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休み時間になると、甲斐はおそるおそる由佳に話しかけた。
彼女は一応、ぽつりぽつりと返事を返してくれる。だが、その声には先ほどのような抑揚も温度もなく、淡々としていた。まるで、決められたセリフを読み上げているかのように。目線もほとんど合わず、机の一点を見つめたまま、必要最低限の言葉だけを紡ぐ。
その様子に、甲斐は軽い眩暈を覚えた。――あの瞬間、確かに心が触れ合った気がしたのに。自分の中で勝手に期待を膨らませ、勝手に裏切られた気分になる。
しかし、それでも彼は諦めきれなかった。
ようやく見つけた、一筋の光。そのわずかな温もりを、たとえ幻でも、簡単に手放したくはない。もしかしたら、彼女も照れているだけかもしれない。あるいは、周囲の目を気にしているのかもしれない。――そう思いたかった。
だから甲斐は、めげずに口を開いた。話題を変え、角度を変え、何度でも。
返ってくるのは、相変わらず短く、冷たい言葉ばかりだったが、それでも甲斐にとっては十分な「希望の欠片」だった。沈黙よりは、ずっとましだ。
次の日も、その次の日も——。
甲斐は由佳に話しかけ続けた。趣味、好きな食べ物、芸能人、動物……思いつく限りの話題を振ったが、どれも成果は得られない。
次第に甲斐の胸に、不安が忍び寄ってくる。——あの授業中の一件は、ただの妄想だったのか。
由佳は相変わらず冷めた返答しか寄こさず、徹底したポーカーフェイスを崩さなかった。
そこで甲斐は趣向を変え、「少しは表情筋を動かせ!サボるな!」と軽口を叩いてみたが、それでも由佳の顔色は一切変わらない。
そんな甲斐が必死に由佳へ話しかけている間、外野は大騒ぎだった。
「変態」「性犯罪者」「ストーカー」「君塚さんが可哀想」——罵詈雑言の嵐。背中を蹴られ、殴られることさえあった。
これが“生真面目病”の特性の一つである。お節介といえば聞こえはいいが、彼らは正義感を振りかざし、目的のためなら手段を選ばない。異性に個人的な質問をしている——それだけで、攻撃する大義名分が成り立つのだ。
甲斐は気づいていないようだったが、これほど執拗に話しかけているのに、冷淡とはいえ、由佳が返答をしている時点で——彼女は他とは少し違っていた。
一般的な“生真面目病”患者なら、そもそも個人的な質問には答えず、場合によっては攻撃的な態度を取るものだからだ。
その後もいくら話しかけても、一向に成果は得られなかった。
それでも甲斐は、決して諦めようとはしなかった。
このとき彼は、ひとつの才能を開花させていた。――それは、「敵」と「味方」を明確に分ける技術である。そこに一切の迷いはなかった。後ろで御託を並べている連中は、全員“敵”だ。敵である以上、攻撃してくるのは当たり前のこと。
合戦で東軍と西軍が分かれたとして、敵軍に攻められて拗ねるなど、馬鹿げている。
そんな前向きな思考を、甲斐は自然と身につけていた。
彼の目的はただ一つ。
一人でもいい、味方がほしかった。たった一人でも構わない。形振り構ってなどいられなかった。
だからこそ、甲斐は藁にも縋る思いで、由佳に話しかけ続けたのだ。
だが、敵も容赦はなかった。
ある日、いつものように由佳へ話しかけようとした瞬間、彼女の周囲を“敵”が取り囲んでいた。これでは近づこうにも近づけない。強引に押しのけようとしたが、多勢に無勢。到底、敵うはずもなかった。
甲斐は授業中、スクワットをしながら作戦を練り、ついに実行に移す。
手段は単純明快だった。取り囲んでいる奴らに、唾を吐きかけたのである。
――失ったものは多い気がする。だが、それでも由佳に話しかけることには成功した。
当然のように大問題となり、停学処分が下された。
それでも甲斐は気にも留めず、学校へ通い続けた。
すると次に、敵は由佳の聴覚を封じた。
ヘッドホンをつけ、しかもそれをガムテープでぐるぐる巻きにするという徹底ぶりだ。
甲斐はそれを律儀に取り除き、ヘッドホンを外した。
「いっ……!」
由佳の耳から血が流れ出ていた。
ヘッドホンの内側には、鋭い刺が仕込まれていたのだ。
にもかかわらず、周囲の生真面目病たちは、なぜか甲斐を責め立てた。
――理不尽極まりない話である。
保健室に連れて行かれた由佳は、戻ってきたとき、包帯ではなく再びヘッドホンをしていた。
もはや異常としか言いようがない。
だが、それでも甲斐はめげなかった。翌日、彼はヘッドホンに穴を空けて、再び話しかけたのだった。
これだけの苦労を重ねても、肝心の由佳は依然として無表情のままだった。
甲斐は思い悩む。
――あの日の由佳の反応は何だったのか。
――なぜ、あのときだけ彼女は、あんなにも溌剌と話していたのか。
自室で頭を抱えていたとき、ふと視界の端に、あの日彼女が熱く語っていたゲーム『モンクエ』のソフトが映った。
何気なく手に取る。
しばらく使用していなかったそれは、薄く埃を被っていた。
『モンクエ』――それは、甲斐が小学生の頃に流行ったRPGだ。
