第三章、結成
事件が解決し、木佐貫が亜由美ら教師陣に連れて行かれた後、十影は麟五と一緒に昇降口にいた。すでに空は夕焼けに染まっていて、辺り一面を真っ赤にしている。
「何て言うか、ありがとうな」
「別に。私は自分が疑われるのが嫌だっただけ」
十影の言葉に対し、麟五はいつも通り淡々とした口調でそう答えた。もっとも、そちらの方が彼女らしいといえば彼女らしいのだが。
「単純な財布紛失かと思ったら、まさかあんなトリックが使われていたとは。よくわかったな」
「状況から判断するとあの方法しかなかっただけ。ホームズも言っているはず。『不可能なものを除外していけば、残ったものが例えどれだけ信じられなくても、それが真実だ』って」
「いや、俺は知らないけど」
それが本当だったら、随分意味深な事を言ったものだと、十影は内心そう思った。
「とはいえ、あれだけの推理を組み立てられるっていうのはすごいと思うんだが」
「あれは単なる推理小説の模倣。それ以上でも以下でもない」
推理小説を読みふけっているくらいではあそこまでの論理構築はできないと十影は思ったが、結局それ以上突っ込まずに話を進める。
「だけど、まさかここまで大事になるとは……」
十影としては何気なく言ったつもりだった。ところが、麟五の答えは予想外のものだった。
「大事になったんじゃない。意図的に大事になるよう仕組まれた。そうよね」
突然、麟五は何かに呼びかけた。十影は一瞬誰に話しかけているのかと思ったが、不意に後ろから気配がして振り返った。そこには、さっきまで十影を徹底的に糾弾していた律子がいた。
「謝りに来たつもりだったんだけど、そんな必要はないみたいね。今のどういう意味なの?」
律子は引きつった表情で昇降口から出てくる。これに対し、麟五はくだらなそうに答えた。
「そのまま。あなたは意図的に十影君が犯人である事を糾弾し、事態を大事にしようとした」
「聞き捨てならないわね」
「なら、なぜあんな大人数の前で十影君を糾弾したの? 単純に十影君を糾弾するなら、むしろ人の少ない場所でやるのが普通。財布を盗まれたなんて、普通は公にしたい事でもないし、どう見てもあなたが騒ぎ立てて意図的に事態を大事にしたとしか思えない」
あくまで冷静な麟五の言葉に、律子は黙ったままだ。
「こう言っては何だけど、当の木佐貫も事態がここまで大事になるとは思っていなかったと思う。だからこそあそこまで大掛かりなトリックを使った。まさか、ロッカーからの盗難くらいであんなロッカー入れ替えみたいなトリックが使われるとは誰も思わないから。でも、あなたが事態を大事にしたせいで、私もあのトリックを想像しやすくなった」
「じゃあ、私が大事にしたから事件は解決したってこと?」
律子が皮肉めいた口調で言う。
「それは結果論。その前に、確たる証拠もなくあれだけ十影君を糾弾したことはやりすぎ。しかも、アリバイが出てきたら共犯なんて強引な推理を持ち出してくるし、何が何でも十影君を犯人に仕立て上げようとしているみたいな感じがした」
麟五は構わず続けた。
「それに、旧美術準備室であなたは十影君のこう言った。『どうしてこんなやつの言う事なんか信じるのよ』って。その言い方だと、まるで以前から十影君の事を知っていたみたい。十影君が以前に何かしていた事を知っていて、それを踏まえて十影君を糾弾してように思えた」
麟五の言葉に、十影の顔に緊張が浮かんだ。
「でも、十影君は今年になって地方から引っ越してきていた。だとするなら、そもそも接点がありようもない。でも、教室で小耳に聞いた話だと、十影君も元々は東京の生まれで、中学二年生の頃に地方に引っ越していたはず。もし、あなたが十影君の事を知っていたとすれば、それは彼が中学二年以前の話。となると、あなたが十影君を知るきっかけとなった場面はおのずと限られてくる。例えば、十影君が引っ越すきっかけになった出来事とか」
その瞬間、十影は一瞬目の前が暗くなりそうになった。
「……知ってるの? その話?」
律子が試すように麟五に聞くが、麟五は黙って首を振る。
「本人が言いたくない事をあえて聞く必要もない」
「知りもしないで、よくそこまで言えるわね」
「つまり、あなたが二年前に起こった何かで十影君を恨んでいるという事自体は認めるという事で間違いない、と」
切り返すような麟五の言葉に、律子はキッと十影の方を睨みつけた。
「確かに、私はこいつを恨んでいるわ。恨んでも恨みきれないくらいにね」
「お前は一体……」
十影は律子に聞こうとした。いくら記憶を探っても、彼女のことについて一切記憶がない。
だが、律子はすぐに吐き捨てるようにこう言った。
「七里蘭奈。この名前、知らないとは言わせないわよ」
刹那、十影の思考が停止した。それは十影にとっては忘れようがない、忘れたくても忘れられない名前だった。二年前、十影が逃げるように東京を離れるきっかけとなった、あの事件の自殺した容疑者の名前である。
「お前は、七里蘭奈の……」
「従姉妹よ」
律子の言葉に、十影は眩暈を覚えた。同時に、すべてを理解した。だからこそ、彼女は自分を糾弾するようなことを言ったのだ。
「金津さん、知らないなら話してあげるわよ。こいつがどんなやつなのか。そして、二年前にこいつのせいで私がどれだけひどい目に遭ったのか!」
