第3話:地下1000メートルの湯治場 ―49歳、究極の癒やしに挑む―
第3話:地下1000メートルの湯治場 ―49歳、究極の癒やしに挑む―
1. 職人の朝と、新たな「設計図」
完璧な排泄は、心身を浄化する。
昨夜完成させた「魔導式温水洗浄便座」によって、俺のQOLは劇的に向上した。だが、人間というのは強欲な生き物だ。一つの不満が解消されると、次に解消すべき「穴」が鮮明に見えてくる。
「ベア、今日から三日間は、この区画を立ち入り禁止にする。大規模な『湿式工事』に入るからな」
朝、シルク・スライムのシーツから這い出た俺は、腰の関節を鳴らしながら宣言した。
ベアトリーチェは、昨日のトイレ騒動で既に肝が据わったのか、あるいは単に思考を放棄したのか、銀髪を揺らしながら淡々と応じる。
「……承知いたしました。次は、何をお作りになるおつもりで? 敵の侵攻を遅らせるための『底なし沼』や『酸のプール』でしたら、私が協力いたしますが」
「惜しいが、用途が正反対だ。俺が作るのは、あらゆる疲れと毒素を洗い流す、究極の『癒やし空間』――大浴場だ」
風呂。
それは、49歳の日本人男性にとって、単なる身体の洗浄場所ではない。それは一日という戦場を生き抜いた戦士が、唯一鎧を脱ぎ、己を「無」に還すための神殿だ。
長年の現場監督生活で、俺の身体はボロボロだった。慢性的な肩こり、冷えると疼く膝、そして何より、責任という名の重圧に晒され続けた精神。異世界に来て身体が軽くなったとはいえ、魂に染み付いた「湯船への渇望」は、魔導を以てしても容易には消えない。
「ベア、火属性の魔石を十個、それと『多孔質の火成岩』を集めてきてくれ。あと、できれば香りの強い常緑樹の枝もだ」
「……温泉を、自作なさるのですね。しかも地下1000メートルのこの閉鎖空間に」
「そうだ。掘り抜いて、繋ぐ。基本はそれだけだ」
俺は魔導スコップを握り直し、居住区のさらに奥、昨日見つけた水脈の分岐点へと向かった。
2. 掘削、そして「止水」の矜持
大浴場建設において、最も重要なのは「漏水防止」だ。
地下空間で風呂を作るということは、一歩間違えればダンジョン全体を水浸しにし、地盤沈下を引き起こすリスクを孕んでいる。
俺はまず、半径5メートルほどの円形空間を掘り抜いた。
ザシュッ、ズズズッ――。
魔導スコップが岩盤をバターのように切り裂いていく。だが、俺は力任せには掘らない。地層の「目」を読み、水の重みが均等に分散されるよう、壁面を緩やかなアール(曲線)に仕上げていく。
「ふぅ……。ここからが本番だ」
掘り出した空間の底に、俺は「魔導レベリング(水平出し)」を施した。
次に、防水処理だ。
現代日本ならFRP(繊維強化プラスチック)や防水シートを使うところだが、ここにはそんなものはない。代わりに俺が選んだのは、コアから生成した「魔力伝導性の高い粘土」と、ベアが持ってきた「火成岩」の粉末を練り合わせた特製パテだ。
俺はコテを手に取り、四つん這いになって床を撫でる。
シュッ、シュッ、ヌラァ……。
粘土が岩の微細な隙間に入り込み、魔力によって硬化していく。この「左官作業」こそ、DIYの醍醐味だ。自分の手が通った場所が、鏡のように滑らかになり、機能性を帯びていく。49歳の膝が「そろそろ休憩しろ」と悲鳴を上げるが、この完璧な平面を前にしては、休む暇などない。
壁面には、あえて荒々しい石を配置した。
「機能的なトイレ」とは対照的に、風呂には「情緒」が必要だ。
地下の暗闇に、魔法で発光する苔を配置し、それが水面に反射してゆらゆらと揺れる様子を想像するだけで、腰の痛みが少しだけ和らぐ気がした。
3. 三人称視点:『聖域の噂』と、ベテランの戦慄
その頃、地上世界の「冒険者ギルド・ノースエンド支部」では、ある不可解な報告が波紋を広げていた。
「おい、聞いたか? 西の森に突如現れた『新築の穴』の話」
「ああ、逃げ帰ったゴブリン共が『鏡の神殿だ』って喚いてる例のやつだろ。どうせ光の加減で見間違えたんだ」
酒場の隅で、その会話を苦々しい表情で聞いていた男がいた。
ベテラン冒険者、アイゼン。歴戦の戦士である彼は、ゴブリンたちの「恐怖」が本物であることを直感していた。彼は自ら調査に赴き、その「入口」を目撃してきた一人だった。
「……ありゃあ、鏡じゃねえ」
アイゼンが重い口を開くと、周囲の冒険者たちが静まり返った。
「俺も見てきたが、入口から十メートルほど、壁が……『磨き抜かれていた』。魔法で凍らせたわけでも、幻影でもねえ。石そのものが、職人の執念で削り取られ、一切の塵を許さねえほどに平滑に整えられてやがった」
「それのどこが怖いんだよ、アイゼン。ただの綺麗好きな魔王だろ?」
「馬鹿を言うな。あんな精密な芸当、並の魔力じゃできねえ。それに……あの空間に入った瞬間、俺の身体が震えやがった。強大な殺気じゃねえんだ。もっと根源的な、『俺のような雑な存在はここに居てはいけない』という圧倒的なまでの『秩序の暴力』だ」
アイゼンは震える手でジョッキを煽った。
