↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

一人暮らしはさみしいです。

作者: 瀬乃 一
掲載日:2026/10/12

 仕事で失敗をした。

 社会人なりたてホヤホヤの私にはひたすら謝りすることしかできなかった。教育係の先輩は許してくれた。上の人には先輩が私の代わりに頭を下げて謝ってくれた。

 先輩は「最初だから仕方ない」とか「次どうしようか考えよう」とか前向きな言葉をかけてくれたけど未だに引きずっている。


 仕事帰りのアパートの玄関。手にはコンビニ弁当と野菜ジュースの入ったビニール袋をぶら下げていた。

「ただいま……」

 この時が一番寂しい。誰も「おかえり」とは言ってくれない。が、もう慣れた話だ。

 

 靴を脱ぎ捨てベッドに倒れる。

 気づけばスマートフォンを握っていた。母ちゃんから一通のメールが届いていた。

 今どきメールか、と思いながら開いた。

 

 また、ちゃんと食べている?みたいな内容だった。普段なら面倒に感じていたが、この時ばかりは違った。母ちゃんと父ちゃんに会いたいな……


*


 私は急遽、実家に帰った。

 帰ってくる電話もしてない。無性に会いたかった。


「ただいまー」

 「え、瑞葵?急に帰ってきてどうしたの!?」

 台所から母ちゃんがドタバタと走って私の前に立つ。

 「なんでもないよ、ただ用事があって近くに来たから寄り道しただけ」

 この歳になって「母ちゃん、父ちゃんに会いたくなった」なんて言えるわけなかった。



 実家に帰ってから何一つ特別なことはしていない。

 母ちゃんのご飯を食べて、父ちゃんの話を聞いて、テレビを見る。

 家族旅行に行くわけでもないし、豪華な食事をするわけでもない。

 いつもの家で、いつもの家族と、いつもの時間を過ごす。

 それだけだ。

 だけど、そんな日常に満足していた。ずっと家にいたいなんて思ったりもした。


 な〜んて、前言撤回だ。

 ソファの上でくつろいでいる時のことだった。


「仕事上手くいってる?母ちゃん心配だよ〜」

「……大丈夫、心配しないで」


「本当に?」

「本当だって」


「今度、見に行こうかな」

「いいから!かまわないで!」


「そう?ならいいんだけど」


 別に、嫌いなわけじゃない。

 むしろ、好き。

 好きだからこそ、心配してくれるのもわかっている。わかっているけれど、たまには面倒くさい。

 

 私は実家に帰りたい。

 でも、実家に帰ったら、一人暮らしの部屋にも帰りたくなる。

 自由に過ごせる自分の部屋が恋しくなる。

 誰にも何も言われず、好きなものを食べて、好きな時間に寝る。

 そういう生活だって、私は気に入っている。

 だから、実家に帰っている間も、ときどき思う。

 ああ、早く自分の部屋に帰りたいな、と。

 そんなことを思いつつも一夜泊まらせてもらう事にした。


*

 

 帰る日の朝、母親が言った。

「今日、帰るんだっけ?」

「うん」


「何時ごろ?」

「昼過ぎくらい」


「じゃあ、お昼食べてから帰りなよ」

「わかった」


 私は朝ご飯を食べながら、スマートフォンを眺めていた。

 特に見たいものがあるわけではない。

 ただ、なんとなく画面をスクロールしていた。


 母ちゃんが食器を片付けている。

 父ちゃんはテレビを見ている。

 いつもどおりの朝だった。

 私は、この家が好きだ。

 でも、いつまでもここにいるわけにはいかない。

 仕事もあるし、自分の生活もある。

 だから帰る。

 それだけのことだ。




 昼ご飯を食べ終わり、荷物をまとめた。

 忘れ物がないか確認する。

 財布、スマートフォン、充電器。

 大丈夫。


 玄関で靴を履いた。

「じゃあ、またね」

 母ちゃんが言った。

「うん。またね」

 私は全力の笑顔で家を飛び出した。

 

 父ちゃんも居間(リビング)から声をかけてきた。

「気をつけて帰れよ」

「はーい!」


 私は玄関のドアを開けた。

 外に出る。


 ドアが閉まった。

 それで終わりだった。

 泣いたわけでもない。

 もっと一緒にいたい、と言ったわけでもない。

 またね、と言って、普通に帰った。

 いつものことだ。


*


 駅までの道を歩く。

 実家の近くには、昔からある小さな商店がある。

 その前を通り過ぎた。


 子供のころ、母ちゃんと一緒に買い物に来たことがある。

 別に、特別な思い出があるわけではない。

 何を買ったのかも覚えていない。

 ただ、そんなことがあったな、と思った。


 駅に着いた。

 電車を待つ。

 私はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。

 電車は、あと三分で来る。

 まだ少し時間がある。

 

