終章、前へ
「大西君、明日にでも復帰するみたいよ」
五月十三日金曜日。事件からすでに一週間が過ぎようとしていた。生徒会副会長が二件の殺人容疑で逮捕されるという前代未聞の事件に一時学校は騒然としたが、一週間もすると騒ぎも収まってきている。
当然、黒宮百合奈は生徒会を解任されると同時に学籍も失い、さらに事件のショックで生徒会長の遠藤も長期休学してしまったため、生徒会機能は停止してしまっている。そのため急遽新任の生徒会の選抜が行われることになったが、どうも書記の小松磯美がそのまま生徒会長に繰り上がる公算が強いという。遠藤の公約もそのまま白紙撤回されるようだ。
そんな中、一年二組では十影、赤島、紗枝子の三人が集まって弁当を食べていた。
「大西のやつ、退学にならずにすんだんだな」
「殺人には直接関与していないから、話を聞いただけで終わったみたいね。でも、今度は大西君が今まで十影君が受けてきた逆風に耐える事になるわ」
事件後、事件の真相は瞬く間に学校中に噂となって広まった。その結果、今まで十影に対して向けられていた冷ややかな視線は晴れる事になった。もちろん、まだぎこちない部分はあるが、以前に比べればかなりましになったはずだ。だが、代わりに事件を長年隠し続け、さらに結果的に今回の事件の引き金を引いた形になる大西への批判が強まっていた。
「お前、どうするつもりだ? 一番あいつを恨んでもおかしくない立場にいるわけだが」
赤島が心配そうに聞くと、十影はこう答えた。
「事情はどうであれ、あいつが俺をかばってくれた事実は消えない。完全に許せるわけでもないが、だからといって、友達をやめるつもりはない」
「ならいいんだがよ」
「そういう赤島たちだって、トリオを解消する気はないんだろう?」
赤島と紗枝子は互いに顔を見合わせると、黙って頷いた。
「にしても、肝心の金津は今日も部室か?」
赤島の視線の先には、誰もいない麟五の席がある。麟五が事件を解決したという事実は公式には発表されていないが、それでも生徒間の情報網は凄まじいもので、麟五に対する皆の接し方も変ってきている。もっとも、そんな状況でも麟五は自分のペースを崩していないのだが。
「みたいだな。せっかくだから、ちょっと様子見てくる」
そう言うと、十影は立ち上がって教室を出た。が、そこで隣の五組から見知った顔が出てくるのが見えた。五組副委員長の三河律子だ。瞬間、律子が息を呑むのが十影にもわかった。そのまま、二人は廊下で互いを見つめ合ったが、十影はそのまま律子の横をすり抜けて先に進む。
「……先に言っておくわ。謝る気はないから」
と、急に律子がそんな発言をした。十影も足を止め二人は背中越しに対峙する。
「私は、自分のした事が間違っているなんて思ってない。蘭奈の親族としては、蘭奈をあんな目に遭わせたやつに恨みをぶつけるしかなかった。そしてその相手は、あなたしかいなかった。真実が明らかになった今、あなたに対して申し訳なくは思うけど、自分のやった行為を否定するつもりはない。だから、あなたに謝るつもりはないわ」
「……お前は強いな」
十影の言葉に律子は首を振った。
「私はただ恨みをぶつけるしかないだけ。恨むのではなくあくまで蘭奈を信じて調べ続けた和光さんの方がよっぽど強いわよ。だから……私も変わらないと」
そう言うと、律子は十影の方を振り返った。
「蘭奈は自殺。あなたと違って私は黒宮の事件の直接的な遺族じゃないから、裁判の遺族傍聴の特権が使えないわ。つまり、必ず裁判傍聴できるとは限らないの。謝らないと言っておいて、あつかましいかもしれないけど、私が見られなかった裁判の様子を教えてくれないかしら」
「……ああ」
十影は結局一度も振り返らないまま返事すると、その場を去った。今の彼女との関係は、今はこれが精一杯だろう。だが、それでも大きな前進ではある。
