表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

灼熱のトランジット

作者: らくろ
掲載日:2025/12/29

その夏は、異常なほど熱かった。


妻の夏帆が死んでから、健一は仕事をやめ、千葉の九十九里の空き家に引っ越していた。二人で無理して借りた笹塚のマンションは、思い出が染みつきすぎて息ができなかった。かといって、その場所を失うこともできず、契約だけは残したままだ。


健一がここに越した理由は、いつも夏に夏帆と来ていたこの海にあの日、夏帆の骨を撒いたからだ。


海は生命の源だ。いつか、もう一度、彼女がここから還ってくるのではないか。


そんな非論理的な妄想だけが、健一を生かしていた。


時間感覚は麻痺し、空腹も感じない。陽射しが肌を焼く感覚すらない。ただ窓の外の海を眺め、たまに海沿いを歩くだけの何も考えない日々を送っていた。


その日、健一は波打ち際を歩いていた。


正午、小さな影が砂の上で足元にねっとりと張り付き足取りを重くした。


九十九里の広大な砂浜は、白く乾いた熱気で歪んでいた。アスファルトのような陽炎が砂の上に立ち上がり、水平線と空の境界は熱に溶けて、曖昧になっている。


暑さを楽しむサーファー達も、暑さに負けて冷房の効いた車に逃げ帰る人達もいる中、健一だけが、分厚いガラスを隔てたように、その熱気から切り離されていた。


ふと、前方を見た健一は、足を止めた。


波が引いた後の濡れた砂浜。


そこに、彼女が立っていた。


「……なつほ?」


声は、潮風に混じって消えた。


見間違えるはずがない。夏が好きだった、薄い水色のワンピース。陽射しを避けるように傾けた、白い日傘。


波打ち際を、彼女は独りで静かに歩いている。


死んだ。骨も拾った。この海に撒いた。


これは幻覚だ。海に、砂に反射する強烈な光が、壊れた脳に見せている蜃気楼だ。


健一は強く目を閉じ、もう一度開いた。


他人の空似ではない彼女はまだ、そこにいた。


そして、ゆっくりとこちらを向いた。


目が合った。


止まっていたはずの心臓がギシリと音を立てた。


その瞬間、健一は全てを理解した。


彼女は微笑んでいた。だが、それは夫である自分に向ける笑顔ではなかった。もっと穏やかで、もっと澄み切っていて、まるで重力からさえ解き放たれたような、不思議な透明感をたたえていた。


健一の妻としての「夏帆」ではない。


もっと大いなる、魂としての存在。


彼女の唇が、音なく動いた。


『ごめんなさい、ちょっとだけ』


彼女の視線は、健一を見ているようで、その実、水平線のさらに先、果てしない青空の、その奥を見据えていた。


途方もない旅の途中なのだ。


地球ではない、どこか遠い宇宙。想像もつかないような星系で、まったく異なる「生」を始めるための、長い旅路。


その途上で、ほんの偶然、ほんの束の間、かつて自分が生きたこの星の、境界線に降り立った。


健一に会いに来たのではない。


宇宙的な規模で言えば、ほんの少し軌道がかすっただけ。


乗り継ぎの待合室から、懐かしい故郷の景色を、一瞬だけ窓越しに眺めるような。


それで良かった。それだけで、十分すぎた。


風が吹き抜け、彼女はもう一度健一を見た。


その瞳には、未練ではなく、ただ純粋な「認識」だけが浮かんでいた。


『ああ、あなただったの』とでも言うように。


彼女は小さく会釈すると、水平線の彼方へと視線を戻した。


その姿は、きらめく波の光の中に溶けるように、ふっとかき消えた。


健一は、夏帆が立っていた位置を見つめたまま動けなかった。


波の音が、一瞬だけ無音になった。


次の瞬間、止まっていた世界が、暴力的なまでの質量を持って流れ込んできた。


――うるさい。


押し寄せる波の音が、鼓膜を破るほどに轟いている。


――熱い。


焼けた砂の熱が、足の裏から突き刺すように伝わってくる。


全身の血が、凍っていた川が解けるように、激しい勢いで巡り始める。


どく、どく、と心臓が痛いほどに脈打った。


「……いってらっしゃい」


乾いた唇から、声が漏れた。


その時、健一の額から汗がたらりと一筋、こめかみを伝って砂の上に落ちた。

別れはあっという間でどうしても忘れられない人がいると思います。そんな時に現れた小さな救いを描きました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