最後は血を吐くような声で、律子が言う。十影は何も言う事ができなかった。否、言う資格がないと思っていた。だからこそ、律子の叫びをとめることもせず、その場で唇を噛み締めながらうつむいている。
「こいつはね……」
「そこまでにしない?」
と、突然どこからかひどくのんびりとした声がかかった。全員がそちらを振り返ると、昇降口から出てきたのは、意外すぎる事に十影の幼馴染の大西だった。
「どうしてここに?」
「十影君が何かに巻き込まれているって聞いて、とりあえず待ってたんだけど」
そう言いながら、大西はゆっくりと十影たちの方に近づいてきた。
「何、あんた。関係ないでしょ」
「関係なくないよ。僕は実際に十影君がどんな目に遭ったかを間近で見ていたから」
律子の言葉に対して、大西はマイペースに答えた。
「……だったらわかるでしょ。こいつが何をしたのか!」
「何にしてもさ、今の三河さんが説明したら一方的な意見になっちゃうと思うよ」
大西はあくまでもペースを崩さない。
「金津さん、この話を聞きたい?」
と、大西は唐突に麟五に聞いた。
「正直なところ、僕たちにとってはあまり聞かれたくない話だ。でも、金津さんなら信用できそうに思える。だから、金津さんが聞きたいというならこの際話してもいいかと思うんだけど」
大西の言葉に対し、麟五は少し吟味するようにジッと大西や十影を見ていたが、
「そちらが話してくれるというならば、聞いてもかまわない」
「だそうだけど、どうしようか?」
大西は十影の方を見た。麟五も十影の方をジッと見据えている。それで十影は覚悟を決めた。
「わかった、話す。こいつがいる以上、どうせすぐにばれるだろうし」
律子の方を見ながらそう言うと、十影は軽く息を整えて話し始めた。
「二年前の話だ。俺の家は……ある事件の当事者になった」
そして、自嘲めいた声色で、はっきりとその事件の名前を告げる。
「『法務省官僚殺害事件』って言えば、心当たりがあるんじゃないか?」
その言葉に、麟五は一瞬考えるような仕草をした後、小さく頷いた。
「聞いた事はある。法務省の官僚が中学生に殺された事件。二年前に連日報道されていたから」
「あぁ。もっとも、その報道こそが、俺にとってはすべての諸悪の根源なんだが」
そして、十影は二年前の出来事を淡々と語り始めた。自身の伯父が殺された事。その犯人と目された少女が自殺した事。その遺書が原因でひどい報道被害が起こった事。報道から逃れるために、慣れ親しんだ東京から地方に逃げた事。そして、二年ぶりに東京に戻ってきた事……。
麟五は十影の話を黙って聞いていた。薄暗くなり始めて、もうほとんど誰もいなくなった昇降口の前で、十影、麟五、律子、大西の四人だけが深刻な顔で互いに向かい合っている。
「……なるほど」
話が終わってしばらくして、麟五はそうコメントした。
「十影君が推理小説を読めないって言ったのも、これが原因?」
「ああ。何というか、ぜんぜん読めなくなってな」
十影は答えた。あの事件以来、その手の小説を読むと息苦しさとでも言うべきものを感じるようになっていた。好き勝手に物語を作り上げて大騒ぎするマスコミの大バッシングを受けた影響だとは思っているが、とにかく犯罪を見世物にして楽しむ感覚を許容できない。そのせいで、その手の小説を一切読む事ができなくなっていたのだ。
「部活に入りたくないっていうのも?」
「人と触れ合うのが億劫でな。それに、人が信用できないっていうのもある」
麟五は頷くと、次に律子を見た。
「それで、あなたはその七里蘭奈さんの従姉妹?」
律子は答える代わりに、憎しみをこめた視線を十影に向けた。
「こいつの伯父があんなことをしなければ、あの子は死ぬ事もなかった! だから、こいつらを苦しめようとして何が悪いのよ! こいつは犯罪者の一族なのよ! 苦しんで当然よ!」
「だから、みんなの前で十影君を糾弾した。十影君を苦しめるために」
「ええ。こいつが容疑者になったのはそれこそ偶然だったけど、どう考えてもこいつしかいないと思った。だって、蘭奈にあんな事をしたやつの甥っ子なのよ。財布盗難くらいやって当然じゃない! だから、みんなの前で恥をかかせて、いっそ再起不能なればいいと思ったわ。蘭奈の命を奪ったんだから、こいつの人生なんか、無茶苦茶になればいいのよ!」
十影は何も言えない。ただ黙って律子の糾弾に耐えるだけだ。
「ねぇ、金津さん。あなたはどう思うの? こんな最低なやつの味方をするつもりなの? 今の話を聞いて思うところがあったら聞かせてほしいわね」
麟五はジッと律子の主張を聞いていた。そして、それに対する答えは短かった。
「別に」
その場にいる全員が驚いた様子で麟五の方を見ていた。
「別にって……」
「だからどうしたの?」
麟五は眉一つ動かすことなく言葉を続けた。
「確かにひどい事件だとは思う。でも、少なくとも十影君は別に事件の当事者ではない」
あまりにもあっさり言われて、律子よりも十影の方が拍子抜けしていた。言われるまでもなく当たり前の事実でありながら、この二年間、誰も認めてくれなかったその事を、まるで何でもないようにいとも簡単に……ごく当然のように麟五は言ったのである。
「関係ない人間をいくら糾弾しても、まったく意味はない、私は意味のない事はしない」
「だ、だけど、こいつの伯父は……」
「だから、それは十影英太郎の事であって、十影潔君の事ではない。親族だろうが何だろうが、他人であることに間違いはない。その事件を理由に十影君を糾弾する権利は誰にもないと思う」