それからしばらく歩き続け、十影はもはや馴染みとなった教室……旧美術準備室に着くと、ノックもせずにドアを開けた。案の定、ドアの向こうには麟五がびっくりするくらい変わらない様子で本を読んでいた。
「お前は変わらないな」
十影は苦笑するが、麟五は顔を上げない。
「何か?」
「いや、様子を見に来ただけだ。元気ならそれでいい」
そう言うと、何ともいえない沈黙がその場を支配する。十影も戻るでもなくその場に立ち続け、麟五は麟五で本を読み続けている。
「……で?」
不意に麟五が声を発した。
「そろそろ、本論に入ってもらいたいのだけど」
「何の話だ?」
「私にごまかしは無意味。何か話があるから、そこにいるのでしょう?」
「……さすがだな」
そう言うと、十影は首を振って麟五を見つめた。
「この前の推理についてだ。見事な推理だとは思ったし、事実その推理は正しかったわけだが、俺としては妙に引っかかった。平たく言えば、あまりに見事すぎたんだ」
十影の言葉に、麟五は黙ったまま先を促した。
「前半の昨日起きた事件の推理はまだしも、二年前の事件の推理は神がかりなんてものを軽く超えていた。あまりにも正確すぎるんだよ。根拠となっているのは宮下先生の証言だけにもかかわらず、あそこまで正確に事件の真相を暴き立てた。はっきり言うが、どんな名探偵でも証拠なしにあんなに正確な推理はまず無理だ」
「それで?」
「お前ほどじゃないが、俺も少しくらい考えることはできる。あれだけの情報であそこまで正確に推理するにはどんな条件があればいいか。そう考えてみたら、色々と不自然に思えてきた。例えば、いくら同じ中学校出身だったとはいえ、どうして和光のやつがミス研……いや、お前に調査の依頼なんてしたのか。盗難事件の事を知っていたにしても不可解すぎる。何しろ、お前は『殺人マニア』なんだからな」
十影は自分の考えを述べ続ける。
「それで思い出した。赤島がお前について『中一の頃までは今とは違って活発なスポーツ少女だった』って言ってた事にな。という事は、お前は中二の頃……つまり二年前からそんな性格になったわけだ。で、赤島に頼んで当時のお前の同級生を紹介してもらって話を聞いた」
十影は真相を告げる。
「思った通りだった。お前がそんな性格になったのは中学二年の夏休み明け……つまり、二年前の事件の直後だ。しかもその同級生の話じゃ、お前と和光は親友だったそうじゃないか」
麟五は何も反応しない。十影はかまわず続ける。
「二年生の夏休みの後、お前は急に部活を辞め、推理小説を読み始めた。同時に、和光との仲も疎遠になった……ように見せかけていたんだろ? 本当は裏でつながっていた」
「何のために?」
「和光と同じ目的……つまり、お前も七里蘭奈の無実を信じて、ずっと事件を調べていた。それが、俺の出した結論だ。もしそうなら、お前が二年前の事件についてあそこまで正確に推理できたのも頷ける。そもそも、二年前からずっと追い続けていた事件なんだ。事件の情報について詳しく知っていても当然だ」
十影の推理は続く。
「多分、和光が実際に調べて、お前がそれの情報をまとめる頭脳の役割だったんだろう。そして、お前たちは彼女の通っていた塾から大西洋の存在を知り、大西が事件に関係している可能性を見抜いた。だから、お前たちは大西が受験したこの高校に来て、ついに和光が大西から事件の真相を聞きだした。でも、和光はそれをお前に話すことなく暴走した」
麟五は無言のまま姿勢を変えないが、本を握るその手に力が入ったのを十影は確認した。
「要するに、お前は最初から、和光を殺した犯人が二年前の事件の犯人であることがわかっていたって事だ。だからこそ、黒宮が犯人とわかった時点で即座に宮下先生に黒宮の情報を調べさせて、その情報と二年前の事件の情報を瞬時に組み合わせる事ができた。だからこそ、あれだけ見事な推理ができたってわけだ。何か間違っているところはあるか?」
