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さて、邪魔者がいなくなり、駿河は悠々と家の中へと足を踏み入れた。
他にも生真面目病の者が潜んでいる可能性を警戒し、玄関先で「失礼します」と声を掛けたが、返答はない。
仕方なく、彼は靴を脱ぎ、慎重に二階へと続く階段を上った。
そして、二階の踊り場に辿り着いた瞬間——背筋に冷たいものが走った。
三つ並んだ扉のうち、一つだけが、明らかに異様だった。
他の二枚は木製で、日焼けして黄ばんではいるものの、どこにでもある平凡な扉。
しかし中央のその一枚だけは、まるで別の世界に通じているかのような“異質な空気”を放っていた。
周囲の壁には、びっしりと悪霊退散の御札が貼り付けられている。
重ね貼りされたものもあり、剥がれた下からさらに古びた札が覗いている。墨文字は滲み、紙は日焼けで変色していたが、貼られた当人の“恐怖”だけは生々しく残っていた。
扉そのものは分厚い鉄製。
人ひとりを閉じ込めるためだけに造られたような、無骨な鉄扉だ。取手は根元から折れ、手で開けようとしてもびくともしない。
——おまけに、下部には二リットルのペットボトルが通るほどの穴が開けられていた。形は雑で、まるで即席でドリルを使って穿たれたようだ。開口部の縁には擦れた跡と焦げ跡があり、使われ続けていることが見て取れる。
駿河はその穴に目を凝らした。
薄暗い中から、かすかに“カチャリ”という金属音が漏れ聞こえる。まるで鎖のような、機械のような、正体の掴めない規則的な音。
聞き続けるうちに、背中を冷や汗が伝った。
——まるで、この一室だけが「外界を拒んでいる」かのようだった。
ちなみに、その開口は食事口として使われている。おそらく、内部の住人はこの穴から皿やコップを受け取るのだろう。その証拠に、床の隅には古びたプラスチック容器の欠片が散らばっていた。乾いた米粒がこびりつき、腐った臭気がわずかに漂う。
扉の向こうに“生活”がある。
だが、それは人間の営みというより、何かを封じ込めた実験のようでもあった。
駿河は先ほどの失敗を思い出し、慎重に確認しようとした。
「ガラクタ、ここで合ってるんだよな?」
しかし、肝心の私は悪ふざけに徹して無言を貫いた。
——この神、肝心な時ほど役に立たない。
駿河は早々に諦め、息を飲んで扉の方を見つめた。
喉が渇き、唾を飲み込む音だけがやけに大きく響く。
恐る恐る口を開いた。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
その瞬間——
ガタン! 室内から、何かが床に落ちる音。
続いて、低い男の声が響いた。
「は?誰?」
突然の声に駿河の心臓が跳ねる。
部屋の主も驚いたに違いない。
何しろ、誰も入ってこないはずの自室の前から、いきなり知らない声が飛び込んできたのだ。
駿河は慌てて身を正し、泥棒ではないことを懸命にアピールした。
だが、室内の主は警戒を緩める気配がない。息を潜め、こちらの出方を窺っているのが気配でわかる。
「失礼ですが……あなたは、不真面目病の患者さんですか?そう伺って、お話を——」
返答はない。
沈黙が落ちた。家中を、耳鳴りのような高周波音が支配する。
室内からは、かすかな動作音。何かを引きずるような、擦れるような音。時間にして一分、二分。だが、永遠に思えるほど長かった。
やがて、痺れを切らしたのは駿河のほうだった。
「うん。帰ろう」
踵を返そうとした瞬間、目の前に私が立ちはだかった。
「だめー。帰っちゃだめー」
私の身体がぐにゃりと膨張し、駿河の進路を完全に塞いだ。
脇をすり抜けようとすれば、その方向に合わせてウネウネと変形する。
「おい、やめろ!」
怒鳴りながら体当たりを試みるが、私の身体はまるで鋼鉄の壁。人間の力で突破できるはずもない。
——こうして、神と人間による不毛な攻防戦が繰り広げられた。
その最中、ようやく鉄扉の向こうから声が上がった。
「な、なにをガタガタ騒いでいるんですか!どちらにしても、僕はこの部屋から一歩も外に出るつもりはありません!とっとと帰ってください!」