 なんとなく、後ろを振り返った。

 当然、実家は見えなかった。

 駅まで来ているのだから、当たり前だ。

 それでも、私はしばらく後ろを眺(なが)めていた。


 何をしているんだろう。

 自分でもわからない。


 電車が来た。

 私は乗り込んだ。

 窓際の席に座り、外を眺めた。


 ガタゴトと電車が動き出す。

 見慣れた景色が、少しずつ遠ざかっていく。

 私は、もう一度だけ振り返った。

 もちろん、何も見えなかった。


*


 お腹が痛くなったのは、そのあとだった。

 最初は、少し違和感があるくらいだった。

 私は姿勢を変えた。

 治らない。

 おかしいな、と思った。

 朝も昼も、いつもどおり食べた。

 特別、体調が悪かったわけでもない。

 なのに、お腹が痛い。


 私はお腹に手を当て、窓の外を眺めた。

 電車は、実家から離れていく。

 もう少しで乗り換えだ。

 そのあとは、いつもの駅に着く。

 

 駅から歩いて、自分の家に帰る。

 洗濯物を片付けて、夕飯を作って、お風呂に入る。

 明日は仕事だ。

 

 いつもどおりの生活が待っている。

 私は、その生活が嫌いなわけではない。

 むしろ、一人暮らしは気楽でいい。

 誰にも気を遣わなくていいし、自分の時間もある。

 好きなものを食べられる。

 好きな時間に寝られる。

 母ちゃんに「野菜を食べなさい」と言われることもない。


 ……いや。

 野菜を食べなさい、くらいなら、言われてもいいのかもしれない。

 いや、やっぱり、毎回言われるのは面倒くさい。

 

 私は小さく息を吐いた。

 何を考えているんだろう。

 自分でもよくわからない。


 ただ、お腹はまだ痛かった。


*


 家に着いた。

 玄関のドアを開ける。

「ただいま」

 言ってから、少しだけ笑ってしまった。

 誰もいないのに。


 私は靴を脱ぎ、部屋に入った。

 部屋は、出かけたときと何も変わっていなかった。

 机がある。

 ベッドがある。

 洗濯物がある。

 冷蔵庫には、一昨日(おととい)買った食材が入っている。


 ここが私の家だ。

 今は、ここが私の帰る場所なのだ。

 私は荷物を置き、上着を脱いだ。


 とりあえず、お茶でも飲もう。

 そう思って台所に向かった。

 お湯を沸かしている間、スマートフォンが震えた。

 母親からだった。


『ちゃんと家に着いた?』

 私は画面を見た。

 ほんの少し、笑ってしまった。

 ついさっきまで一緒にいたのに。

 もう心配している。

 本当に、心配性だ。


 私は返信した。

『着いたよ』

 すぐに返事が来た。

 

『よかった。ちゃんとご飯食べなさいね』

 私は画面を見つめた。

 そして、少し考えてから返信した。


『わかってるよ』

 それだけ送って、スマートフォンを置いた。


 お湯が沸いた。

 私はお茶を淹れた。

 湯気が立ち上る。

 

 部屋は静かだった。

 さっきまで、母ちゃんの声が聞こえていた。

 父ちゃんが大音量でテレビを見ていた。

 私はそれを、うるさいな、と思っていた。

 もう少し静かにしてほしいな、とも思っていた。

 それなのに、今は静かすぎる気がした。


 私はお茶を飲んだ。

 少し熱かった。


*


 私はお茶を飲み終え、カップを洗った。

 それから、母ちゃんにメールを送った。

 

『今日のご飯、おいしかった』

 送信してから、少し恥ずかしくなった。

 こんなこと、わざわざ言わなくてもいいのに。


 でも、もう送ってしまった。

 しばらくすると、返事が来た。


『よかった。また帰っておいで』

 私は、その文字を眺めた。

 

 また帰っておいで。

 たったそれだけの言葉だった。

 私はスマートフォンを置き、窓の外を見た。


 明日は仕事だ。

 洗濯物も片付けなければならない。

 夕飯の買い物にも行かなければならない。


 いつもの生活が始まる。

 私は、ここで暮らしていく。

 きっと、これからも。

 でも、次に実家へ帰る日を、少し楽しみにしている。

 母ちゃんにご飯を食べたかと聞かれて、また面倒くさいと思うだろう。

 父ちゃんの話を聞いて、また同じ話だと思うだろう。

 そして、帰る日になったら、もう少しここにいたいと思うのだろう。

 駅まで歩きながら、何度も振り返るのだろう。

 お腹だって、また痛くなるかもしれない。

 

 それでも、私は帰りたい。

 だって、あの家には、私のことを心配してくれる人がいる。


 少しくらいウザくても。


 面倒くさくても。


 私は、あの家が好きなのだ。

 一人暮らしは、さみしいです。


 でも。

 帰る場所があるというのは、たぶん、幸せなことです。

 

 私はスマートフォンを手に取り、母ちゃんとのメッセージ画面をもう一度開いた。

 そして、今度は何も送らずに、画面を閉じた。


 次に帰るのは、いつにしよう。

 そんなことを考えながら、私は明日の仕事の準備を始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。