第四章、殺人事件
「えー、と言うわけで、生命倫理をめぐる問題としては、いわゆる尊厳死や安楽死の問題があり、近年ではそれをめぐる裁判上の対立も発生しています。これに対して裁判所は……」
二〇一一年五月六日金曜日。連休と土日の間に一日だけ飛び地のようにある平日で、大半の生徒が「せっかくなんだから今日も休みになればいいのに」と思っているのが嫌でも伝わってくるのだが、それは教師側も同じようで、授業もどこか気だるげな雰囲気になっている。
十影も教師の単調な声を面倒くさそうに聞きながら、適当にノートを取っていた。
結局、あの後も十影に対する悪評は完全に収まる気配はなく、あの盗難事件直後ほどあからさまに指差されることは少なくなったものの、何となくクラスメイトからは近寄りがたいと思われているようだった。クラスで積極的に接触してくるのは大赤鬼トリオの三人くらいだ。
麟五もクラスでは十影に対して接触してくる事はまれで、基本的に放課後の部活の際に部室である旧美術準備室で会話をするのが通例になっている。もっとも、部活と言っても基本的に十影、麟五、早苗の三人で推理小説について語り合うだけだ。集まるのは学校のある日の放課後だけで、休日は基本的に活動なし。そういう意味では非常に気楽な部活である。
そんな事を思いながら、十影はぼんやりと連休前の部活の様子を思い出していた。
「麟五ちゃん、薦められた小説、読んでみたよ」
五月二日の夕方、玉村早苗は部室にやってくるなり麟五に向かってそう言った。設立から一ヶ月経って、いつしか麟五に対する呼び方も「金津さん」から「麟五ちゃん」に変わっているのだが、当の麟五は特に気にする様子もなく黙ってそれを受け入れている。というより、そういう事にまったく興味がないようだ。
その麟五はと言えば、相変わらず窓際に陣取って本を読んでいる事が多い。一応部長のはずなのだが会話も最低限しかせず、部活動を取り仕切ろうという気はまったくないらしい。
一方、十影はといえばなぜかミス研の副部長に就任していた。いや、正確には就任させられていた。もちろん、十影はそんなものをやる気などまったくなかったのだが、
「HR委員長と部活動の幹部は兼任できないの」
という理由から早苗が副部長になる事が不可能になってしまい、麟五は部長なので、必然的に残っているのは十影しかいなかったのだ。とはいえ、部長が部長なので特にやる事もなく、色々な折衝は役職に就いていないはずの早苗がやってくれるので、実質的にお飾りというか名誉職というか、そんな感覚になってしまっている。まぁ、十影にとってみれば願ったりかなったりではあるのだが、そんな十影は黒板の前に置かれた椅子に座って、椅子の前にある長机に頬杖をついて早苗と麟五の話をぼんやり聞いている事が多い。
ちなみに、ミス研結成後、さすがに部室がこのままの状況ではまずいという事で、早苗主導による本格的な大掃除が決行された。丸一週間ほどかかったこの大掃除の結果、積み上げられていた机や椅子、古い美術作品はすべて他の空き教室に撤去され、今ではいくつかの授業用机と長机が椅子とセットで長方形の形に整然と並べられている。とはいえ、肝心の人がいない上に三人が入口付近の机しか使わないので、奥の方は最近また埃がたまり始めているのだが。
また、生徒会がしぶしぶ支給したわずかな額の部費を使って早苗がカラーボックスをいくつか購入しており、それを部屋の隅において本棚にしていた。そもそも生徒会長の遠藤があの剣幕であるから部費は出ないのではないかと十影は内心思っていたのだが、どのような交渉をしたのか早苗はしっかりと部費をゲットしてきていた。この辺りはさすが元生徒会長というべき手腕だろう。このカラーボックスは早苗や麟五が持ち込んだ推理小説の置き場となっている。
「ねぇ、十影君。どれが面白そうだと思う?」
不意に、早苗が十影に対して何冊かの本を示して聞いてきた。十影は少し面倒そうに机の上に置かれた本を見る。置かれていたのは、坂口安吾の『不連続殺人事件』、高木彬光の『破戒裁判』に、夢野久作の『ドグラ・マグラ』と、作者も出版年もバラバラの小説だった。当然ながら、十影はその内容をまったく知らないし、題名だけ見ても随分個性的な小説であるという事くらいしかわからない。