あまりに合理的な答えだった。律子は怒りに満ちた目で麟五を睨む。
「推理小説を読んでいると頭のネジが緩むのかしら? そんな理論的に割り切れないのが現実の犯罪遺族……」
「それを言うなら、どんな事情であれ実際に殺人を犯したのは七里蘭奈さん。本当の犯罪遺族は十影君のはず」
その言葉が発せられた瞬間、その場の時間が停止したように思えた。
「殺人と暴行。どっちが重いのかは比べるまでもないはず。なのに、マスコミはなぜか十影英太郎を非難して七里さんを被害者扱いした。マスコミに踊らされる事なく、あくまで現実を見ないといけない」
「よくも……蘭奈を……」
もはや、律子の声は怒りで震えてまともに言葉が出なくなっていた。正論とはいえ、身内を侮辱されたも同然だから、当然といえば当然だ。
「金津さん。あなた、ただで済むとは思わないでよね」
そんな律子の言葉に対し、麟五は前髪の下から視線をぶつけた。
「別にいい。私も恨みをかうのは慣れている」
律子はそのまましばらくキッと麟五と十影を交互に睨んでいたが、不意にそのまま踵を返して帰ってしまった。
「……じゃ、私も帰る」
と、今まで緊迫したムードを作っていた張本人であるはずの麟五は、何事もなかったかのように言うと、そのままさっさと歩いて帰ろうとした。
「待てよ」
思わず、十影は麟五を呼び止めていた。麟五は背を向けたままその場に足を止める。
「お前、俺を何とも思わないのか?」
「別に。何度も言わせないで」
「事件を知ってたって事は、あのくだらないマスコミの報道も見てたって事だな?」
「ええ」
「じゃあ、当然俺の家が大バッシングされていたのも知っているわけだ」
十影は真剣な表情で問いただす。
「あんな一方的な報道を聞いておいて、それでも俺を信じられるのか?」
「言ったはず。あの事件の本質は、いかなる事情があったとしてもあくまであなたの伯父さんが被害者で、加害者は自殺した七里蘭奈さん。的外れの中傷に付き合うつもりはない」
「確かに理屈はそうだろうな。お前の言うことは正論だよ。だけどな、今までその当たり前の理屈をいくら言っても、誰もまったく信じてもらえなかった。それどころか、そんな言い訳をすること自体が罪だった」
悔しそうに吐き捨てる十影の言葉を、麟五は黙って聞いている。
「要するに、会うやつの大半が俺の敵だった。だから、今さらそんな正論を言うやつが出てきても、俺は素直に信じられないんだ。たとえどれだけ信じたくてもな」
大西が辛そうに顔をそらす。事情を知っているだけに、十影の気持ちがよくわかるのだろう。
「だから改めて聞きたい。俺は、お前のその言い分を信じていいのか?」
振り絞るような問いだった。それからしばらく返答がないまま時間が流れる。
「……わかった。じゃあ、はっきり言う」
そう言うと、突然麟五はクルリと振り返り、十影を真正面から見つめてこう言った。
「あなたは人を信じたくても信じられない。でも、私はそもそも人間の感情を信じていない」
思わぬ答えに十影は戸惑った。
「私は理屈で判断した事しか信用しないし、理論的に納得できる事しか信じない。だから、理屈で判断できない嘘だらけの人の感情が嫌い。人間の感情ほど信用できないものはない。だから、私は自分の感情を表にさらけ出すのを不愉快に思ってる」
十影は息を呑み、そして今までずっと疑問に思っていたことの答えに気がついた。
「まさか、お前がどこまでも冷静なのも、前髪で顔を隠しているのも、それが理由か?」
「そう」
麟五の答えは簡単だった。
「私が推理小説を好きなのも、最後は理屈で納得できるから。理論に嘘はない。理論ほど信頼できるものはない。感情か理論で聞かれたら、私は絶対に理論をとる。だから、私は理屈で納得できる考えを信じた。別に十影君がかわいそうだと思ったからじゃない。ただ、ああ考えるのが理論的に正しくて、三河さんの主張が理論的に間違っていると思ったから」
そう言って、麟五は結論付ける。
「私の言葉に、感情は一切ない。あるのはただ理屈だけ。私の言葉は正論だけど、あくまで『正しい』だけ。嘘が入り込む余地はないけど、他人の感情にはまったく配慮していない。だから、十影君も私の言葉を難しく考える必要はない。私が言いたいのはそれだけ」
そう言うと、麟五はそのまま十影に背を向け、校庭を去っていった。十影はそれをただ見ている事しかできない。後には十影と大西の二人だけが残された。
「十影君、大丈夫?」
大西が固まったままの十影に呼びかけた。
「……大西、ありがとな。フォローしてくれて」
「ううん。僕にできる事なんて、このくらいしかないから。二年前も、君をかばうくらいしかできなかったし、僕は無力だよ」
十影の言葉に、大西は寂しそうに言った。
「でも、少なくともそれで俺はお前だけは信じる事ができた。あの大バッシングの中で、俺の言葉を信じてくれたのは、お前だけだったからな。お前がいなかったら、赤島や鬼天ともあそこまで接することはできなかったと思う」
大西は辛そうな表情をしてその場でうつむいてしまった。その言葉からは、表向きはともかく、心の底の部分ではまだ赤島や紗枝子の事を信じることができないでいる心情が浮かんでいた。信じないのではない。信じたくても信じられないのだ。それだけ、二年前の出来事は十影の心に大きな傷を残していた。
