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甲斐邦也は、クラスの人気者だった。
底抜けに明るい性格で、休み時間になれば自然と人が集まってくる。教室の一角は、いつも笑いと雑談の渦に包まれていた。
流行のファッションから、先生たちの噂話、くだらない一発ギャグまで——。話題の中心はいつだって彼だった。
「おい、聞いたか。秋本先生と山沢先生、不倫してるらしいぞ」
歩く拡散機・甲斐邦也。彼がひとたび噂を流せば、瞬く間に校内全域に広まる。まさに情報の伝染源であり、だからこそ厄介でもあった。
「かいー、どうしよう。さっきの問題、全然わからなかったー」
小テストのあと、友人が泣きついてくる。そんなとき彼は、悪びれもせずに誤答を堂々と口にするのだ。
「捕虜になったナポレオン三世が、“朕は国家なり”って言ったんだよ」
集まったクラスメイトたちは、当然ながら笑いながら訂正する。
しかし、そこには責める色などない。
むしろ、彼の口から飛び出すその“間違いっぷり”こそが、場を明るくする一種のスパイスになっていた。
そんな彼は、クラス委員長を務めていた。
もっとも、委員長としての自覚など皆無で、悪ふざけに全振りしていた。
合唱コンクールの選曲会議では、合唱なのにロックバンドの曲ばかりを羅列。文化祭の出し物を決める際には、「十八禁を解禁しよう」と真顔で提案する始末である。
当然ながら、一部の真面目な生徒たちからは冷ややかな視線を浴びていた。
だが、クラスの多数派はアホばかりだった。
結果として、彼の悪ふざけはむしろ人気を博し、クラスの空気を支配していた。
(ちなみに、実際の進行や調整は副委員長がすべて取り仕切っていた。)
異性からの人気もそれなりにあった。
恋人こそいなかったが、誰にでもフランクに接する性格から、女友達は多い。軽口を叩いては、「もう甲斐くんたら~」と肩を叩かれ、その心地よさを覚えてからというもの、彼はますます“道化役”に磨きをかけていった。
学校が楽しくて仕方がない。
——甲斐邦也の学園生活は、まさに薔薇色そのものだった。
だが、その日常は、ある日を境に唐突に終わりを告げた。
甲斐自身にも、なぜそうなったのか分からなかった。
最初のうちは、クラス全員に嫌われるようなことをしたのだと思い込み、反省してふざけるのを控えたりもした。
けれど、どうにも腑に落ちない。
それが原因ではないことに、あの鈍感な彼ですら、次第に気づき始めていた。
——あまりにも、不可解なことが多すぎたのだ。
まず、休み時間が訪れても、誰一人として席を立つ者がいなくなった。たまに立ち上がる者がいても、それは用を足すためだけで、済めば寄り道もせずに自席へ戻る。
自分を避けているだけなら、まだ分かる。だが、自分以外の席で騒ぐ者すらいないのだ。
本来なら、仲間外れの定番といえば「わざと仲良しアピールをして見せつける」こと。
しかし、そんな嫌みすらない。教室全体が、まるで呼吸を忘れたように静まり返っていた。
さらに異様なのは、授業中だ。
どんなに舐められている教師が相手でも、私語ひとつなく、全員が姿勢正しく板書を取っている。欠伸も、居眠りも、咳払いすらない。
この学校は区内屈指の“お馬鹿高校”である。真面目に授業を受けるなど、もはや奇跡に等しい。
それなのに——ある日を境に、突然すべてが変わった。
当然、甲斐のいつもの誤答にも、生徒たちは一切反応を示さなかった。
教師だけが冷めた声で淡々と正解を述べ、再び沈黙が戻る。
教室の空気は、冷たく、硬質だった。
まるで、そこにいる全員が機械仕掛けの人形にすり替わってしまったかのようだ。
——いや、これはクラスだけの話ではなかった。
街へ出ても、テレビをつけても、誰もが同じ顔で、同じ口調で、同じように真面目だった。
日本中の人々が、一夜にして“真面目で無機質な存在”へと変貌していたのだ。
もう一つ、クラスに変化があった。
ずっと不登校だった君塚由佳が、何事もなかったかのように登校してきたのだ。
由佳は、甲斐にとって特別親しい存在ではない。
ただのクラスメイトの一人。
それでも、半年近くも休んでいた彼女が突然現れたことに、甲斐はどこか漠然とした引っかかりを覚えた。
かつての由佳は、陽気でよく笑う少女だった。
だが、今の彼女は——まるで別人だった。
表情は、氷のように固まっていた。笑い皺ひとつ見当たらず、まぶたの動きすら極端に少ない。頬は血の気を失い、白いというより、薄い灰色を帯びている。その肌は蝋細工のように乾き、触れれば粉を吹きそうだった。
姿勢は直立不動。
まるで誰かに背骨を支配されているかのように、ピクリとも動かない。机に座る姿は、教師の指示を待つマネキンそのものだった。
髪は伸び放題で、乾いた藁のようにパサついている。不自然に前へ垂れた前髪が、彼女の表情を覆い隠していた。わずかに覗く眼差しは——濁った水の底のように虚ろだった。
そこには焦点も意思もなく、ただ“見る”という行為だけが残っている。
声も出さない。笑いも、咳も、ため息すらない。呼吸しているのかどうかも疑わしいほどに静かだった。
動かぬ唇の隙間からは、ほのかに乾いた鉄の匂いがした。その異様な雰囲気に、甲斐は思わず息を呑んだ。
——それは、もう「人間」ではなかった。
“生徒”と呼ぶには生気がなく、“死体”と呼ぶには温もりが残っている。
そのどちらでもない、曖昧な存在。