「全部玉村が買ったのか?」
「ううん。麟五ちゃんのお勧め本。どれから読んだらいいか迷っちゃって」
十影はため息をつきながらも本を吟味する。
「確か、『ドグラ・マグラ』って前に金津が解説してたやつだよな。日本三大奇書の一角で、読んだら必ず気が狂うとか。気が狂う小説って、どんなだよ」
そう言いながら麟五の方を見ると、彼女はさらりと解説した。
「それだけ解釈が難しいということ。下手な文学作品を読むよりも頭を使うはず」
「こっちの高木彬光も前に聞いたことがある。神津恭介とかいう探偵の生みの親だったか?」
「それ以外にもこの作家は色々な作品を書いている。霧島三郎シリーズや近松茂道シリーズ、百谷泉一郎シリーズに墨野隴人シリーズ……他にも色々あるけど、この辺りが有名。『破戒裁判』は百谷泉一郎シリーズの代表作で、高木彬光の作品の中でも有名な部類に属するはず」
「……相変わらず、この手の話になると饒舌だな」
十影が指摘するが、麟五が意に介す様子はない。十影は話を元に戻した。
「坂口安吾って、確か有名な作家だったよな。国語の授業で名前が出てきた覚えがあるんだが」
「坂口安吾は『堕落論』で有名な作家だけど、推理小説好きでもあって、実際に自分でも何作か執筆していた。そんな坂口安吾の書いた推理小説の中で最高傑作と呼ばれているのが『不連続殺人事件』。彼はこの作品で推理小説史に名を残したといってもいい。ただ、本業じゃなかった事もあって、その後の推理系作品はいまいちのものも多いと評価される事も多い。それでも評価できる作品もある」
有名作家の意外な素顔を見た気がした。
「十影君ならどれを選ぶ?」
「俺はどれでもいい」
「うーん。じゃあねぇ……これにしよ」
そう言うと、早苗は『不連続殺人事件』を手に取った。
「何でそれなんだ?」
「何となく面白そうだから」
「……身も蓋もない理由だな」
十影はそのまま興味を失ったように椅子にもたれかかった。
「ちなみに、麟五ちゃんは何を読んでるの?」
早苗が興味本位で尋ねる。彼女が今読んでいるのは、もはや本ではなくレンガのごとき分厚さを誇る文庫本だった。下手をすれば生半可な辞書より分厚く、冗談でもなんでもなく人を殴り殺せそうである。推理小説でなかったとしても、十影はとても読む気になれそうにない。
「何だ、その鈍器みたいな本は? 何ページあるんだ?」
「解説込みで一二四〇ページ」
「……読む気が失せるな」
十影としてはそうコメントするしかなかった。六法全書や広辞苑よりページ数が多い小説など、頼まれても読む気はしない。というか、それはもはや小説の域を越えているような気がする。推理作家に自重という言葉はないのかと、十影は密かに思ったりした。
と、そんなどうでもいい話を喋っていると、不意に部屋のドアがノックされた。
「こんなところに珍しいね」
十影と早苗は顔を見合わせた。場所が場所である上に、入っている部活がミス研である。したがって、設立からかなり経つが、訪れる人間はほとんどいない状態だった。
そんなことを十影が思っている間にも、ドアはノックされ続ける。
「はいはーい。今開けるわよ」
そう言うと、早苗はドアを開けた。すると、そこには十影の見知った顔が済ました表情で立っていた。クラスの委員長にして大西の友人の鬼天紗枝子である。
「お邪魔だったかしら?」
「いや、そんな事はないが……何か用か?」
「玉村さんに少しね。委員会関連よ」
紗枝子はそう言うと、部屋に入って、手に持っていたファイルを長机の上に広げた。早苗も手に持っていた本を置いて、そちらに近づく。
「今度の金曜日の定例会議の件で少し打ち合わせをしておきたくて。教室じゃなんだから人の少ないここに来たんだけど、よかったかしら?」
「問題ないよ。で、何の打ち合わせ?」
その後は、十影にはどうにもわからない話が二人の間で交わされていた。十影はやる事もなく、ただボーっとそんな二人の光景を見ているだけだ。麟五はというと、二人の事など気にする事もなく読書に戻っている。