「でもな」
と、不意に十影はこう続けた。大西が頭を上げる。
「たった今、二年ぶりに心から信用できるやつに会えた気がするよ」
小さく泣き笑いのような表情を浮かべながら、十影は手を握り締めた。
翌日、十影が学校に来てみると。金津麟五は、昨日の騒ぎなどなかったかのように、自分の席に座って本を読んでいた。
昨日の騒ぎは学校中に広まっていた。あの騒ぎを完全に押さえ込む事はできなかったようで、十影の方を見ながらひそひそと何かを噂する生徒の姿も何人か見えた。おまけに、律子が広めたのかどうかは知らないが、二年前の事件の事を噂する声も十影の耳に入っていた。
その十影はといえば、この事態をある程度予測できていた事もあって、特にあからさまな反応を示すような事もせず、ただ黙々と授業を受けていた。昼休みになると麟五はいつも通りに教室を出て行き、大西は真っ先に心配そうな顔をして自分の席に駆け寄ってくる。
「心配するな。覚悟はしていた。それに、こんなのはもう慣れっこだ」
十影はそんな大西に対し自嘲めいた口調で言う。と、赤島が弁当を持って近づいてきた。
「よう、聞いたぜ。ひでぇ言われようだな」
「何て言われてる?」
「『犯罪者の一族』だの『財布泥棒の容疑者』だの。色々だな」
「お前も近づくと同類と思われるぞ」
十影の言葉に赤島はばつの悪そうな顔をする。
「もう言われたよ。『あいつには近づかねぇ方がいい』ってな」
「だったら、なんで来た?」
「しかたねぇだろ。俺はともかく大西が放っておけないって言うんだからよ。ま、他の連中には大西に無理やり引きずられてるって言ってあるから、別に気にすんな」
そう言うと、赤島は手近な机を引っ張ってきて、その上でいつも通り弁当を広げた。
「そういえば、鬼天さんは?」
「委員会だってよ。ずいぶん忙しそうだったぜ」
「詳しいんだねぇ」
「何だよ、それの意味ありげな言葉は」
大西の言葉に赤島が反発する。
「あいつもお前のことは心配してたぞ。本当に大丈夫か?」
「……まぁ、な」
十影は曖昧に答える。
「そうそう、一つニュースがあるんだ」
と、急に話題を変えるように赤島がそんなことを言い始めた。
「例の財布盗難の被害者の玉村早苗だけどな。今日も争奪戦になるかと思ったら、今朝になって『もう入る部活は決めましたから』って宣言したらしい」
「本当?」
大西が驚いた声を出す。
「おかげで今朝から大騒ぎでよ。あの大物をしとめた部活はどこだって、上の学年じゃ、十影のニュースよりそっちの方が話題になってるぜ」
これには十影も少なからず驚いていた。昨日あれだけの事があって、その次の日にはもう部活を決めてしまったらしい。十影にとって見れば、まるで別世界の話である。
そんなこんなで、クラスの全員から何ともいえない視線を浴びながら三人でそんな話をしているうちにチャイムが鳴り、大西たちも自分の席に戻っていく。一人になった十影は黙って午後の準備を始めた。
そして放課後、十影は一人で廊下を歩いていた。すれ違う同学年の生徒たちは、十影の姿を見るたびに立ち止まって気味悪そうに十影を見る。が、十影はそんな視線を気にする事なく、黙って廊下を進んでいく。目的地は決まっていた。
旧校舎一階の旧美術準備室。もう二度と来ないでくれといわれていたあの部屋の前に、十影は再び立っていた。一度軽く深呼吸すると、普段通りにドアをノックする。返事はないが、十影は遠慮する事なく中に入った。
「よう」
麟五はいつも通りに椅子に腰掛けて本を読んでいた。本に目をやったまま返事すらしない。十影は小さく肩をすくめてドアを閉めた。
「今日は何の本だ?」
「……天城一の『圷家殺人事件』」
聞いたこともない作品の名前だったが、麟五は珍しくため息をつくと本から顔を上げた。
「何の用? 入る気がないなら来ないでほしいっていう昨日の言葉は、まだ有効だけど」
十影はその質問には答えず、手近な椅子の上に鞄を下ろすと、ポケットからクシャクシャになった一枚の紙を差し出した。
「やるよ」
麟五は黙ってその紙を見ていたが、やがて手を伸ばして受け取ると、広げて中を確認した。
「……どういう事?」
それが麟五の第一声だった。
「そこに書かれている通りだ」
「だから、その意味を聞いている」
麟五は紙を広げて十影に示した。
『入部届 十影潔 ミステリー研究会』
そこにははっきりそう書かれていた。
「入るつもりはないって言っていたはず」
「気が変わった。今からそれを説明したいんだが」
麟五はしばし考え込んだが、やがて本を閉じ、黙って十影を促した。
「まず、改めて礼を言う。昨日はありがとうな。事件のこともそうだが、最後に二年前の事件についてかばってくれて」
「昨日も言ったように、私は理屈に合わないことが気に入らなかったから正論を言っただけ。別にあなたを守りたかったわけじゃない。だから、礼を言われる筋合いもない」
「それでも、だ」
つれない麟五の回答に対し、十影はそう言って真剣に麟五を見返した。
「正直に言うが、俺はあの言葉がうれしかった。二年間、あんなまともな事を言ってくれるやつは一人もいなかった。お前は、それを初めて言ってくれた」
麟五は少し考え込むような表情をしたが、
「でも、それはあくまで私が正論だと感じたからに過ぎない。もし三河さんが正しいと思っていたら、私はあなたを徹底的に非難していたかもしれない」