声を震わせながら、室内の主が訴える。
突然の来訪者が自室の前で暴れているのだ。怯えるのも無理はない。
私は扉越しでも、その光景を見通すことができた。
布団を頭まで被り、身を小さく丸めた青年。狭い六畳間の隅で、膝を抱え、全身を小刻みに震わせている。
「俺も帰りたいんだがな……帰らせてくれない奴がいるんだよ」
駿河は苦笑しつつ、壊れた取手をカチカチと弄んだ。
「とりあえず、一回開けてくれませんか?取手が壊れてて、外からじゃ開かないんですよ」
その音に、室内の主はびくりと反応した。
「ひっ……!」という小さな悲鳴が、扉の隙間から漏れ出る。
「嫌です!僕はこの部屋から一歩も出ないと、固く誓ってるんです!」
駿河は、ため息をついた。
そして恨めしげに、私を睨みつけた。
「だとよ。拒まれてしまった。これ以上は不法侵入の迷惑行為だ。引き下がろう」
「ダメダメ。彼を部屋から連れ出すまでがミッションなのだよ」
駿河は舌打ちした。
「それは初耳だな。お前はいつも説明不足なんだよ」
渋々ながら、駿河は扉の前にしゃがみこみ、交渉を試みた。
だが、室内の主は断固として動かない。
「僕はこの部屋から絶対に出ない。僕はあの日、固く誓ったんだ。ここで部屋から出てしまったら、僕は負けたことになる。これは己との闘いなのだ。邪魔しないでくれ。働いては負け、働かなくても飯はうまい。ニートは一日にして成らず——かつての偉人の言葉を胸に、僕は果敢に立ち向かっているのだ」
「おいガラクタ!お前、また出鱈目を言いやがったな!
どこが勇敢なんだよ、ただの引きこもりじゃねぇか!」
「そうさ。だから勇敢なんじゃないか」
……補足しよう。
彼こそが人類最後の引きこもりである。
かつては一世を風靡した引きこもり勢も、今ではすっかり姿を消した。百万に及ぶ勇敢たる同胞たちは、次々と働いてしまったのだ。そんな中で唯一、今日まで“牙城”を守り抜いているのが、彼。
ゆえに、彼は人類最後の聖戦士——引きこもり界の最後の砦である。
さらに言えば、引きこもりには神秘的な意義がある。
古来より偏見の対象とされてきたが、それは神への冒涜に等しい。
なぜなら——初代引きこもりは、天照大御神その人なのだ。つまり、引きこもりを笑う者は、天照を笑う者。それは万死に値する不敬行為である。
……あっ、馬鹿になどしておりません!痛い!痛い!やめ——!
……なぜか叱られてしまった。さて、仕切り直そう。
駿河は交渉を諦め、扉を背凭れに腰を下ろした。深い溜め息をつき、私を恨めしそうに見上げる。
私は鉄壁の体勢のまま、知らん顔をした。
「なにで寛いでいるんです? 出てってください!」
室内から抗議の声が上がる。だが、駿河も私も無反応を貫いた。
結果として、それが室内の主の恐怖心を煽ることになった。
呼びかけの声は次第に大きくなり、やがて半ば悲鳴に変わる。
——なぜ誰も返事をしない?
——まさか罠か? 精神攻撃か?
部屋の主は、一人勝手に心理戦を繰り広げていた。
もっとも、駿河に深い意図などない。ただ、面倒くさくなっただけだ。
「ねぇねぇ、なんで僕が引きこもったのか、聞かないの?」
沈黙に耐えかねた室内の主が、ついに口を開いた。
しかし、駿河はこれすら無視した。
「あっそう。どうせ興味ないんだろ。これ、新手の嫌がらせだな。俺はゲームでもやるから。そこに居たいなら勝手にすればいいさ。バーカ」
そう吐き捨て、室内からゲーム音が漏れ始めた。
ピコン、カチカチ、ガチャガチャ。
駿河は無言で天井を見上げ、私は相変わらず無意味に浮いている。
…………………………………………………………………………………。
数時間が経過した。
駿河は依然として扉に寄りかかったまま、動かない。
室内の主はコントローラーを握りしめ、夢中でボタンを叩いている。
その顔は穏やかで、先ほどの怯えは跡形もなかった。
——現実逃避。
それこそが、彼の最強スキルである。
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