「……でも、それだけの作業を一人でするのは大変じゃない?」
「副委員長の天地君が手伝ってくれるって言うから、たぶん大丈夫だと思うわ。いざとなったら、赤島辺りでも引っ張って強引に手伝わせるし」
どうやら、金曜日にある会議のためにゴールデンウィークの期間中に何か作業をするらしい。
「……赤島君は卓球部の合宿のはず。教室で話しているのを聞いたけど」
と、不意に麟五がぼそりと発言した。紗枝子は思わず振り返ったが、その時には麟五はまた読書に戻っている。と、十影もこう付け加えた。
「そう言えば、大西のやつもそんな事を言っていたな」
「そんなこと、私は一言も聞いていない」
紗枝子が苦々しい顔で呟く。
「言いにくかったんじゃない?」
「……まぁ、別にいいけど」
と、その時タイミングよく紗枝子の携帯電話が鳴った。
「はい、鬼天です。……え?」
次第に紗枝子の顔が難しいものになっていく。何事かと、思わず十影も紗枝子の方を見た。
「そう……ええ、それじゃ、お大事に」
しばらく何事か話していたが、唐突に電話を切る。
「天地君から。交通事故で入院したから、定例会議に向けた作業をよろしくお願いしますって」
それは大事ではないだろうか。そんな表情が十影の表情に出ていたのか、紗枝子は付け足す。
「自転車のスピードを出しすぎて電柱に衝突。そのまま転んで足の骨を折ったんですって」
「……それって、自業自得だよね」
早苗が呆れたような声を出した。
「それより、困ったことになったわね。私一人で終わるような作業じゃないし、赤島は合宿らしいし。大西君も確か実家の法事があるとか言っていたから手伝ってもらえないだろうし」
紗枝子は眼鏡のフレームを触りながら深刻そうに呟く。が、その視線が不意に十影に向いた。
「そうだ、十影君、せっかくだから手伝ってくれない?」
「何でだよ」
「何でって、暇なんでしょう。他のクラスの人にやってもらうわけにもいかないし」
「金津がいるだろう。俺がやるよりはそっちの方がクラスの人間も納得するんじゃないか?」
十影はそう言って麟五の方を見た。何より、犯罪者の一族だのと言われて評判の悪い自分よりも麟五の方がまだましだと思ったのだ。が、紗枝子は麟五をちらりと見ながら首を振る。
「断言してもいいけど、金津さんは絶対に手伝ってくれないと思う」
「……だよな」
言っておいてなんだが、十影もただでさえクラスメイトに壁を作っている麟五が紗枝子の頼みを聞くとはとても思えなかった。
「もう一度聞くが、本当に俺でいいのか? 自分で言うのもなんだが、俺の評判はかなり悪い」
それに対しては、紗枝子はこう答える。
「私は別に気にしないから。それじゃ、明日の正午に教室で」
呆気にとられているうちに、紗枝子はさっさと部屋を出て行った。
「……おい、俺に拒否する権利はないのか?」
「ま、頑張ってね」
早苗がポンと十影の肩を叩く。麟五に至ってはフォローもない。十影は深いため息をついた。
そんなわけで、十影はこの連休中、連日のように登校して紗枝子の書類作成を手伝ったのだった。何でも、例の部活全入制度についての生徒会からの提案があるらしく、今日の放課後に一年生の各クラスの委員長と、生徒会役員が一堂に会した会議が開かれるとの事だ。
「ま、あいつはそういうことに関しては妥協しないやつだからな」
「大変だったねぇ」
昼休みに赤島と大西がそう言って慰めるのを、十影は少し恨みがましい目で睨んだ。
「お前ら、人事だと思って……」
「しゃあねぇだろ、こっちも大変ったんだ。合宿が懲役に思えるなんて初めての経験だぜ」
「僕も急な法事だったしね。それがなかったら手伝いに来たんだけど」
お気楽な赤島と申し訳なさそうな大西。十影はため息をつくしかなかった。
「というか、仕事はもう終わったんだろ? 何をそんな辛気臭い顔してるんだ?」
「終わってないんだよ」
そう言った時、当の紗枝子が近づいてきた。
「十影君、放課後はよろしくね。一時間くらいですむと思うから時間はとらせないわ」
「わかってるよ」