「けど、実際は俺をかばってくれた。それは間違いない事実だ。つまり」
十影ははっきり言う。
「難しい事は置いておいて、少なくともお前は俺を信じてくれたんだろう?」
麟五は黙り込んだ。
「俺にとってはそれで充分なんだ。感情だ、正論だ、何て議論は置いておいて、俺はお前が俺を信じてくれた事がうれしかった。二年間、大西以外には誰もしてくれなかった事をお前はやってくれた。それがわかっただけで、俺もお前を信じる事ができる。俺が二度とできないと思っていた事をすることができる」
そう言って十影は入部届を麟五に押し返す。
「どうせ入部するなら、俺が信用できる人間がいる場所がいい。そんな理由じゃ駄目か?」
麟五は答えない。
「まぁ、少し現実的な話をすれば、どの道このままじゃこの部は廃部だ。お前にとっても人数は一人でも多い方がいいはずだ。昨日も言ったように、俺は推理小説を読めないが、それでも議論や冊子を作るくらいならできる。それを踏まえて言う。俺をこの部に入れてくれないか?」
長い沈黙がその場を支配した。おそらく、今までで一番長い沈黙だったであろう。それだけ麟五が考え込んでいるという事なのだろうが、十影は黙って麟五の結論を待っていた。言うべき事はすべて言った。これで駄目なら仕方がない。
それから何分が過ぎた頃だろうか、不意に麟五が小さく息を吐いた。
「……そもそもの話、規定では入部拒否をする権利は私にはない。部活の入退部はあくまで本人の意思でしかできないから」
その言葉で、その場に漂っていた張り詰めた空気が緩んだ。
「あなたが入ると言う以上、私はそれを尊重するだけ。それに、私は別にこの部の部長でもなんでもない。そもそも、私もまだ入部さえできていない」
彼女らしい理屈での結論だった。とはいえ、彼女が自分を認めて、その上で入部を認めてもらえたのは事実である。
「ありがとな」
「これこそ礼を言われる筋合いはないと思うのだけど」
麟五の応答に、十影は苦笑しながら頭を上げる。
「……とはいえ、現実問題として、あなたの言うようにあと数日の間にあと一人部員が入らなければ、どの道この部は消滅してしまうわけだけど」
「まぁ、な」
今さら勧誘活動をしたところでどうにかなるとも思えないし、そもそも『殺人マニア』だの『犯罪者の一族』だの呼ばれている自分たちがやっても逆効果にしかならないだろう。正直なところ、打つ手がないというのが現状だった。それでも、十影は自分の意思をちゃんと麟五には伝えておきたかったのだ。
「ところで、こんなときになんだが、俺の名前をお前の自己紹介風に言うとどうなるんだ? いや、単なる興味本位なんだが」
十影としてはあくまで軽い雑談のつもりだった。が、麟五は即座にこう答えた。
「十津川警部の『十』に、星影龍三の『影』、それに御手洗潔の『潔』。そんなところ」
「考えていたのかよ……」
質問しておいてなんだが、十影は呆気に取られた様子で近くの椅子に座り込んでいた。
「ちなみに、誰だそいつらは? まぁ、十津川警部くらいはさすがに知ってるけどな」
確か二時間サスペンスドラマでよく出てくる刑事の名前だったはずだ。
「十津川警部は西村京太郎の膨大な作品群に出てくる警視庁の警部。確か最近五百作を突破したはず。星影龍三は鬼貫警部シリーズで有名な鮎川哲也が書いた本格推理小説群の探偵役。『りら荘事件』とかが有名。御手洗潔は新本格派ブームの先駆けになった島田荘司の『占星術殺人事件』に登場する探偵。もっとも、ここは新本格派ブームの起爆剤になった綾辻行人の館シリーズの探偵役である島田潔にしてもいいんだけど」
いざ推理小説になるや否や、麟五は普段の淡々とした口調が嘘のように長々と語り始めた。それを聞いていると、彼女が本当にミステリーマニアなのだと改めて実感できる。
「お前は本当にその手の話だけは熱が入るな」
十影がそう言ったときだった。
「それじゃあ、私だったらどうなるのかな?」
突然、ドアの辺りから声がかけられ、十影はびっくりしてドアの方を振り返った。
「どうも」
特徴的なブラウンのポニーテール。そこには、昨日の財布盗難事件の被害者本人……今学校中で噂になっている玉村早苗その人が立っていたのである。
「お邪魔だった?」
「いや、大丈夫だが……」
あまりに突然の意外すぎる人物の来訪に十影は思わず口ごもったが、麟五は相変わらず冷静沈着そのものだった。
「何か?」
「まずはお礼。昨日はありがとう」
そう言って早苗はさっさと埃臭い部屋の中に入ってくると、軽く頭を下げた。
「それと、二人とも疑ってごめんなさい。何にしても私たちの思い違いだったわけだから」
「俺は別に気にしてない。噂は聞いているはずだ。疑われるのには慣れている」
「そうね。よくある事」
麟五も同調するように答える。俺はともかくお前もよくある事なのか、と十影は麟五に対して思わず心の中で突っ込んだが、早苗は気にも留めていないようだ。
「今日、三河のやつは?」
「他の部活だと思う。昨日はたまたま同じ部活を見学したときに一緒になっただけだから」
十影の問いに、早苗は簡単に言う。
「そう言えば、あれから所属する部活を決めたって聞いたんだが」
十影としては何気ない感覚で聞いたつもりだったのだが、当の早苗は驚いた表情を浮かべる。
「あの……何でそんなことを知ってるの?」
「何でって……結構噂になってるぞ。よほどたくさんの部活に目をつけられていたみたいだな」