甲斐の目には、彼女が「人間の形をした生物標本」のように映っていた。
最初のうち、甲斐も周囲の歩調に合わせて“真面目”に授業を受けるふりをしていた。
だが、中学三年間で培ったサボり癖は根深く、
次第に窓の外をぼんやり眺めたり、机に突っ伏して居眠りするようになっていった。
そして、それを境に——風向きが変わった。
クラスメイトたちの視線が、明らかに冷たくなったのだ。
最初は無視。次に、無言の注意。そして——暴力へ。
居眠りしていた甲斐の背中を、後ろの席の男子が無言で蹴り上げた。
椅子の脚がガタンと鳴り、教室の空気が一瞬だけ揺れた。
だが、誰も声を上げない。
誰も笑わない。
続いて、前の席の女子が、ペットボトルの水をゆっくりと甲斐の頭にぶちまけた。
氷のように冷たい水が髪を伝い、制服の襟元を濡らしていく。その動作は、怒りに任せたものではなかった。まるで掃除の一環であるかのように、整然とした動きだった。
抗議の声を上げても、返ってくるのは沈黙だけ。
誰も彼を見ようとしない。
彼らはただ、ノートに視線を落としたまま、鉛筆を動かし続けている。その筆記音だけが、やけに大きく響いた。
甲斐が立ち上がろうとした瞬間、複数の手が無言で彼の体を押さえつけた。
机の角に肩がぶつかり、痛みに呻く。
誰かの靴が腹を踏みつけた。
それでも彼らの表情は、冷ややかで、整っていて、歪んではいなかった。
——それでも、誰も笑わない。
そこに嘲笑も、悪意も、感情の揺らぎすらなかった。あるのは、ただひとつ。
無機質で、均質な正義感だけ。
「怠惰は罪だ」
「不真面目は病だ」
彼らの瞳には、そう刻まれているように見えた。
甲斐を責め立てるその手は、殴打のためではなく、矯正のため。暴力は懲罰ではなく、教育の一環なのだ。
——少なくとも、彼らにとっては。
この行為は“いじめ”ではない。
“秩序の是正”であり、社会的使命であり、善行であった。
彼らは、正しいことをしている顔をしていた。
その顔は、どこまでも穏やかで、恐ろしいほどに整っていた。
教師も同様だった。
居眠り防止と称し、やたらと甲斐を指すようになった。答え終わったそばから、また指される。授業中、何度も立ったり座ったりを繰り返し、終盤には足が震え、汗が滲む。
それはもはや学習ではなく、強制的スクワットの刑である。
退屈と苦痛しかない日々。
笑い声の消えた教室で、甲斐邦也の心は、ゆっくりと蝕まれていった。
そんなある日、転機が訪れた。
それは、何の変哲もない授業中のことだった。
この日も甲斐は、例のごとく怒涛のように教師から指され続けていた。もはや、彼にとって授業は“知識の場”ではなく、“公開処刑の舞台”である。
「——では、ヤルタ会談に出席した三国の首脳を答えなさい」
教師の声が響いた瞬間、甲斐の頭は真っ白になった。
数秒の沈黙ののち、彼は口走った。
「バーデン・チャージー・ダブリン!」
教室に、かすかな空気の震えが走る。それは笑いでも、驚きでもない。
ただ、全員が同時に息を飲む音だった。
普段なら、教師が冷淡に「違います」と言って終わるはずだった。
しかし、この日は違った。
「——それ、モンクエの魔王ドルーマンの上級手下だよ。ヨルとローンスイが抜けてるけど。わたしは全部倒したよ。悪魔キラーを使えば結構簡単なんだ」
声の主は——君塚由佳だった。
その声は、どこか懐かしかった。
抑揚があり、温度があり、ほんの一瞬だけ“生きている人間”の音をしていた。
彼女の唇が、わずかに笑みに似た形を描く。
それは、心からの笑顔というよりも——記憶の底から掘り起こした、かつて“笑っていた頃の名残”のようだった。
教室が静まり返る。
鉛筆の音が途絶え、誰も息をしない。
ただ、由佳の言葉だけが空気を切り裂くように響き渡っていた。
教師は、ゆっくりと顔を上げた。
その表情には、感情の起伏というものが一切存在しなかった。
目は濁りも光もなく、まるで印刷された絵のようだ。眉は動かず、口元は真一文字に固く閉ざされている。
「——君塚」
その声は静かで、温度を欠いていた。
怒鳴り声ではない。だが、なぜか寒気が走る。鉄を擦るような無機質な声音が、教室全体に広がった。
「授業中に、ゲームの話をしてはいけません。……理解できますね?」
淡々と、ただそれだけを言う。
そこには嘲笑も皮肉もない。機械のように感情の欠けた忠告だった。
由佳は、はっとしたように目を瞬かせた。
先ほどまでの生気は消え、表情がゆっくりと凍りついていく。
口角は下がり、瞳から光が抜け落ちた。
まるで魂を抜かれたかのように、俯いたまま謝罪の言葉を繰り返す。
「……申し訳ありません」
その声は機械的で、どこか録音された音声のようだった。
甲斐は、彼女の変貌をただ呆然と見つめていた。
——ほんの数秒前まで、彼女は“人間”だった。
たった一言、笑って話しただけで、それを取り戻しかけていたのに。
それが今、音もなく削ぎ落とされていく。
それ以降、彼女の表情からは完全に光が消えた。
あれほど生気を取り戻しかけていた顔が、再び無機質な仮面へと戻っていく。
その変化を目の当たりにして、甲斐の胸にかすかな痛みが走った。
——彼は、期待していたのだ。
自分以外にも「おかしい」と思っている者がいると。
誰かが声を上げれば、世界は変わるのではないかと。
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