十影が不機嫌そうに言うと、紗枝子は軽く赤島たちの方を見てそのまま歩いていった。赤島と大西は顔を見合わせる。
「何の話だ?」
「副委員長の天地がまだ復帰しないから、代わりに俺が補助役で会議に出る事になった」
「それは……ご愁傷様だな」
赤島のコメントに、十影は机に突っ伏してしまった。
「まったく、何でこんな事に……」
十影は一瞬恨みがましく麟五の席の方を見る。が、今日も麟五は休み時間を部室で過ごしているらしく、結局十影はそのまま脱力するしかなかった。
そんなわけで放課後である。大半が部活に行ってしまってガランとした廊下を、十影は紗枝子と一緒に大量の書類が挟まれたファイル抱えながら歩いていた。
「そもそも、これはいったいどんな会議なんだ? 一年委員長と生徒会の合同会議らしいが」
十影は少々やけになりながら聞いた。
「本来は一年生のHR委員長が月二回開いている定例会議よ。今回は生徒会から提案があるらしくて、何人か生徒会の人間が参加する事になっているの」
「って事は、あの会長も来るってわけか」
十影はあの眉間にしわを寄せた生徒会長の顔を思い出しながら呟いた。
「議題は部活全入制の撤廃だったか」
「それに、無駄な部活の削減……部活選別制の導入ね。だから、十影君にも関係ない事じゃないわ。私と玉村さんは反対するつもりで、そのためにこうして資料を用意したの」
「まぁ、俺としても今さらミス研がなくなるのはごめんだな」
そんな事を言っているうちに、会議が開かれる校舎四階の会議室前に到着した。資料で手がふさがっている十影に代わって、紗枝子がドアを開ける。
中にはすでに他の組の委員長たちが勢揃いしていた。
「あ、お疲れ様」
一組委員長の早苗が手を上げて十影に呼びかける。十影としては無理やり作った笑みを浮かべるのが精一杯だ。十影と早苗がここにいるという事は、部室には麟五しかいないのだろう。
会議室には机が正方形に並べられているが、早苗の横に一際目に付く人物が着席していた。まるで牛乳瓶の底のようなメガネをかけ、風邪でも引いているのか口には大きなマスクをしている。制服から女子生徒だという事はわかるが、なんとも怪しい格好である。
「犬神さん、どうしたの?」
「風邪を引いて……」
紗枝子の問いに、彼女はくぐもった声で答える。
「二組の委員長の犬神珠美さん。その隣が三組委員長の和光佐美代さん」
紗枝子は簡単に紹介する。マスクの少女……犬神珠美はゴホゴホと咳き込む。その隣には対照的におとなしそうな少女が座っていて、顔を上げる事なく書類を読みふけっていた。彼女が和光佐美代なのだろう。こういっては何だが、この面子の中では一番特徴がないタイプだ。
そこから少し離れたところに男子生徒が座っていた。が、彼は椅子の背もたれに全体重を預けると、頭の後ろで手を組んでかすかにいびきをかいているようだった。
「五組委員長の倉品英輔君。一年委員長唯一の男子生徒だけど、やる気があまりなくて」
紗枝子は遠慮なく言う。だが、その隣に見覚えがある顔の人物が座っていた。
「あら、これは奇遇ね」
忘れたくても忘れられない顔。入学早々に十影の評判を陥れた三河律子本人である。
「何でお前が」
「忘れたの? 私、五組の副委員長なの。本当なら来なくてもいいんだけど、委員長がこんな感じで役に立たないから、補助役でね」
律子は忌々しそうに倉品の方を見ながら吐き捨てた。
「そういうあなたは何でこんな場違いなところに来たの。正直、迷惑なんだけど」
「私が補助役をお願いしたの。文句ある?」
十影が答える前に、紗枝子が答えた。
「よりによってそんなやつを選ぶなんてね」
律子はそう言うと、それ以上十影に視線を合わせようとはしなかった。それを確認すると、紗枝子は和光と倉品の間にある空席に座る。十影も慌ててそれを追い、紗枝子の隣に座った。律子がいるとなるとかなり居心地が悪いが、この際我慢するしかない。
「そろそろ、生徒会のメンバーも来るはずよ」
早苗が時計を見ながら言った。と、ほぼ同時にドアが開いて、何人かが部屋に入ってくる。
「失礼、少し遅れた」
