるきり違う世界にいるような顔で、彼はそこに立っていた。
緑の光を放つキーホルダーが、彼の手の先で揺れている。
「今日、寒いね」
辛うじて奇行は見られていないはずだ、とアタリをつけて、初めてしっかりと話し掛ければ、彼は微かに目を見張ったようだった。
「ああ――」
彼は言葉に迷ったように口を噤んだが、結局のところ同じ言葉を選択する。
「寒いな」
寒い、ともう一度、何故だかひどく切なく泣きそうな声で、それでいて嬉しそうな声で、彼は囁いた。あたしをコートごと、まるで掻き抱くように抱きしめながら。
ショート気味の思考が、無意味な記憶を引っ張り出してくる。なんだっけ、そう、映画でこういうシーンあったな。危険地から無事に帰還した主人公が、愛する人と喜びを分かち合うのだ。――いや、もちろんあたしたちはそういうのではないけれど。
……ない、けれど。
彼の肩の向こうに、白が広がっている。あたしの足跡しか残っていない、白。
あたしはこっそり目を細める。
世の中には、特別な人間がいて。あたしは、至って平凡で。山田くんは特別で。
『人生、山あり谷ありだから。楽しいこともあれば、苦しいこともある。山や谷を乗り越えてこそ、立派な大人になれるんだ』
それを経験せねば大人にならないというのなら、あたしはずっと子供のままだ。一生大人になんて、なれない。彼以上の人間になれることなんて、一時すらも無い。どこに個性が? と訊ねられても、この先ずっと答えには巡り会えそうもない。
――それでもわかることはある。
背中にそっと手を回した。ぎゅう、と握る。
がんばったんだね、立派だね、って。言葉にしてしまったら、軽くなってしまうような気がしたから。
あたしよりも余程振れ幅の大きな道を歩んできた人に、あたしができることなんて、ひどく少ない気がしたから。
“伝われ”。
渾身の力を込めて、せめて、あたしは願った。
緑の光がいっそう光り、やがて鎮まっていくまで、あたしたちはずっとそうしていた。