十影は緊張しながら麟五の言葉を待った。麟五はしばらくそのままの姿勢を崩さなかったが、やがて小さくため息をつくと、本を閉じて十影の方に顔を向けた。
「事件が解決した以上、もう隠す意味はない」
「正解って事でいいんだな?」
麟五は頷いた。
「和光さん……佐美代とは中学入学直後に出会った。彼女を通じて蘭奈とも知り合って、いつの間にか親友になった。でも、あの事件で蘭奈が疑われたとき、中学生に過ぎない私たちではどうする事もできず……結局、彼女の自殺を止めることができなかった」
「それで調べ始めたのか」
「私はひたすら推理小説を読んで、少しでも推理力をつけるようにした。同時に、そこで身につけた推理力で佐美代が入手してきた情報を分析していった。それが『殺人マニア』金津麟五の馴れ初め。噂の殺人ノートも、犯罪の傾向を調べるために書き始めたのがきっかけ」
「それで、ついに大西から手がかりをつかんだんだな」
「蘭奈と塾で一番仲がよかったと聞いていた割に、あまりにも事件に関心がなさすぎだったから。何かあると思って、二人で彼と同じ高校を受験した。まさか、同じ事件関係者のあなたや三河さん、おまけに犯人の黒宮までもがいるとは思わなかったけど」
「俺の事も最初から知っていたわけだ。俺を信じたのも、二年前の事件を疑っていたから」
「幻滅した?」
「いや。事情はどうあれ、俺の事を信じてくれたのは事実だ。それは変わらない」
その言葉に、麟五は覚悟を決めたようにこう告げた。
「あなたには話しておく。あの日の事件直前、この部屋で彼女とどんな話をしたのかを」
そう言うと、麟五はこの事件の最後の真実を語り始めた。
「何か用?」
事件当日、授業終了直後。旧校舎のミス研部室で二人の女生徒……金津麟五と和光佐美代が対峙していた。佐美代は入口のドアの前に立ち、麟五は窓際で本を読み続けている。
「ついに手がかりをつかんだよ」
佐美代の言葉に、麟五は少し眉を上げ、本を閉じた。
「あなたと私の関係は知られるわけにはいかないはず。それでも接触してきたという事は、よほどの事と見るけど」
「……変わったよね。麟五ちゃん」
不意に、佐美代は口を緩めると、麟五の問いを無視してそんなことを言った。
「昔はもっと活発で、三人の中でもムードメーカーだったよね。活発な麟五ちゃんと生真面目な私とおとなしい蘭奈ちゃん……あの頃が懐かしいよ」
「今更過去を振り返るのは無駄。蘭奈の敵を取ると決めたからには、それを成し遂げるまで」
「うん。でも、それも今日で終わるよ」
その言葉に、麟五は顔を上げた。
「何があったの?」
「大西洋がついに吐いたわ。連休前に夜の校舎で詰問して」
その言葉で、麟五は何がわかったのか瞬時に悟っていた。
「やっぱり、私たちの推理は間違っていなかったの」
「……それで、大西君は何と?」
だが、佐美代は悲しそうに首を振ると、麟五が何かを言う前に彼女に背を向け、こう続けた。
「約束して。この後私に何か起きたら、麟五ちゃんがそれを調べるって」
その言葉に、麟五は少し黙ると佐美代に呼びかけた。
「何をするつもり?」
「私にしかできない事。麟五ちゃんは、ただ前を向いて進んで」
微笑みながらそう言うと、佐美代はドアに手をかけ、最後に決然と告げた。
「汚れ役は……私一人で充分だから」
佐美代は部屋から出て行った。この時点で、さすがの麟五も彼女が何を考えているのかまではわからなかった。だが、彼女の覚悟した表情に、麟五は何も言うことができないまま、彼女を見送るしかなかった。
その一時間半後、和光佐美代はその果かない命を散らす事となる。
「なるほどな。だからお前は、和光が何かしようとして事件が起きたとすぐに理解したわけか」
「殺人を考えていたというのはさすがに予想外だった。もしわかっていたら、全力で止めている。もう、二度とあんな悲しい思いはしたくないから」