先頭にいる男子生徒……遠藤がそう言って形ばかりの詫びを入れた。後ろにはこの前見た首にスカーフをした黒宮という副会長とどこか事務的な口調で存在感があまりない小松という書記の他に、もう一人丸眼鏡をかけた気の弱そうな女子生徒が控えている。
「一応自己紹介しておこう。僕は生徒会長の遠藤穣太郎。後ろにいるのが右から副会長の黒宮百合奈君と、書記の小松磯美君。それに今年から生徒会に入ってくれた一年生の永村愛子君だ」
後ろに控えていた三人が頭を下げ、委員長側も儀礼的に頭を下げた。
「では、さっそく議題に入らせてもらいますわ」
副会長の百合奈が穏やかにそう言うと、生徒会組は委員長組と反対側に着席し、資料を机の上に広げた。十六時ちょうど、会議は予定通りにスタートした。
「何が一時間で終わるだよ」
十影はそう言うと、大きく息をついた。時刻は十七時。結局、会議は白熱して予定の一時間では終わらず、現在十五分の休憩中である。実際に議論している人間はいいかもしれないが、単純に資料の受け渡しに終始している十影にとっては苦行以外の何物でもない。
休憩中という事で部屋の中にいる人間は少ない。十影に早苗、それにずっと眠りっぱなしの五組委員長の倉品。生徒会組は休憩中に後半に向けた準備をしているらしく全員どこかに行ってしまっており、委員長側もそれぞれの用事でほとんどいない状態だった。
「まぁまぁ。それだけ重要な会議って事よ」
早苗が小さく笑いながら言う。
「というか、三河のやつとずっと一緒にいるのが苦痛だ。いるとわかっていれば断ってた」
「この前の件で苦手なのはわかるけど、そこは押さえて」
「そういうわけじゃないんだがな」
早苗は十影と律子の二年前の事件に絡んだ因縁を知らない。十影が二年前の事件に関与しているということはすでに律子によって学校中の噂になっているが、彼女との個人的な関係を知るのは、あの時夕暮れの校庭にいた四人だけである。
と、そんな話をしているうちに、当の律子が不機嫌そうな顔で戻ってきた。律子は十影を一瞥すると、何も言わないままに自分の席に着く。会議中は、ずっと寝ていた倉品に代わって発言を繰り返しており、確かに適任ではあると十影も思っていた。
「にしても、五組の委員長はこれで大丈夫なのか?」
「五組はくじ引きで委員長を決めたらしいから、本人にやる気がまったくないみたい」
早苗が声をひそめて言う。と、ドアが開いて生徒会の面々も戻ってきた。時間は開始時刻ちょうどの十七時十五分。だが、永村愛子と呼ばれた一年生の姿が見えない。
「永村さんは?」
「あぁ。彼女にはやっておいてほしい仕事がってね。先に生徒会室に戻ってもらった」
遠藤は相変わらず眉間にしわを寄せながら早苗の問いに答える。どうやら、愛子がいたのは生徒会の仕事に慣れるための研修的なものだったらしい。
「ところで、休憩時間が終わったのに、そちらはまだ全員戻っていないようですわね」
百合奈が尋ねる。確かに、二組から四組までの三人の委員長がまだ戻っていなかった。
「十影君、鬼天さんは?」
「さぁな。追加資料を持ってくるとか言ってたが」
腕時計を見ると十七時二十分。すでに開始予定時刻から五分ほど経過している。
「一体どうなってるんだ。僕は時間を守れないやつが嫌いなんだ」
遠藤が不快そうに言う。あからさまに機嫌が悪くなったようだ。
「残りの二人は?」
「私は知らない。三河さんは?」
早苗の言葉に律子は不機嫌そうに首を振る。
「私が知るわけないでしょ」
なんとも気まずい空気がその場に流れる。と、ずっと眠っていた倉品がガクッと前のめりになり、こんな時になって目を覚ました。
「おぉ……もう終わったか?」
「委員長、ちょっと黙ってくれませんか」
律子が苛立った声で倉品を叱った。ますます空気が重くなる。
「んー、誰だお前は?」
倉品がぼんやりした表情で隣に座る十影を見る。この委員長とは初めて会話したわけだが、答えるのが面倒くさかったので十影は彼を無視した。早苗が無理やり笑みを浮かべて言う。
「まぁ、このメンバーでも会議は進められると思います。五組の委員長も起きたようですし」