「そうなの? 何でかな。私、別に何かしたつもりはないんだけど」
早苗は首をかしげる。知らぬは本人ばかりである。
「で、どこの部活に?」
それに対し、早苗の答えはシンプルだった。
「ここ」
「は?」
十影は思わず聞き返す。珍しい事に麟五までもが少し驚いた風に顔を上げて早苗の方を見た。
が、早苗は持っていた鞄の中から一枚の紙を取り出すと、
「ええっと、金津さんに渡したらいいのかな?」
と言いながら、麟五の前に立って軽く微笑み、紙を麟五に手渡す。麟五はしばらく動きを止めていたが、しばらくして慎重な手つきでその紙を受け取ると、黙って開けて中を確認した。十影も後ろから覗き込む。
それは、ついさっき十影が提出したのと同様の入部希望届だった。部活欄には『ミステリー研究会』、名前の欄には『玉村早苗』と、きれいな字でしっかり書かれている。
「じゃ、そういうわけで、これからよろしく……」
「ちょっと待て!」
思わず十影は早苗の言葉をさえぎって叫んでいた。麟五は黙って入部届を見つめている。
「昨日のあの状況で、何をどう考えたらここに入部しようなんて思うんだ?」
「何でって言われても」
早苗本人はいつの間にか手近な椅子に座っていた。何しろ、あれだけ多くの部活からその動向を注視されていた女子生徒が、よりによって存在自体が消滅しかかっているこんな休部中の部活に入るとは、普通に考えて想像できるようなものではない。
「そうね。強いて言えば、金津さんの推理に感服したからって言うのが一番かな」
「何だよ、それは」
「んー、何て言うかな。私ね、金津さんみたいな人を探していたのよ」
十影は意味がわからず早苗を見た。
「金津さんならわかるんじゃないかな?」
不意に早苗は麟五に話を振る。突然話を振られたにもかかわらず、麟五は落ち着いた様子で入部届けから顔を上げると、
「大方、昨日あれだけ言われたにもかかわらず折れることなく、自分で自分の無実を晴らした私の事が気になった。そんなところだと思う」
と、いともあっさりと答えた。早苗が感嘆の表情を浮かべる。
「さすがね。まぁ、平たく言えば、そんな感じかな。あれだけ周りが敵だらけだったのに、諦めずに自分の考えを貫いて、最後にはそれを実証して見せた。私はそれがすごいと思ったの。あなたは逆境にも負けずに自分を貫いた。私、部活に入るならそういう人がいるところにしようと思ってたから、ここしかないと思って」
「他にも部活はある」
「でも、あなたみたいな人はいなかった。色々見て回ったけどね。正直諦めかけていたんだけど、そこであなたに会った」
麟五は黙ったままだ。
「とにかく、私は金津さんと一緒に部活をやりたい。ここに入る理由はそれじゃ駄目?」
どうもこうも、十影には答えられない。麟五の方を見ると、彼女はしばらく考えていたが、
「十影君にも言ったけど、私に入部の是非を決める権利はない。あなたが入りたいというなら、それを止める権利もない。ただ……」
不意に麟五は早苗の方を見た。
「個人的にはさすがに推理小説に興味のない人が入るのはどうかと思うのだけれども、その辺りはどう? 推理小説を読んだ経験は?」
「人並みには読んでるつもり。と言っても、コナン・ドイルとか江戸川乱歩とかオーソドックスなのくらいだけど。ただ、興味はあったからこれを期に色々読んでみたいと思ってる」
「……だったら、私が文句を言う筋合いはない」
そう言うと、麟五はそれで会話はおしまいと言わんばかりに本に視線を戻してしまった。
「じゃ、OKということね?」
早苗が確認するが、麟五は答えない。早苗はそれを肯定と受け取ったのか、
「それじゃ、改めてよろしく」
と、二人に頭を下げた。それに対し、十影はこう返した。
「昨日あんな事があったのに、すぐに仲良くしろと言われてもな」
「まぁ、最初はそれでもいいわ。とにかく、同じ部活にいるんだから、話くらいはさせてよね」
あくまで早苗は明るく言う。十影は思わず早苗から視線を外した。
「ところで、さっきの質問には答えてくれないの? 私の名前を推理小説の登場人物に当てはめるとどうなるのかっていうやつ」
それに対し、麟五は小さくこう言った。
「玉村文代と鬼頭早苗」
「誰だ、そいつら。聞いた事がないんだが、やっぱり探偵の名前か?」
十影の言葉に、麟五は首を振った。
「玉村文代は名探偵・明智小五郎の妻の名前。鬼頭早苗は名作『獄門島』の中で金田一耕助をフッた人物。両方とも、日本でもっとも有名な名探偵がそれぞれ愛した女性」
「つまり、私はその二人の名前をくっつけてるってことね。喜んでいいのかはわからないけど」
早苗はそのような感想を漏らすと、十影に向き直った。
「ところで、とりあえずこれで休部解除条件の部員三人はクリアできたんじゃないかしら?」
「まぁな」
早苗の言葉に、十影は簡単に答える。少なくとも、これで休部の解除は申請できるはずだ。
「休部を解除するにはどうすればいいんだ?」
「生徒会に申請して許可をもらうはずだったと思うけど」
「金津、どうするんだ? さっさと行った方がいいとは思うんだが」
「……そうね」
十影に言われて、麟五は本を閉じると立ち上がった。
「早めに終わらせる」
そう言うと、麟五は部屋を出て行き、十影と早苗も慌ててそれに続いた。
「ミステリー研究会?」