麟五が悔しそうな口調で言う。十影はあえて気づかないふりをして、言葉を続けた。
「和光は黒宮を殺し、お前にそれを暴いてもらうことで自ら逮捕され、裁判で黒宮の所業を暴露するつもりだった。でも、黒宮のほうが上手で、逆に殺されてしまった」
「最初に事件の話を聞いたときは後悔した。でも、このまま事件が迷宮入りしたら、それこそ佐美代が浮かばれない。残った私があの場で解決しないといけなかった。何としても」
「それが、お前があんなに無茶して捜査に首を突っ込んだ理由か」
麟五は頷いた。しばしその場を沈黙が支配する。
「……それで、事件が解決して、これからお前はどうするつもりだ?」
「十影君はどうするの? 長年重石になっていた事件の呪縛は解けたはずだけど」
「俺は、もう逃げない事にした」
十影はまっすぐ答えた。
「このまま逃げ続けていたら、死んだ伯父も浮かばれない。俺はお前みたいに推理をする事は無理だ。でも、できる事はある。まずは黒宮の裁判を傍聴して、事件と向き合うつもりだ。その上で……推理小説も読んでいきたいと思っている。俺も、いい加減に前に進まないとな」
「そう」
「で、お前は? 昔みたいにスポーツ少女に戻るのか?」
冗談交じりに言うと、麟五は首を振った。
「今更戻れないし、戻るつもりもない。今の私にはこれが一番合っている。蘭奈の無念を晴らすために読み始めた推理小説だけど、今ではもう切っても切れない関係。何も変わらない」
ただ、と麟五は続けた。
「ここでとどまるつもりもない。佐美代が切り開いてくれた未来。私も、あなたと同じで前に進まないといけない。そうしないと、あの二人に対する冒涜になる」
そう言うと、麟五は十影にこう言った。
「私からもお礼を言わないといけない。推理のとき、あなたと玉村さんは私の推理を信じてくれた。あれがあったからこそ、私は黒宮を追い詰める事ができた」
「俺は、お前が正しいと思ったから信じただけだ。それこそ、お前が盗難事件のときに俺の無実を信じてくれたのと変わらない」
「それでも、あなたが私のことを信用してくれたのは事実。二年前の事件の後、誰が蘭奈を殺したのかわからない状況で、私が心の底から信じられたのは佐美代だけだった。でも……」
そう言うと、麟五はおもむろに前髪に手をやった。十影が驚いていると、麟五は前髪を上げて、どこから取り出したのかカチューシャでまとめ上げてしまった。結果、今まで前髪の下に隠れていた素顔があらわになる。
「お前……」
「今まで前髪で顔を隠していたのは、誰も信用できない状況で相手に表情を読まれないためでもある。でもあなたたちになら……この素顔を見せても問題ないと判断した」
初めてまともに見るその素顔は、今までの淡々とした口調や仕草とは裏腹に、どこか可憐な印象を与えた。二年前の事件がなく、彼女が活発なスポーツ少女のままだったら、きっとクラス中の男子が放っておかない存在になっていたに違いない。思わず赤くなりながらも、十影は必死に冷静になるようにしながら言った。
「つまり、俺の事を少しは信頼してくれたって事か? 理論じゃなくて、心の部分で」
「想像に任せる」
と、その時十影の背後のドアが開いて誰かが飛び込んできた。
「大変よ……って、麟五ちゃん、それどうしたの?」
早苗だった。素顔をさらした麟五に目を白黒させつつ、息を弾ませながら問いかける。
「私のけじめ。それより、何か?」
「あ、そうそう。実はね、ミス研に入りたいって人が来てるの」
十影と麟五は顔を見合わせた。
「確か、会長が辞めたせいで部活削減は撤回されたんだったよな」
「しかも事件の噂を聞いてミス研の知名度も上がったみたい。で、どうしようか?」
麟五は少し黙ったが、やがて今までで初めてかもしれない小さな笑みを浮かべてこう言った。
「話は聞く。どうするかはそれから」
朝之木高校ミステリー研究会は、今、さらに前へと進もうとしていた。