勇者であるプレイヤーが冒険を重ね、村で悪さをするモンスターたちを退治し、最終的には魔王を打ち倒すという王道の物語。
一時期、甲斐も随分とハマっていた。
どうしようもない現状に嫌気が差し始めていた彼にとって、気晴らしになるにはうってつけだった。
甲斐は夜通し、夢中でモンクエをプレイし続けたのだった。
その翌日、ついに甲斐は成果を上げた。依然として執拗な嫌がらせをかいくぐりながらのことだった。
「昨日、久しぶりにモンクエしたんだけどさ。バーデンがどうしても勝てねぇんだよな」
頭から冷水を浴びせられつつ、甲斐は由佳に声をかけた。
「そうなの?バーデンを倒すには、まず尻尾を切らないとだよ。一番手っ取り早いのは、サーベルを使うことかな」
その言葉は、今までの由佳とまるで別人だった。
これまで石像のように微動だにしなかった頬が、わずかにほころぶ。
伏せられていたまつげが持ち上がり、黒目がちの瞳がきらりと光を宿す。
声には、授業中に見せた“あの抑揚”が戻っており、弾むようなリズムを刻んでいた。
椅子に座る姿勢さえ自然と前のめりになり、指先が小刻みに動く。まるで、語らずにはいられないと言わんばかりに。
由佳が突然、生気を取り戻したかのように溌剌と答えたのだ。
その瞬間、悪臭のするストッキングを顔に被せられながらも、甲斐は驚きに目を見開いた。念願が叶った喜びで、テンションが一気に跳ね上がる。
「えっ、あっ……そうなんだ。モンクエ、結構やってる?」
胸がどくどくと鳴り、体の芯が熱くなる。
背後では「キャー痴漢よ~!ヘンターイ!キモッ!」と悲鳴が飛んでいるが、甲斐は意に介さない。
「うん。だってわたし、もう殿堂入りしてるよ。何回やっても飽きないんだ」
由佳ははにかむように微笑んだ。
「わかるわかる。ところで、モンクエ以外には何やってんの?」
その問いに、由佳の表情がすっと消える。
「他はなにもやってない」
返答はあったが、いつもの冷淡な口調に戻っていた。
突然の変化に面食らった甲斐は、慌てて話題をモンクエへ戻す。すると、由佳は再び陽気になった。
――その時、ようやく法則に気づいた。
由佳はモンクエの話題にだけ、食いつきが良い。
それがわかった甲斐は、この日から徹底して由佳にモンクエの話を振るようになった。家に帰れば一晩中モンクエをして翌日の話題集めに励む。母親から娯楽全般禁止の勧告を受けていたが、単細胞な母親の目を盗んでゲームをすることなど造作もなかった。
授業中は睡眠時間の確保に充てられた。
そんな生活をしばらく続けることになる。
なお、依然として甲斐への嫌がらせは続いている。だが、毎回その説明を挟むのは面倒だし、そもそも甲斐にとっては雑音レベルで、話の進行にも支障をきたす。
よってここで一旦、消しゴムで消しておく。
今後も背後でガヤガヤやっているものと思っていただければ差し障りない。とにかく、毎回馬鹿丁寧に触れるのはやめておく。
甲斐にとって、由佳との会話だけが唯一の生きがいになっていた。
次第に、休み時間だけでなく下校の道まで一緒に歩くようになる。
話題がモンクエ一本に限られているのは少々不便ではあったが、孤独に苛まれた時期を思えば、由佳と交わす言葉のひとつひとつが甲斐にとっては至福そのものだった。
「モンクエ3までしか持ってないんだよな。今はいくつまで出てるの?」
「今は6まで出ているよ。3までしかやってないんだ。それは勿体ないよ。今度貸してあげる。あっ……でも6は今やってるから、5でもいい?」
「うん、いいよ。ありがとう」
しかし、由佳がモンクエ5を持ってくることはなかった。
彼女が“正常”になるのは、あくまで甲斐とモンクエの会話をしている時だけ。自宅に戻れば、彼女は完全に生真面目病の患者へ戻ってしまうのだ。
当初、甲斐はモンクエの話題だけでも満足していた。
だが、人間は欲深い生き物である。
“話せるだけで幸せ”だった気持ちは次第に薄れ、どうにかして関係の幅を広げられないかと考えるようになっていった。
そこで甲斐は、意を決して提案した。
「……一緒にモンクエしないか?」
由佳は驚くでもなく、けれどどこか嬉しそうに目を瞬かせ、自然な笑みを浮かべて言った。
「誰かとゲームなんて久しぶり」
その声には、普段では考えられないほどの温度があった。
彼女は頬に手を添えて少し照れたように視線を落とし、靴のつま先で地面をこつんと蹴る。
その仕草は、まるで約束の瞬間を味わうようでもあり、次の言葉を心の中で反芻して噛みしめているようでもあった。
横顔にもわずかな紅が差し、唇が弧を描いている。“嬉しい”という気持ちが、そのまま表情となって溢れ出ていた。
その光景を見た瞬間、甲斐の胸は大きく高鳴った。身体の奥が熱を帯び、それがはっきりとした形で自覚へと変わっていく。
――ああ、俺は彼女が好きなんだ。
甲斐はそのとき、はっきりと自覚したのだった。
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