生徒会室の正面の机の向こうで、眼鏡をかけて眉間にしわを寄せた生徒会長が胡散臭そうな声を上げた。遠藤穣太郎。三年生で、現時点におけるこの学校の生徒会長だ。漫画なんかに出てきそうな敵キャラ系生徒会長そのままといった風貌だが、その遠藤が、生徒会室を訪れた十影たち三人を前にして、麟五の提出した休部解除依頼書類を眺め回していた。
「そんな部活があったのか? 僕は聞いたことないんだが」
そう言うと、遠藤は隣の机で事務作業をしている女子生徒に顔を向けた。二年生の生徒会書記で、名前は小松磯美。非常に無口でさっきから必要最低限の事を事務的にしか喋らず、いるのかいないのかよくわからない地味な女子生徒だ。その磯美は黙々と無言で作業を続けていたが、遠藤の言葉に手近なファイルを開くとサッとページを開き、機械的に報告する。
「あります。部員がいなくなってかなり経つようですが、存続はしていますね」
「まったく。そういう部活は整理すべきだってあれほど言っていたのに」
遠藤はぶつくさ呟く。どうも反応が芳しくない。
「休部解除人数の部員三人は満たしている。問題でも?」
麟五は淡々とした口調で遠藤に問いかける。遠藤はムッとした様子で麟五を見ると、
「知っての通り、この学校は部活全入とかいうわけのわからない制度のせいで部活動が異常に乱立している。はっきり言うが、僕はこんな部活全入なんて制度は即刻やめるべきだと思っていてね。意味のわからない部活が多いせいで生徒会の予算はどんどん削られるばかり。おかげで生徒会の政策が滞って、肝心の生徒会主導の学校づくりができない状況だ」
十影としては入学したばかりなのでそんな状況など知るわけもないが、何やら不穏な空気になっていると言うことは何となく予想ができた。遠藤は、要するに、と言葉を続ける。
「生徒会としてはこれ以上わけのわからない部活が増えたり復活したりするのは困るんだ。だから、僕は休部中の部活の全面排除、部活全入制度の撤廃、それに部活選別制の導入を近日中に実行するつもりだ。そんな状況下で休部中の部活の復活を、僕が認めると思うのかい?」
遠藤はジッと三人を見据えた。だが、そんな脅しにも麟五は涼しい声で言い返す。
「そのいくつかの方針は、少なくとも現時点では行われていない。という事は、あなたがどんな公約を掲げていても、現時点では休部解除申請を受諾する義務が生徒会にはあると思う」
「もちろん、ちゃんとした休部解除申請なら受けるけどね」
そう言うと、遠藤は用紙の一点を示した。
「記入漏れだ。顧問の名前が書いていない」
「一年生にいきなり顧問を探せと言う方に無理がある。新歓期間が終わるまでに休部だけでも解除しておきたい。顧問は必ず依頼するから、まずは休部申請を通してもらいたいのだけども」
「駄目だ」
遠藤ははっきりと言った。
「ここが埋まらない限り、休部解除を認める事はできない。以上だ」
取り付く島もない。
「……ちなみに、あなたがさっき言っていた公約はいつから?」
「とりあえず、休部中の部活排除の件については新歓終了と同時に行う。あとは話し合いをしてからだ。意味、わかるな」
つまり、新歓終了までに顧問を見つけないと、問答無用で部活が消滅してしまうという事だ。
「そんな、無茶苦茶じゃないですか」
「決まった事だ。わかったらさっさと下がりたまえ。僕も忙しいのでね」
早苗が抗議するが、遠藤はまったく聞く耳を持たず、そのまま出て行けというジェスチャーをする。とはいえ、このまま下がったところで、新入生の自分たちに顧問を探すなどできるわけがない。どうにかならないかと、十影は必死に頭を回転させていた。
と、その時だった。不意に誰かが生徒会室に入ってきた。
「ごめんなさい。遠藤君、いるかしら?」
十影が振り返ると、そこには見知った顔がいた。
「あら、十影君に金津さん。こんなところで何をしているの?」
亜由美だった。手には封筒に入った書類を持っている。
「ええっと、宮下先生でしたか。僕に何か御用ですか?」
「生徒会担当の先生の代わりに関係書類を持ってきたんだけど」
そう言うと、亜由美は遠藤に持っていた書類を渡した。
「すみません、後で職員室に取りに行こうと思っていたのですが」
「こっちに来る用事があったからついでよ。気にしないで。ところで……」
仕事の話を事務的に済ませると、亜由美は話題を変えた。
「今、顧問がどうとかと言う話が聞こえたのだけども、どうしたのかしら?」
その言葉に、その場にいる大半が気まずそうな顔をする。唯一、麟五だけが普段のままで、
「休部解除を申請に来たのですが、顧問がいないと会長にはねつけられていたところです」
と、身も蓋もない解説をした。その言葉に、かえって遠藤が慌てる。
「おい、言い方ってものが……」
「事実です」
麟五はぴしゃりと会長の言葉をさえぎる。何も言えなくなってしまった遠藤を見ながら亜由美は何やら考え込んでいたが、
「それって、昨日金津さんがいたミステリー研究会のこと?」
と、尋ねた。ミス研の三人がそろって頷く。
「部員、そろったのね」
「顧問の問題さえ片付けば一番なのですが」
その言葉に、亜由美は少し黙った後、
「だったら、私がやってもいいわよ」
と、さらりと重大な発言をした。遠藤がエッと呆気に取られた表情をする。
「だから、ミス研の顧問だったらやってもいいって言ったの。ちょうど顧問の部活もないし」
「本当ですか?」
早苗がうれしそうな様子で確認する。が、遠藤がそれに待ったをかけた。