「あー、あんまり俺のことは当てにするな。正直、会議内容もよくわかってない」
そう言うと、倉品は大あくびをしてまた眠ろうとする。が、律子がバインダーで倉品の頭を叩いてそれを阻止し、早苗は彼女にしては本当に珍しい事にため息をついた。
「これは、議題云々以前に、委員長としての心構えを話した方がいいのか?」
もはや怒り心頭の遠藤がゆらりと立ち上がり、十影たちを睨みつける。十影は本気でこの場から帰ろうかと思いながらも、遠藤の言葉を待った。
「そもそも、委員長の職務というものはだな……」
だが、その瞬間だった。突然、何の前触れもなく校内に非常ベルが鳴り響いた。
遠藤が言葉を止めて思わず顔を上げる。他のメンバーも同じような反応をした。誰かのいたずらかと思ったが、非常ベルはずっと鳴り続けている。だが、放送が入ることもなく、何が起こっているのかはっきりしない。
「これ……火災報知機じゃないか? 各教室の天井についてる」
こんな状況にもかかわらず、倉品がのんびりとした口調で言った。
「まさか、誰かタバコでも吸ったのか?」
遠藤が極めて現実的なことを言う。確かにトイレでタバコを吸って火災報知機が反応するという話はよく聞く話だ。十影も一瞬それで納得しかけた。
が、直後にどこからかガラスの割れる音が響き渡った。
「違うようですね」
ずっと発言してこなかった生徒会書記の小松磯美が呟く。しかも、音はこの会議室のすぐ近くから響いたようだった。
真っ先に動いたのは早苗だった。椅子から立ち上がると会議室を飛び出し、廊下を見渡す。続いて他のメンバーも廊下に飛び出した。さすがの倉品も心配そうに出てくる。
「あそこ!」
不意に、早苗が叫んだ。見ると、廊下の突き当たりにある教室から白い煙が出ている。
「火事か!」
遠藤が緊張した声を出した。まだ火はそれほど大きくなっていないようだが、警報が鳴っている以上、間違いなく火の手が上がっているのだろう。
そして、その教室の前に誰かがいるのが見えた。
「あれは……永村さんではありませんか?」
百合奈の言葉に、全員がギョッとしたようにその人物を見る。確かにその人物は、前半まで会議に出席していた生徒会の永村愛子であり、彼女は腰を抜かして廊下にへたり込んでいた。
「あの子、あんなところで何を……」
「そんな事より、行かなくていいのか?」
状況がよくわかっていない様子の倉品の言葉に、全員ハッとしたような表情をする。
「言われなくても!」
そう言うや否や、早苗が先頭を切って廊下を走り出した。一瞬遅れて十影も後に続き、
「誰か先生に連絡してくれ!」
と言いながら、遠藤も後に続いた。会議室から見ると、問題の教室は部屋を二つ挟んだ先にある。三人は煙を吸わないようにハンカチで口をふさぐと、愛子の下にたどり着いた。
「永村君、こんなところでどうしたんだ!」
遠藤が叱りつけるように言うが、当の愛子は呆然とした表情で放心状態だ。教室に近づくと明らかに室内から熱が漏れていて、ドアは半分ほど開きっぱなしになっていた。何の部屋かと思って十影がプレートを見ると、そこには「備品室」という名前が書かれている。
「とにかく、ここから逃げるのが先ね」
早苗が愛子を立たせようとする。が、不意に愛子は震えながら部屋の中を指差した。それを見て、遠藤が訝しげに中を覗く。その直後だった。
「う、うわぁ!」
なんとも情けない悲鳴を上げながら、遠藤は大きく後ずさり、そのまま腰を抜かした。
「どうしたんですか!」
早苗が遠藤に尋ねる。それに対して、遠藤はこう答えた。
「ひ、人……人が中に……」
その言葉に、十影も思わず室内を覗き込んだ。そして、世にも恐ろしいものを見てしまった。
「こ、これは……」
部屋の中は炎がうねっていた。まだ燃え始めて間もないのか、火の勢いはそこまで激しくない。室内に設置された火災報知機がけたたましい音を鳴らし続けている。奥の方にある窓ガラスが割れているのも確認できた。さっきのガラスの音はこれだろう。
だが、問題なのはそこではなかった。その炎の中心、すなわち部屋の真ん中の床に何かが寝ているのだ。そして、それはどう見ても人の形をしており、さらにそのその人影はセーラー服と思しき服を着ているのである。