「あそこに住んでるのは、魔王じゃねえ。……この世のあらゆる歪みを許さない、『世界の調律者』か何かだ。あんな場所を攻略しようなんて奴は、よっぽどの命知らずか、よっぽどの綺麗好きだけだぜ」
地上の冒険者たちが「未知の恐怖」に怯えている頃、その『世界の調律者』は、パン一丁で配管の継ぎ目にシーリング材を流し込んでいた。
4. 追い焚きの儀 ―49歳のエンジニアリング―
さて、大浴場の構造はできた。だが、これだけではただの「水溜まり」だ。
俺が求めているのは、42度の安定した湯温。そして、お湯が汚れないための循環システム。いわゆる「追い焚き機能」である。
「よし、ベア。火石をここに配置しろ。俺が魔導回路を組む」
俺は浴槽の裏側に、二重構造の熱交換器を設計した。
まず、浴槽の底からお湯を吸い上げる「往き」の管。
次に、火属性の魔石を熱源とした加温ユニット。
そして、温まった湯を戻す「戻り」の管。
単純な火属性魔法で直接お湯を温めると、湯温にムラができるし、何より「火傷」の危険がある。だが、この熱交換システムなら、お湯は一定の温度で優しく循環する。
「マスター……この、複雑に絡み合った管は何なのですか? まるで魔物の内臓のようですが」
「これは『愛』だ。ベア。常に一定の温かさで包んでくれる、日本が誇る『追い焚き』という名の愛なんだよ」
さらに俺は、風属性の魔導モーターを自作し、スクリューを回転させた。
これにより、浴槽内に緩やかな対流が生まれる。
仕上げに、ベアが持ってきた常緑樹の枝をネットに入れ、湯口にセットした。
「よし。水入れ(通水テスト)だ」
コアに念じると、浄化された伏流水が勢いよく湯口から溢れ出した。
加温ユニットが静かに作動を始める。
*ゴオォ……*という微かな魔力の燃焼音とともに、無色透明だった水が、白い湯気を上げ始めた。
地下の冷たい空気が、一気にしっとりとした熱気に包まれていく。
「……いい温度だ。誤差、マイナス0.2度。許容範囲だな」
5. ベアトリーチェの「陥落」
数時間後。
地下1000メートルの「サンクチュアリ」には、幻想的な光景が広がっていた。
壁面の苔がエメラルド色に輝き、磨き上げられた岩肌に、ゆらゆらと水面が反射している。
漂うのは、清涼感のある木の香りと、微かな土の匂い。
「ベア、お前から入れ。初めての客だ」
「えっ、私がですか!? ですが、私は魔族です。このような……聖域のような場所を汚しては……」
「馬鹿を言え。俺が作ったんだ。俺が許す。それに、お前、さっきから肩が凝ってるって顔をしてたぞ」
俺はそう言って、脱衣所(もちろん、棚とカゴを自作した)へ彼女を促した。
……十分後。
大浴場から、これまで聞いたこともないような「音」が聞こえてきた。
「はふぅううううう……んんっ……あぁあああ……」
それは、一国を滅ぼす実力を持つ最強の魔族が、完全に骨抜きにされた、締まりのない吐息だった。
俺は浴場の外で、自分用に自作した木製ベンチに座り、その声を聞きながら小さく笑った。
「(三人称視点)」
ベアトリーチェは、熱い湯の中に身体を沈めながら、かつてない衝撃に震えていた。
魔族にとって、水は汚れを落とすための手段に過ぎなかった。だが、この「お湯」は違う。
身体の芯まで熱が浸透し、毛穴という毛穴が開き、凝り固まっていた魔力の淀みが一気に溶け出していく。
何より、この「追い焚き」の一定した温かさが、彼女の心を芯から解きほぐしていた。
「……何、これ……。マスター、あなたは何をしたのですか……」
彼女は湯船の縁に頭を預け、天井を見上げた。
そこには、盆山が丹精込めて磨き上げた、一点の曇りもない岩盤の天井がある。
この場所なら、自分を狙う敵も、背負わされた呪いも、すべてどうでもいいと思えてしまう。
ベアトリーチェの精神は、この瞬間、完全に「盆山茂」という一人のDIYおじさんに屈したのだ。
6. 49歳の至福、そして
ベアと交代し、ついに俺の番が来た。
身体を丁寧に洗い、一気に湯船へ。
「ッ……ぬおおおおお……ッ!」
思わず、腹の底から声が漏れた。
42度の熱が、固まっていた腰の筋肉を優しく解きほぐす。
浮力によって、49年分の重力が消え去っていく。
「これだ。これをやるために、俺は異世界に来たのかもしれないな」
お湯を手に掬う。
俺が掘り、俺が引いた、最高の水。
ふと見ると、脱衣所の方で、湯上がりのベアが真っ赤な顔をして、自作の「シルク・スライムのバスタオル」にくるまって呆然と座っていた。その目は、どこか遠い世界を見ているようだ。
「ベア、風呂上がりはこれが一番だぞ」
俺は、冷やしておいた「伏流水の魔導冷却水」を彼女に渡した。
彼女はそれを一口飲むと、再び「……ふぇ」という間の抜けた声を漏らした。
地下1000メートル。
不落の壁に守られた、究極の癒やし空間。
盆山の「再生」は、この温かな湯船から、さらなる加速を見せようとしていた。
「次は、ベア。風呂上がりの『飯』だな。キッチンを、ガチで作るぞ」
俺の言葉に、ベアは力強く、しかしどこか蕩けたような声で頷いた。
「……はい。マスター。どこまでも、ついていきます」