「ま、待ってください! 失礼ですが、顧問になる以上はその部活の活動に関する最低限の知識が必要です。先生はミステリーに造詣が深いのですか?」
遠藤の言葉に亜由美は少し考えると、
「そうね。推理小説は人並みに読む程度かしら。だから特別詳しいってわけでもないわね」
「だったら……」
ホッとした様子で否定しようとする遠藤の言葉に対し、亜由美はこう続けた。
「でも、大学時代に探偵事務所でアルバイトをしていたんだけど、それじゃ駄目なのかしら?」
このトンデモ発言に、その場が一瞬凍りついた。
「た、探偵事務所で、アルバイト?」
「ええ。品川の榊原探偵事務所。知らない?」
その言葉に反応したのは、意外にも麟五だった。
「本当ですか?」
「何? 有名な事務所なの?」
早苗が麟五に尋ねる。
「多分、現実の日本の探偵業界の中で一番有名な探偵事務所。事務所自体は捜査一課の元刑事が個人経営している小さなものだけど、その元刑事の探偵が凄腕で、警察に協力して犯罪史に残るような事件をいくつも解決していると聞いた事がある」
「そんな推理小説みたいなやつが本当にいるのか?」
「だからこそ、私も興味を持った」
十影の疑わしそうな問いに、麟五は端的に答える。
「所員はその元刑事の探偵を含めて三人しかいなくて、雇われている二人はその探偵の弟子的立場なんだとか」
「じゃあ、そこでアルバイトしていた宮下先生って……」
全員の視線が亜由美に集まる。亜由美は軽く微笑んでこう言った。
「弟子っていうのは言いすぎよ。私は基本的に事務作業が仕事で、あまり現場に出る事はなかったから。弟子と言うならもう一人の方ね。でも、最低限の知識は教えてもらったつもりだから、知識的には大丈夫だと思うんだけど」
それで十影は合点がいった。昨日の事件で亜由美は妙に落ち着いていて、まるでああいう事件に遭遇することに慣れているかのようだった。いくらなんでも不自然に思えたのだが、彼女がそんな探偵事務所の職員だったとすれば、犯罪捜査に慣れていること、さらには事件に関して先入観を持たずに対極的に見ることができることにも説明がつく。ひょっとして、彼女が歳の割に妙に大人びているのも、そこでの経験が根底にあるのかもしれない。
それはともかく、そんな人物ならミス研の顧問に最適ではないか。
「忙しいから普段は部活動に出られないけど、顧問になら喜んでなるわ。それで駄目かしら?」
亜由美に言われて遠藤が言葉に詰まる。こう言っては何だが、付け込む余地がまったくない。
「いいのではないでしょうか?」
と、硬直状態の面々に向かって、再び入り口から声がかかった。振り返ると、細目で温和な表情の、首に若草色のスカーフをした女子生徒が中に入ってきた。
「黒宮君、いつからそこに?」
「さっきからですわ。立て込んでいるみたいでしたので、入り口で待っていたのですけど」
黒宮と呼ばれた女子生徒は、そのまま磯美と反対側の机に座った。
「生徒会副会長の黒宮百合奈君だ」
遠藤が紹介し、女子生徒……百合奈が頭を下げる。おそらく二年生だろう。十影は遠藤の押さえ役という印象を彼女に持った。
「会長、書類に不備がない以上、認めるしかないと思われますわ」
「だが……」
「別に今更部活が一つ増えたところで、影響があるとも思えませんわ。それに、ここで拒否すると後々面倒な事になってくると思いますの」
遠藤は渋い表情をしていたが、やがて忌々しそうな顔をして書類の捺印欄に印鑑を押した。
「……これでいいだろう。用が済んだら行け!」
そう言うと、遠藤はそのまま別の書類に没頭し始めた。代わりに百合奈が頭を下げ、三人と亜由美は廊下に出た。
「えっと、要するにこれで休部は解除されたってことでいいのよね?」
早苗の言葉に、麟五は黙って頷く。
「とりあえず、よかったって事でいいんだな」
三人は一瞬顔を見合わせ、小さく安堵の息を吐いた。
「じゃあ、私は行くわね。また時々部活にも顔を出すから、そのときはよろしく」
そう言うと、亜由美はその場を去ろうとした。
「宮下先生、顧問引き受けてくださってありがとうございます」
早苗が挨拶し、十影も慌てて頭を下げる。麟五は興味なさげに亜由美を見ているだけだ。
「いいのよ。昨日の一件で私も興味があったから、お互い様って事で。じゃあね」
微笑みながらそう言うと、亜由美は去っていった。
「それじゃ、改めてミス研設立完了ってことで」
早苗が満面の笑みを浮かべながら言う。
「これから三年間、よろしく!」
「……あぁ」
「ええ」
残り二人は短く返事して、そのまま旧美術準備室へ足を向けた。
「ちょっと、何か反応してよ! 恥ずかしいじゃない!」
そんな二人の後を、早苗が追いかけていった。
かくして、朝之木高校ミステリー研究会は再び発足した。
とはいえ、そんな部活が人知れず発足したことなどほとんど誰も知らず、あれだけ話題をさらっていた玉村早苗もどこに入部したのかわからないという扱いになってしまい、それからしばらくは彼女がどこに入ったのかと学内でかなり噂となった。
いずれにせよ、この時点でミス研は数多くの部活が乱立するこの朝之木高校において最底辺にいる弱小部でしかなく、本来であるならその名が広まる事などないはずだった。
そして、このミス研の名を全校生徒に知らしめる事となったあの事件の発生が、この時すぐ近くまで迫っている事に、気づく者はまだ少なかった。