十影の頭が真っ白になった。部屋の中の人影はピクリとも動かない。そもそも、顔の辺りはすでに炎に包まれて目視さえできない。明らかにそれは死体だった。
「ねぇ、いったい何が……」
「見るな!」
部屋を覗こうとする早苗に対し、十影は思わず叫んだ。全身が炎に包まれた女子生徒の死体。そんなものを見せられるわけがない。
「ど、どうする……」
遠藤が裏返った声で聞く。当たり前の話だが、こういう修羅場には慣れていないようだ。それ以前に、どうもイレギュラーな事態に弱い人種らしいと十影は場違いにも思っていた。一方、十影は二年前のことがあってか、不思議と冷静でいられた。だが、頭の中にはその二年前の記憶……人が死ぬという事に対する恐怖が蘇ってくる。
「とにかく、火を消さないと……」
「十影さん、これを」
不意に声をかけられ、振り返ると、いつ駆けつけたのか百合奈がそこに立っていた。手には消火器を持っている。十影は咄嗟にそれを受け取ると、中身を部屋の中にぶちまけた。幸い、そこまで炎が大規模化していなかった事もあって、炎は比較的すぐに沈静化した。
だが、炎が消えたことで部屋の中に転がる物体がよりはっきりと目視できるようになった。間違いなくそこには誰かの黒焦げの死体が仰向けに転がっていた。
顔はとても描写できるようなものではなくなってしまっており、誰なのか識別もできない。ただ、女子生徒らしいという事はここからでもよくわかった。
「どうしたの? 何かあったの?」
と、不意に後ろから声がかけられた。振り返ると、さっきまでいなかった紗枝子が不思議そうな顔をしてそこに立っている。
「ど、どこに行ってたんだ!」
「資料がなかなか見つからなくて、あちこち探していたのよ。で、私がいない間に何が?」
どう説明していいのかわからないでいると、すぐ後ろから別の顔がひょっこりと顔を出した。
「うるさくて眠れないんだけど……」
二組の犬神珠美だった。相変わらずの眼鏡にマスクという格好で、心なしか顔色も悪い。
「眠れないって、どこにいたんだ?」
「書道室。具合が悪くて会議どころじゃなくなって……鬼天さんに伝言はしておいたけど」
紗枝子が気まずそうな顔をする。が、そこで十影はある事に気がついた。三組委員長、和光佐美代の姿が見えない。
「和光は?」
その言葉に、その場の全員が緊張する。紗枝子と珠美も小さくかぶりを振り、さっきの会議室とは違うタイプの嫌な空気がその場に流れた。
と、そのとき廊下の向こうから律子と磯美の二人が亜由美を連れて来た。
「これは……何があったの?」
珍しく厳しい表情の亜由美に対し、十影は備品室を指差す。亜由美は中を覗くとわずかに息を呑んだが、そこはかつて有名な探偵事務所で働いていただけあって、動転する様子はない。
「誰も入らないで。それと、ここにいる人全員、ここから離れないように」
そう言うと、亜由美は携帯電話を取り出してどこかにかけた。
「警察ですか。朝之木高校の宮下と申しますが……」
警察に通報しているらしい。さすがに、これは校内で処理できるレベルを超えている。
「……何があったのか、聞かせてくれるわね?」
電話が終わった後、亜由美は真剣な表情でその場にいる全員に尋ねた。その剣幕に押されて、全員が事件の状況を説明していく。その話の中で、現場を見ていない他の面々も、部屋に女子生徒の焼死体が転がっているという状況を知ることとなった。
「……なるほどね。わかったわ、和光さんについては私も探してみる。後は先生に任せて、あなたたちはとりあえず会議室で待機しておいて。多分、警察の事情聴取があると思うわ」
事情聴取という、ドラマではよく聞くが実際に遭遇することはめったにない言葉に、全員が不安そうに顔を見合わせる。
「あと、今のうちに家に連絡しておきなさい。多分、今日は帰れないと思うから。それと」
亜由美はチラリと未だに放心状態の少女……永村愛子の方を見ながら言った。
「警察が来るまで、その子の面倒を見ておいてね。さぁ、行きなさい」
従う他なかった。